2023年10月15日 聖書:ルカによる福音書23章42~43節「イエスは涙を流された」川本良明牧師

◎聖書の最初には、<初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。>とあります。この言葉は、単に天地の風景を一幅の絵に描いているのではありません。神が世界に語りかけた最初のすばらしい恵みの言葉です。
 なぜなら、私たちは神を知ることも見ることも聞くことも触れることもできないのに、神ご自身がその御座から語られたからです。
 つまり神は、混沌として形のない、虚無の空しい有様を見ておられます。また無秩序で、すべてを破壊しつくす力を持った闇が、深淵の水の面にあることを知っておられます。そして神は、それに逆らって、激しく活動されます。
◎<神は天地を創造された>という言葉と<神の霊が水の面を動いていた>という言葉を同時に聞くとき、単に「天地を創造された」というのではなくて、「つねに新しいものを創造しつづける」という、非常に動的な、ヘブライ語本来の「創造する・バラー」という言葉が響いてきます。
 なぜなら、ここには動詞の中の動詞である「ハヤー」つまり「存在し続ける、生き続ける」という言葉が、<地はあり><「光あれ。」こうして、光があった>と3回出て来るからです。
 つまり、神は光を創造して闇を退け、地が混沌であることを許さず、混沌を退けるために、まったく新しい形あるものを祝福のうちに創造されます。神は、天地万物のすべてが造られたものであり、すべてのものが偶然の存在ではなく神の作品であると語っているのです。
◎ところが、あらゆる被造物の中で人間だけは、神に背き、神に対して不信実かつ敵意を抱き対抗することで、神の作品を台無しにしてしまいました。そのために人間は、人間関係に苦しみ、老いることを悲しみ、病に苦しみ、精神と肉体は分裂し、死を恐れ、限りある人生を悲しみます。
 このような私たち人間を神は憐れみ、私たちをおおっている悲惨を全面的に引き受けるために、何と神ご自身が人間となることを良しとされました。そればかりか、人間が神に背き、不信実で敵意さえもっている被造物であることを知りながら、否、そういう事実を見るからこそ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで、私たちに代わって神の裁きを受けることを喜び給いました。このお方こそイエス・キリストなのです。
◎今日の説教題「イエスは涙を流された」のは、マルタとマリアという姉妹の弟ラザロが死んで墓に葬られて4日後に、そのラザロを墓から呼び出して復活させる直前のことでした。これを伝えているヨハネ福音書第11章を見てみたいと思います。
 ベタニア村からイエスの所に使いが来て、親しくしていたラザロが病気であることを伝えてきたとき、イエスは、<この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである>と語って、なお2日間同じ所に滞在されました。
 <この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである>と語っているのは、イエスが永遠の命を与えるお方であることを人々に現わすためでした。ですからイエスは、ラザロの死を察知した後、その行動を起こされます。すなわち弟子たちにラザロの死を告げ、彼らを伴ってベタニア村に赴いたのでした。
 村に到着すると、マルタがイエスを迎えます。そして「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださるお方であることを知っています」と訴えると、イエスは、「あなたの兄弟は復活する」と言われました。彼女が、これは一般にユダヤ人の間では信じられていたのですが、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言うと、イエスははっきりと、<私は復活であり、命である>と告げたのでした。このイエスの言葉を私たちも心にしっかりと受けとめたいと思います。
 そして、マルタが妹のマリアにイエスが呼んでいることを告げると、マリアは急いでイエスのもとに行き、「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」と訴えました。彼女も姉と同じ訴えをしたのは、じつにその悲しみの深さを現わしています。そして彼女が泣き、周りの人たちも泣いているのを見て、イエスは、<私は復活であり、命である>とは語らず、<どこに葬ったのか>と言われ、彼らが<主よ、ご覧下さい>と言うのを聞くと、ハラハラと涙を流されたのでした。そして、墓を前にしたイエスは、墓を塞いでいた石を除けるように命じ、天を仰いで祈った後、墓に向かって、<ラザロ、出てきなさい>と大声で叫ぶと、ラザロが布で巻かれたまま墓から出てきたのでした。
◎驚くべき喜びの出来事が起こったのですが、しかし、イエスはなぜ涙を流されたのでしょうか。この個所の前後をもう一度見てみますと、<彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚えた>と書いています。この後、イエスは涙を流されるのですが、人々が、「どんなにラザロを愛していたことか」とか「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言うのを知って、イエスは再び<心に憤りを覚え>ながら墓に行きます。
 これらのことから、イエスが涙を流されたのは、人々と同じようにラザロの死を悼み、悲しんだからではないことは明らかです。そうではなくて、むしろ、人々が死は避けられないのであり、死を当然のこととして受け入れている現実に対して憤り、涙したのではないでしょうか。
 彼が墓を塞いでいる石を取るように言ったとき、<主よ、四日もたっていますから、もうにおいます>と告げるマルタに、<もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか>と言っているのも同じことが言えます。なぜなら、<私は復活であり、命である。>と告げられているにもかかわらず、それをまったく否定するような彼女をたしなめているからです。
