2023年9月10日 聖書:イザヤ書29章13~14節「生きるという事」豊田 護兄

 色々な人が生きています。懸命に頑張って生きている人もあれば、そうでない人います。仕事の関係上色々な人に関わってきました。重度の障がいかかえ、寝たきりで呼吸器をつけ介護する家族は、安心して眠ることもでない中でも、深い愛情に支えられ懸命に生きている人たち。方や子どもの障害年金を目当てに、働かずに楽に生きようとする人。腹が立ちますが、両方の生き方を神様は黙ってみています。懸命に生きている人の「生きる」価値や意味は分かりますが、もう片方の生き方に意味があるのでしょうか。私には分かりません。

 50年前、羊水の検査によって胎児の障がいが認知できはじめました。産むか産まないか、もし生まないのなら、障がい者には生きる権利はないのか、障がい者が生きる意味はなんなのかと、熱い議論を交わしました。

 友人の中に重い障がいをもち寝たきりで一人で暮らしている人がいます。年金と生活保護で、毎日ヘルパーさんに助けてもらいながら、明るく元気に暮らしています。月に何度か世間話に行きますが、学ぶことが沢山あります。先日も、「このまま腎臓が悪くなって透析になったら、やっと一人前の障がい者になれると」笑いながら話しました。

 毎週火曜日に重度の障がいの人の施設に手伝いに行きます。そこに、Kさんがいます。いつも紙をくちゃくちゃして遊んでいますが、とても音楽が好きで、先日ブラームスのピアノの間奏曲とパガニーニのヴァイオリンの独奏曲を聞かせると、大喜びで真剣に聴いていました。なんとも素晴らしい感性です。いつも色々なことを学びます。

 kさんも友人も、今の世の中の価値や、損得の世界とは違う世界で生きています。神様はそのことを、私たちに伝えるためにkさんや友人をおつかわしになったのでしょう。

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