2023年10月1日 聖書:出エジプト記3章14~15節「わたしはある」川本良明牧師

◎世の中には「神」が様々ありますが、それが本当の神ならば人間は知ることができません。もしも知ることが出来るのであれば、それは人間が造り出した神であるからです。天地の創造主で永遠の時間におられる真の神を知ることは、人間には不可能です。しかし神は、私たちのためにご自身の方から自分の名を名乗られました。それが先ほどお読みした<わたしはある>です。
 しかも神は、名前だけでなく、神ご自身が私たちと同じ人間となってご自分を現されました。この方こそイエス・キリストであって、彼もまたご自分を「わたしはある」と何度も語っており、天地の創造主である神と1つであることを明らかにされています。そこで神が語られた「わたしはある」とはどういう意味なのかを考えたいと思います。
◎<私はある、私はあるという者だ>とは、じつに不思議な言葉ですが、神がこの言葉をモーセに語られたということは、神が彼を特別に選び、自分の計画を進めるために用いようとされたからです。彼だけでなく私たちは皆、神から選ばれていて、人生の目標を与えておられます。だから神は私たちを誕生の時から覚えておられ、その年令に応じてふさわしい形でその人と連れだって歩まれながら、着実に目標に向かって導いて行かれます。そのように人は皆、神から見守られているのです。
 したがって聖書は、モーセについて、誕生からその生涯を紹介しているわけです。物語は出エジプト記2章から始まります。彼がヘブライ人の子として誕生したとき、古代エジプト帝国の支配は過酷をきわめていました。ところが彼はエジプトの王女に拾われ、幼児期を実の母とその同胞たちのもとで育てられた後、王女に引き取られ、王子として成長しました。しかしヘブライ人としての感情に動かされて、エジプト人を殺害し、追われる身となった彼は、異国の地で羊飼いとなり、家庭を持ち、平和な生活を送っていましたが、年月は過ぎ、今や老人となっていました。
◎3章1節に、<モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た>とあります。聖書は「荒れ野の奥へ行く」という短い言葉で、言い知れない孤独と無力感の中にあったモーセの心境を伝えています。このまま死を迎えることを考えると、自分のこれまでの人生は何だったのかとふり返っていたのではないでしょうか。気がつくと彼の足は、神の山ホレブに向かっていたのです。
◎しかしそういう彼だからこそ神は彼を用いようとされます。神は彼に近づきますが、いきなり語りかけず、彼の中にある燃えかすに火をつけました。知的な好奇心は、年令を問わず人を喜ばせます。ピラミッドや宮殿などの大建築技術を身につけていた彼は、柴の木が燃えるが燃えつきない不思議な光景に釘づけになりました。その彼に神は「モーセよ、モーセよ」と2回呼びかけます。ハッと気がついた彼に神は、「近づいてはならない。足から履き物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから」と言われます。「履き物を脱ぐ」とは「自我を捨てる」という意味です。モーセがこれ以上柴のことに深入りしないように命じたのです。
◎そして神は「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と語ります。それは彼にとって幼児期を思い出す懐かしい神の名前であって、なおさら虚しさを実感させるものでした。しかし彼の気持がどうであろうとまるで関係ないかのように、神は一方的に、今エジプトで奴隷身分とされたイスラエルの民が虐待され、苦しみ叫んでいると告げ、その彼らを解放するためにエジプトに行き、カナンの地に導き出すようにモーセに命じました。
 これを聞いて、おどろきまた恐れた彼は、強く拒みました。「私は何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」
◎すると神は彼に言いました。「私は必ずあなたと共にいる」と。じつはこの言葉の原文は「私はある、必ずあなたと共に」なのです。そのように命じられたモーセは、何とか神から逃げようとします。「イスラエルの人々のところに行きます。しかし、彼らは、あなたたちの先祖の神が、私を遣わされたのですと言っても、じゃその名は一体何だと聞くはずです。」
 すると神は、<私はある。私はあるという者だ」と告げたのです。しかしこの言葉は、すでに彼に告げていた「私はある、必ずあなたと共に」という言葉から「必ずあなたと共に」をはぶいて<私はある>と答えただけです。いったい神は何を言おうとしているのでしょうか。
