2023年8月27日 聖書:マルコによる福音書6章53~56節「いやしをするイエス」大薮善次郎牧師

 キリスト教は全てを肯定する宗教である。本日のテキストは、そのことを表している。イエスのおられる所に、弱い人や病人を連れてくる。連れてくる人はどこの誰かもわからない。連れてこられる人も弱っている人とだけ書いてある。とにかく、イエスに信頼している人たちだ。不特定多数の人々だ。その人々がイエスにさわるだけで癒される。
 ここを読んで、ペラギウスという人は、無神論者であっても救われると言った。しかし同時代のアウグスチヌスは、信仰なき知性は本物ではないと言って反論した。これがペラギウス論争と言って二十六年間続いたといわれている。しかし、416年ペラギウスは異端として教会を追い出された。
 現代はコンピューターの時代である。それは一神教の発想が生んだ科学技術だと言われている。なぜなら、一神教的世界観は、創造主から始まって、世の終わりまでの一直線を行く進歩主義だからである。
 そこでは、いつも答えを見い出すことが求められるからだ。AIというのは、まさにすぐ答えを見つけるものだ。その答えというものは、どんな経路を通って出されたかは不明だ。だからその答えが本物かどうか、疑ってみる必要がある。
 多くの人はイエスの衣にふれただけで癒されたという。まさに信仰が与えられているからこそ、答えを得ることが癒しとなった。アウグスチヌスが「信仰なき知性は本物ではない。」と言ったのは、我々の生命が神の一方的な愛によって生かされているからである。我々は常に神の恵みの中にある。日々感謝して歩んでいこう。

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