2023年11月5日 聖書:創世記1章27節 創世記2章7節 「肉体と魂として永遠に生きる」 川本良明牧師

◎11月の第一日曜日である今日は、イエス・キリストを信じてその生涯を終えた信仰の先達を記念して礼拝を行います。
 初代の教会の人たちは、死んでゆく兄弟たちの姿の印象を「眠りにつく」と表現しました。たとえば石打ちの刑で殉教していくステファノのことを<眠りについた>と記しています。また旧約聖書でも、<ダビデは先祖と共に眠りにつき、ダビデの町に葬られた>と書いています。聖書には「死んだ」ということを「眠りについた」と書いてある個所が他にも数多く見られます。
 このように聖書は、死を前にして、生前の行いに対する裁きや罰、あるいは地獄などを思い描いておののきふるえるのではなく、<眠りにつく>という穏やかで平和な表現を用いているわけです。
◎末期の患者の身体的苦痛を和らげ、残された時間を充実して生きるように看取るホスピスという施設があります。40年前に日本で初めて医療現場に取り入れた柏木哲夫さんは、これまで二千五百人以上の患者を看取ってきた中で特に忘れられない経験を語っています。

同じ72才の男性と女性でしたが、男性は末期の膵臓癌でした。会社を作り、社長で金持ちで地位と名誉がありましたが、痛みに耐えながら死にたくないと言われました。痛みは取れましたが、みるみる肉体が衰え死が迫ってくると恐怖が日毎に強まっていき、不安と恐怖で心の痛みは解決しないまま切ない看取りで終わりました。その2週間後に来られた女性は末期の肺がんでした。彼女は、「先生、自分はまもなく天国に行けると思うとそれはそれでうれしいのですが、息切れが苦しく、これさえとっていただいたら結構なんです」と言われ、1週間後の問診の時、「先生、明日か明後日ぐらいの気がします。私、先に逝ってますから先生も来てくださいね」と言われ、思わず「はい」と返事をしました。2日後、最後まで意識ははっきりしていて、娘さんに「じゃ行ってくるね」と言い、娘さんも「お母さん、行ってらっしゃい」と言いました。何かふすまの向こうの隣の部屋に行くような感じでした。

◎このように語った後、つづけて次のように語っています。

末期は、その人が身につけている服がはげ落ちて、魂がむき出しになる時期です。入院してパジャマに着替えると、外側の服だけでなく社会的な着物も全部はげ落ちます。近年の医学は体も心も治療が進んでいますが、魂の痛みは日頃から魂の平安をもって生活していたかどうかにかかっています。それは注射や薬や手術のように短い時間で得られるものではなく、事前の準備が必要です。私も入院してベッドで過ごしたとき、日頃は横との関係ですが、毎日上を見ていて、上から下への働きかけを体験しました。自分にとって上とはキリストの神さまですが、この意味で、病気は小さな死の体験です。この体験をくり返すことは、死に臨んでむき出しになる魂を養うことになると思います。