◎世界の言語は、名詞を語根として形容詞や動詞などが派生しています。たとえば命や光などの名詞から「生きる」や「光る」などの動詞が生まれています。私たちは動詞によって事物の動作や作用、状態や存在が時間的に持続したり変化することを表現しているわけです。ところがこうした世界の言語とちがってヘブライ語の場合は、動詞が語根であって、動詞から名詞や形容詞などが派生しています。
 そこで、<私はある>についてですが、じつはこの<ある>というヘブライ語ハヤーという言葉は、旧約聖書に一万回以上も出てくる言葉です。というのは「ハヤー」は動詞の中の動詞と言われる言葉だからです。ですからハヤーは、一般に「~になる、生じる」と訳されていますが、それよりももっと強い、何か根源的な力において「存在し続ける、生き続ける」というべき言葉と言えます。そして今、天地万物の創造主である永遠の神ご自身がモーセに<私はハヤー>と告げているのです。
◎これを聞いたとき、モーセは圧倒されました。人生の終わりを考え、虚しさと孤独の中にあった彼にとって、<私はある>という言葉は、<あなたは生きよ>と聞こえたと思うのです。私もそうでした。
 じつは先月の終わりにコロナウィルスに感染した私は、肺炎となり、入院していました。そのとき、この言葉が繰り返し示されたのです。そして体調がやや回復して、リハビリのために病院の中を歩くようになりましたが、私自身にも、また入院患者に一生懸命に関わっている多くの人たちにも、まさに「生きよ、生きなければいけない」と神が語りかけているのを聞いたわけです。
 つまり<私はある、私はあるという者だ>とは、神が造られたすべてのものに向かって<生きよ>と語りかけている言葉であることを知ったわけです。そして同時に、聖書は最初から最後まで一貫して「希望に向かって生きよ」と語っている書物であることが分かったのです。
◎神はモーセにご自分の名を告げたのですが、神は名前だけでなく、神ご自身が私たちと同じ人間となってご自分を現されました。その方こそイエス・キリストであって、彼は天地の創造主である神と1つであることを示すために、何度も「私はある」と語りました。新約聖書はこの言葉を「エゴー・エイミー」と著しています。エゴーは「私」、エイミーは「ある」で、エゴー・エイミーは「私はある」です。
 そしてとくにヨハネ福音書において、イエスは<私はある>だけでなく、<私は~である>と告げるときはすべてエゴー・エイミーと語っています。つまり<私は命のパンである、世の光である、ぶどうの木、良い羊飼いである、甦えりであり、命であり、道であり、真理である。私がそれだ>と言うときは、必ず<エゴー・エイミー、…>と語っています。ですからイエスにおいては、きわめてはっきりとご自分を断言して<エゴー・エイミー>と語っているのです。
◎旧約聖書をギリシア語に訳した七十人訳聖書も神がモーセに告げた<私はある>をエゴー・エイミーと訳しています。イエス・キリストよりも千数百年も前に、神から<私はある>と告げられたとき、モーセはすでに80才の老人でした。しかし神は、全人類の救いのための先駆けとして、まず奴隷であったユダヤ人をエジプトから解放する使命を与えるためにモーセに呼びかけました。
 <私はある、私はあるという者だ>とは、まさに<生きよ!>という神の私たちに対する戒めです。天地創造の神は私たちに<生きよ>と言われます。これまでの人生がどうであれ、過去を一切問わない、常に前に向かって「希望に生きよ!」と命じておられます。そのために神は、いわばはっきりとこのことの裏付けとして、イエス・キリストを十字架の死から甦えらせられました。
 つまり神は、御子を十字架に死なせることによって死を滅ぼし、ご自分が<あってある者である>ことを示されました。神は御子の死によって死を根絶されました。神は命そのものであって、神が造られた天地万物は、命に向かっているのだということを知らねばなりません。
 神から召命を受けて40年経ったモーセは、約束の地に入ることはできませんでしたが、神から登れと言われたピスガの山の頂上に立って、「自分のふるさとはあそこだ」と思って天を仰ぎ見ました。私たちも今、ピスガの頂きで天を仰ぐモーセには及びませんが、しかし「生きよ!」という言葉は、天国にまで続いている言葉なのです。私たちは死で終わるのではなく、天国に行くのですが、「天国に行く」ということは地上における今の生活の延長なのです。つまり「生きよ!」という言葉は、地でも天でも聞こえてくる力強い言葉であることを感謝して受けとめたいと思います。

聖書のお話