2023年10月29日 聖書:ヨハネによる福音書13章34節 ルカによる福音書7章1~10節「信と愛」鶴尾計介兄

今年で学習塾を始めて57年になります。今LD(学習障害)気味の生徒や、学校を遅刻や欠席しがちな生徒が来ています。「朝頭痛がして起きられないことがある」と言っています。精神的なことが体調に表れているようで、発達障害があるのかなと思い、もしそうなら本人の意識や努力ではどうにもならないことなので、遅刻しても責めないようにしています。以前、うつむき加減で時々上目遣いで「先生は敵だ」みたいな鋭い視線でにらみつける生徒が入塾してきました。しかし1か月くらいたった頃「○○君、塾と学校で顔がちがうよね」と話す生徒がいました。いつの間にか普通の顔つきで楽しそうに過ごしているのに気づきました。塾が居場所のひとつになっているのかなと思いうれしく思いました。
大学の勉強で役に立ったと思えるのは、カウンセリングを学んだことです。カウンセリングの真髄は傾聴・受容・共感です。相手に思うことを充分に話してもらいそれをしっかり聞く(傾聴)、たとえ間違ったことを言っても否定も肯定もせずにそのまま受け止め受け入れ(受容)、「こういうことが苦しいんですね」などと相手の言葉を繰り返しながら相手が感じていることをこちらも感じ取る(共感)、ということを学びました。十分に語ってもらうには信頼してもらうことが大切で、だからこそ否定や非難してはいけないと教わりました。最後の授業の後先生から「皆さんはカウンセリングマインドをもって生きていってください」とはなむけの言葉をいただきました。
過越の食事のとき主イエスはパンを弟子たちに与え「これはわたしの体である。」と言われ、杯を渡し「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」と言われました。ここに神と人との間に新しい契約(新約)が結ばれました。人は罪を負ったまま神の国に入ることはできません。そこでイエスは私たちがこれまでに犯した罪、これから犯すであろう罪を贖うため、苦しみを受け十字架の上で血を流してくたさったのです。信仰告白の中に「ポンテオピラトのもとで苦しみを受け」とありますが、イエスが受けた苦しみはどれほどのものだったでしょうか。革に金属の鋲が打ち付けてある鞭で打たれたのです。肉片が飛び散り、それだけで絶命してしまう人もいるほどの苦難を甘んじて受け、命を捧げてくださったのです。この新しい契約ののち、ヨハネ13章34節で「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい」と教えておられます。なんと単純な掟でしょう。しかし「わたしがあなたがたを愛したように」とも言っておられます。イエスのとてつもなく大きな愛を私たちもできる限り真似て、互いに愛し合わなければなりません。
当時ローマ帝国はイスラエルを支配下に置き、各地に100人ずつの部隊を置いていました。その隊長は百人隊長と呼ばれ、普通はユダヤの民から忌み嫌われるのですが、ここに出てくる百人隊長は、多神教のローマからみれば異教徒であるユダヤ人を愛し、自ら会堂を建てたりして、尊敬されていたようです。その部下が病気で死にかかっていたのでユダヤの長老に頼んでイエスに来てもらうことになりました。イエスが向かっていると報告を受けた隊長は友達を使いにやって、こう伝えました。「わたしはあなたをお迎えできるような者ではありません。ひと言おっしゃってください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしが言えば部下はその通りにします。」つまり(自分もローマ帝国の権威の下にいますがイエス様あなたは神の権威の下におられるので、あなたがおっしゃってくだされば部下は癒されます)と伝えたかったのでしょう。これを聞いてイエスは「イスラエルの中でさえこれほどの信仰を見たことがない。」と言われました。(ルカ7章9節)
ある時らい病患者が来て「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがお出来になります。」(ルカ5章12節)と願うと癒されました。「治してください」ではなく「御心ならば」と言ったのです。主はそこにこの人の信仰を見たのではないでしょうか。またシモンペトロの連れ合いのお母さんの家にいたとき、中風の人が仲間に担架で運ばれてきて、群衆のため家にはいることが出来ず、屋根を壊してイエスの前につり下ろされたとき、イエスは「その人たちの信仰を見て」(ルカ5章20節)癒されました。また12年間も出血の止まらない女性が群衆をかき分けてイエスの衣にふれたとき、「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。(マルコ5章34節)
いったいイエスはなにをもってこの人たちの中に信仰を見たのでしょうか。信仰とは何なのでしょうか。この人たちとは初対面で、ましてや百人隊長とは顔を合わせてもいないのです。それなのに「これほどの信仰を見たことがない」となぜ言われたのでしょう。
この人たちに共通しているのは、イエスに対する信頼だと思います。信じて任せる、委ねる、より頼む、そこに信仰を見られたのではないでしょうか。だとすると信仰に必要なものは、学問でもなく知識でも律法を守ることでもなく、良い行いも必要ではないのです。ただイエスを信頼し、任せ委ねより頼むこと。それが信仰だ、とイエスは教えておられるように思われます。
ただぼくは、胆石の手術前にそれが出来ませんでした。「御心のままになりますように」と祈りながら「神様どうか治してください」と心が叫ぶのです。信仰の弱さに自己嫌悪しました。神様に力を与えられて、信じ、任せ委ねより頼む、そのような信仰へと変えられていくようにと願っています。そしてぼく自身も生徒たちから信頼してもらえるよう、カウンセリングマインドを忘れず、生徒と共に進んでいきたいと思います。

聖書のお話