2023年9月3日 聖書:エフェソの信徒への手紙6章10~16節「神の武具とは」豊田 護兄

 50年以上前にこの言葉を信じて洗礼を受けました。何が今まで私を守ってくれたのかよく分かりません。改めて50年ぶりに考えてみました。ここは教会で、ここで話をしているわけですから、「神の武具」は信仰であり教会と言うのが建前ですが、そんな嘘はとても言えません。

 教会は人が作る組織で集まりですから、色々な人がいます。尊敬できる人そうでない人、すごいなと思う人口ばかりの人、よく働く人働かない人と様々な人の集まりですから、守られているという実感より、守らなければという気持ちの方がいつも思う気持ちです。特にこの教会にきて、何とかつぶさずに守らねばという思いばかりです。

 それでは、私のまわりにずっとあり、裏切らず正直でありつずけたものはと考えると「音楽」がありました。今までに何百回と演奏会をくりかえし、そのために練習を繰り返し作曲をしてやってきました。それでも「今日は満足」などという演奏はほとんどありません。「演奏」は嘘はつきません。人が何と言おうが自分自身が一番分かっていますから、ごまかしはききません。先日もコンサートが終わり、月曜から新しい曲の練習が始まりました。こう考えると、「音楽」も守りには程遠く、逆に学習と練習を繰り返し守っていかなければならないものでした。

 考えると「神の武具」とは、守ってくれるものではなく「守り続ける」ことなのかもしれません。なんだか騙された気がしますが、それほど不愉快ではありません。

聖書のお話