2023年9月24日 聖書:マルコ福音書4章35~41節「向こう岸に渡ろう」岡田博文兄弟

 本日のガリラヤ湖で嵐を静める物語は、この後の第5章から始まる一群の奇跡物語の最初に位置しており、「自然奇跡」と呼ばれています。
 主イエスが弟子たちと一緒に小舟に乗って、ガリラヤ湖の向こう岸に渡ろうとされた時、突然、襲ってきた激しい嵐をお静めになったという出来事は、主イエスが人間の力ではどうすることも出来ない自然の力さえ、支配する力を持った方であることを示す奇跡です。
 この物語は、激しい迫害の嵐に苦しむ初代の教会の人々を力づけ励ましました。私たちもこの記事を通して、人生の厳しい嵐を乗り越えて生きるために、なくてはならない力は何であるかを00考えたいと思います。
 35節、「その日の夕方になって、イエスは、『向こう岸に渡ろう』と弟子たちに言われた」とあります。向こう岸に渡るためには、海を越えていかねばなりません。聖書の中に「海」という言葉はよく出て来ますが、それは「不安」を表すことが多い。私たちの信仰生活もこの不安を越えることなしに、向こう岸に行くことはできない。イスラエルの人々が神に愛されておりながら、神の約束の地に行くためには、荒野をさまよわねばならなかった。それと同じように、私たちが信仰の向こう岸に行こうと思う時、絶えず不安が起こる。私たちは、不安と恐れで、岸辺にしがみつく。風が吹いても、岸にいる間は自分の身は安全であり、不安はない。多くの人々は自分の身の安全を考えて渡らないのです。
 向こう岸とは次の第5章の話から分かるように、異邦人の土地でした。当時、ユダヤ人たちは異邦人と関わることを避けていました。しかし主イエスは、神の国の福音を伝えるために、積極的に異邦人の地に向かおうとします。ここで弟子たちの本音はどうか。本当は行きたくなかった、見知らぬ土地の見知らぬ人たちのところに出掛けてゆくのですから、そこには不安があった。先生が言うから、仕方なく舟を出したのです。
 ガリラヤ湖は周りがわずか21キロメートルばかりの美しい丘に囲まれた、静かな湖ですが、気象条件が不安定で、しばしば突風が吹き荒れて漁師たちを悩ますということです。同じ出来事について記しているマタイによる福音書8章24節では、「湖に激しい嵐が起こり」、口語訳では「突然、激しい暴風が起こって」となっています。この嵐、暴風という言葉は「地震」という意味を持っています。大地震のように、突然襲い掛かって私たちの生活を土台から揺さぶるような災害のことです。
 私たちも現在の安定した幸せな生活が突き崩され、将来の夢や計画がすっかり狂ってしまうような出来事に、いつ出くわさないとも限りません。そのような人生の嵐を乗り越えて生きる力を与えてくれるものを、拠り所を、私たちはどこに見出すことができるのでしょうか。
 向こう岸に渡ろうと言われた主イエスの言葉を聞いて、舟を乗り出す時、そこには激しい突風が起き、そして舟は沈みそうになる。しかし主イエスは艫(とも)の方で安らかに眠っている。
ここには、穏やかに眠っておられる主イエスと、突然の嵐に恐れ慌てる弟子たちとの対照的な姿が、実に見事に描かれているではありませんか。
 38節、「弟子たちはイエスを起こして、『先生、私たちが溺れてもかまわないのですか』と言った」。この言葉の中に弟子たちの驚き慌てふためいている様子がよく描写されています。彼らの多くは漁師として湖の気象条件についての知識と、嵐の中で舟を操る経験や技術を、十分持ち合わせていたに違いありません。しかし心の準備をする暇もなく、突然襲い掛かって来た災害の前には、彼らが持っていた知識や経験は、全く何の役にも立ちません。彼らは自信を失って、ただ慌てふためくばかりでした。
 39節、「イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪(なぎ)になった」。「黙れ」という言葉は、1章25節、「イエスが、『黙れ、この人から出て行け』とおりになると、汚れた霊は大声を上げて出て行った。」とありますが、ここで使われた「黙れ」と同じ言葉がもう一度ここでも使われています。聖書は、つまり、マルコ福音書を書いた記者は、主イエスが汚れた霊を支配するだけでなく、自然界をも支配するこの世の主権者、大いなる権威を持ったお方であることを、聖書を読む私たちに示そうとしているのです。
 「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」(40節)
 以前、信じることの反対は、諦めや絶望だとお話ししましたが、ここでは「信じる」ことの反対は「恐れ」なのです。「信じる」はギリシャ語で「ピスティス(πίστις)」。普通「信仰」と訳されていますが、「信頼」という意味もあります。聖書の中で「神を信じる」というのは、頭で考えて「神がいると思っている」というようなことではありません。そもそも聖書の世界では、神がいるのは当たり前なのです。その上で、ピスティスという時は、その神に信頼して生きるかどうか、ということが問われているのです。神に信頼しているなら、どんな嵐の中でも恐れることはない、それが「信じる」ことなのです。
 誰の心の中にも恐れはあります。もちろん、恐れが全くなければ無謀になるばかり、それは困ったものです。しかし、問題は恐れに囚(とら)われ、一歩も前に進めなくなってしますことです。あらゆることに尻込みして、やるべきことができなくなってしまうのです。このように、恐れには私たちの生き方を妨げてしまう面もあります。そのような恐れに打ち勝つ力、それが「信じること」なのです。
 この物語の大前提は、「向こう岸に渡ろう」(35節)という主イエスの言葉からスタートしました。主イエスが導かれる、先立たれる私たちの信仰の歩みは、たとえ嵐に出会ったところで微動だに変更されることはない、という証明なのです。
 41節「弟子たちは非常に恐れて、『いったい、この方はどなたなのだろう。風も湖さえも従うではないか』と互いに言った」とあります。
嵐の中で、神に見捨てられたような不安を持って、慌てふためいている弟子たちの舟には、ただ一言をもって、風も波も静める力を持ちたもう主イエスが共に乗っておられるのです。主イエスが私たちと共におられる限り、どんな時にも、私たちは神に見捨てられることはないのです。弟子たちを海に沈めて滅ぼそうとする嵐を静めて、彼らをお救いになった主イエスは、私たちを滅ぼす罪の力から、私たちを解放し、永遠の生命に生かすために、十字架にかかり、三日目に死人のうちから甦られたのです。
 風も海も従わせることのできる方こそ、私たちを生かしてくださる救い主です。この方を信頼して生涯をお委ねすることによって、どんな人生の嵐にも、たじろぐことなく立ち向かってゆけるのです。

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