◎このことを考えるために、歌手のさだまさしがギターで歌っている「防人の詩」という歌の歌詞を紹介したいと思います。「教えてください この世に生きとし生けるものの すべての命に限りがあるのならば、海は死にますか 山は死にますか。…私は時折、苦しみについて考えます。…生きる苦しみと 老いてゆく悲しみと、病の苦しみ、死にゆく悲しみと。…答えてください この世のありとあらゆるものの すべての命に 約束があるのなら、春は死にますか 秋は死にますか 夏が去る様に 冬が来る様に みんな逝くのですか…」と歌い、最後に「愛は死にますか 心は死にますか 私の大切な 故郷もみんな 逝ってしまいますか?」と問うています。
 28才の時に作った曲ですが、じつに四苦の現実を鋭く歌い感動的です。しかし全体を通して、はかなさを感じます。やりきれないむなしさ、死、消滅、別れ、絶対に越えられない壁を前にして、すべての人と連帯して問うているのですが、それでいいのだろうかと思うのです。希望が見えないのです。
◎私たちは皆、神に造られた存在で、神の作品として、すばらしい人生を送ることが約束されています。しかし私たちは、私たちを造られた神を忘れ、神を捨てて、好き勝手に生きています。
 とはいっても人間は皆、神の作品であるかぎり神を必要としています。そのために人間を造った真の神に代わって、人間が造った神をそれに置き換えて生きていかなければなりません。ですからすべての人は宗教心を持っていて、例外なく宗教の中で生きていかねばならないし、生きています。
 しかし、宗教がいくら高尚で特別な境地に達して、人間の悪や罪を指摘し、それがもたらす苦しみや死の現実を指摘できたとしても、悪や罪そのものを、また苦しみや究極の死そのものを滅ぼすことはできません。それが宗教の限界です。
 さだまさしの「防人の詩」は見事に歌っていると思う仏教は、人類が到達した宗教の中で最も深いものだと思います。四苦八苦で集約されるさまざまな苦しみの現実をじつに深く指摘し、悟るためのさまざまな教えを説いています。釈迦は、悟ってから数十年間、私たちの苦しみは迷いと執着に由来するのであり、あらゆるものは縁によって生じ、縁がなければ消滅するのであり、すべてのものは無常であることを悟るように教えています。それは教えであって、釈迦自身は大往生を遂げています。彼も苦しみの究極である死そのものを滅ぼしてはいないのです。そこに仏教の限界があると思うのです。
◎しかし聖書の神は、またイエス・キリストの父なる神は、宗教が指摘するこの世の現実の中に来られました。そして一言も語らず黙って涙を流されておられるのではないでしょうか。なぜなら、イエスが墓に葬られているラザロに呼びかける前に、天を仰いで、<父よ、私の願いを聞き入れてくださって感謝します。私の願いをいつも聞いてくださることを、私は知っています。しかし、私がこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたが私をお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです>と言ってから、墓に向かって、<ラザロ、出てきなさい>と命じているからです。つまり、ラザロの復活は、天地を創造された神の創造のわざであり、イエスが天地を創造された神と一つであることを示しています。
◎世の中にはすばらしい宗教を造り出した聖人がいますが、イエスは聖人ではありません。なぜなら彼は、彼が現れる前の旧約聖書において預言されていたからです。その一つを紹介します。<私が見ていると、手が私に差し伸べられており、その手に巻物があるではないか。彼がそれを私の前に開くと、表にも裏にも文字が記されていた。それは哀歌と、呻きと、嘆きの言葉であった>。これはイスラエルの民を愛する神が、反逆する彼らを怒り、その怒りによって彼らが招いている悲惨な現実を嘆き、うめき、悲痛に苦しんでいることを、預言者エゼキエルを通して語っている言葉です。まさに神に背く人々に対して、愛ゆえに怒り、涙を流されるイエスを預言しているのです。
◎このイエスが十字架にかけられたとき、その右と左に二人の犯罪人もかけられました。彼らもどこかで逮捕され、判決を受け、イエスと共に十字架に架けられたのです。だから二人はイエスとのつながりの中にいたと言えます。
 イエスは「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる」と約束されています。この言葉を信じるならば、イエスと共にいるこの二人の犯罪者たちこそ最初の教会ではないかと思うのです。
 なぜなら、イエスに選ばれ、ガリラヤからエルサレムまで行動を共にし、彼の言葉とわざを聞きまた見てきたし、ラザロの復活という驚くべき喜びの出来事を目撃した弟子たちは、十字架にかかるイエスを見棄てて逃げました。けれども二人の犯罪人は、十字架に釘で打たれ、イエスと共にいたからです。ですからこの二人とイエスとの関係は、教会を現わしていると思うのです。
◎ルカ23:39以下に、二人のうち一人はイエスに、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」とののしっています。するともう一人がたしなめて、「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」と言って、イエスに、「あなたの御国においでになるときには、私を思い出してください」と言いました。
 この彼に対してイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われたのですが、イエスをののしったもう一人の人に対しては、イエスは黙って涙を流されたのではないかと思います。そして教会は、初めからこの二つの面があると言えないでしょうか。教会は聖霊によって建てられたキリストの体であり、父と子と聖霊の業を土台としています。しかし、私たちはそのことを忘れてしまいがちです。だからこそ私たちは、教会の傍らで、教会の中で、キリストがいつも涙を流しておられることを忘れてはならないと思うのです。
◎マルタが告白したように、私たちは皆、終わりの日には永遠の命に生きるために復活すると約束されています。そのときイエスは、<ラザロ、出てきなさい>と名前を呼んだように名前を呼びます。クリスチャンであろうとなかろうと私たちは皆、例外なく、生きているときに神に覚えられています。ですから終わりの日の復活の時、その名を呼ばれるのです。そのことを感謝をもって覚えたいと思います。

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