◎不安と恐怖の中で死を迎えた人と平安と喜びの中で死を迎えた人と対照的な例を見ながら、あらためて聖書は人間の命をどのように語っているのか、今日の聖書から見てみたいと思います。
 聖書を開くと創世記第1章1節の、<初めに、神は天地を創造された>という、じつに恵み深い言葉で始まります。その後、<神は言われた。…そのようになった>と繰り返しながら、光から人間に至るまでを1日ごとに造ったと書いてあります。
◎人間の創造は1章と2章に書かれており、3つのことを取り上げたいと思います。
 まず1つ目は2章7節です。<主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった>とあります。<土の塵で形づくり>とは肉体のことで、<命の息を吹き入れた>とは魂のことです。つまり人間は肉体と魂から成っており、肉体と魂の両方においてこそ人として生きると語っているのです。
 肉体は見えるものであり、魂は見えないものですが、どちらも独立しています。しかし肉体は魂の牢獄ではありません。ソクラテスをはじめギリシア人は、魂は自由だけれども肉体が閉じ込めていると信じていましたが、聖書はそのようには語りません。そしてまた魂は肉体の単なる機能ではないと語っています。つまり人間は、魂だけで生きるのでも肉体だけで生きるのでもなく、肉体と魂を備えた全体として生きるのです。
◎2つ目は、肉体も魂も神に造られたものであるということです。つまり神は、<土の塵で人を形づくって>肉体を造り、<神の息を吹き入れて>魂に生きる人を造ったのです。魂が不死不朽であることを否定してはいませんが、魂は神が造ったものであって、もともと人間の内に永遠の命としてあるのではないのです。
 人間が人間として生きているのは、肉体と魂の全体を維持している限りです。肉体が死んで肉体のなくなった魂は、もはや人間ではないのです。肉体が死んでもなお不死不朽である魂というものは、もはや人間ではなく不気味なものでしかありません。
 先ほど柏木さんの話で魂のことが強調されていましたが、ややもすると私たちは、肉体は死んでも魂は永遠に生きるのが人間であると考えがちですが、聖書は決してそのようには語っていません。もしも肉体は死んでも永遠に生きるとすれば、そこには神の何らかの介入があるからであって、神が介入するということは、肉体と魂の全体としての人間として生きる者とされるということです。
◎これまで2章で、人間は肉体と魂の全体として生きる者であり、肉体も魂も神に造られたものであることを見てきましたが、3つ目は、人間は独りではないということです。
 そこでもう一度1章を見ますと、<神は言われた。そのようになった>と繰り返されながら、6日間かかってすべてのものが造られています。動物も人間も造られていて、どちらも死ねば塵に帰るのです。神に造られた点では人間は動物と変わりません。しかし先ほど2章7節で見た2つのことは、人間のことであって動物ではありません。
 つまり人間は、他の生物と全く同じでありながら全く違っているのです。人間を他の動物から決定的に区別していることは何か。それを伝えているのが1:26~27節です。
◎<神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。>
 つまり人間は、他のどんな被造物にも当てはまらないものとして造られたと語っています。その人間の特性、本質とは何か。それは<神にかたどって造られた>ということです。神は人間に御自分のことを思い起こすことができるようにしたのではないでしょうか。
 このことで思い出すのは神がモーセに現れたときのことです。モーセが神の名を尋ねると、<私はある。私はあるという者だ>と神は答えました。モーセが尋ね、神が答えるのです。また十戒を授けたとき、<私は主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である>と言われて、神が自分を私と言い、イスラエルの民をあなたと呼んでいます。
 つまり神は人間を<私>と<あなた>という関係として扱っています。神が人間を神の似姿に造られたのは、人格的な特性、本質を持つものとして造られたということです。
◎神は万物の創造においては、「何々であれと言われるとそのようになった」ですが、人間に向かっては、語りかけ、交わることを求められました。語る、聞く、それに答えるという関係を考えると、人間は神の言葉を聞くということによって生きるものとして造られているのです。
 神の言葉、それは聖書です。聖書は神の言葉で満ちあふれています。そして何といっても聖書が語る神の言葉、それは神ご自身が人となってこられたイエス・キリストであります。イエス・キリストこそ神の言葉です。人間は神の言葉によって生きるというすばらしい神の作品なのです。
◎ところが人間は神の言葉ではなく、自分自身の言葉、もっと言えば深いところで支配している悪魔の言葉によって生きることで、神の作品を台無しにし、悲惨な現実を造り出してしまいました。
 有名なエデンの園で蛇の言葉に誘われて人間が罪を犯したことが次の第3章で書かれています。罪を犯したと言いましたが、その罪とはどんな罪か。盗みを働いたとかウソを言ったとかいろんな罪がありますが、根本的に決定的に聖書が語る罪とは、蛇によって誘惑された内容です。<あなたは神が取っては食べてはいけないと言われたものを食べることによって、善悪を知る者となって、神のようになる>という言葉です。
 人間はそれを食べました。すると神が座るところに座ったのです。裁きの座についた人間は、神のようになって、自分自身を裁き人を裁く者となりました。この罪こそあらゆる罪を生み出す根源的な罪なのです。善と悪を知ることで、人と自分を比べたり、優劣をつけるようになり、対立と攻撃と戦争という悲惨な現実を招くことになりました。
◎このような私たちの現実の中に、神はイエス・キリストとして来られたのです。
 彼の生涯を伝える福音書を見ると、ガリラヤから活動を始めた彼はやがて自分からエルサレムに入城していき、弟子たちと最後の食事をします。そのときまでのイエスは、徹底的に裁き主としての姿でした。主導権はいつも彼にあり、彼に助けを求める者には深い憐れみをもって病気を癒やしたり、教えたり、励ましたりしますが、裁きの座についている指導者たちには容赦なく糾弾しました。
 ところが食事の後、ゲツセマネに来たときから一転して、苦しみ始めました。それは裁かれる者としての姿でした。それまでの主導権はなくなり、受け身のままに捕まり、死刑の判決を受け、十字架につけられ、息を引き取るのです。
◎全能の神の子として、私たちの罪と悪を裁き、私たちを容赦なく捨てるお方が、逆に神に裁かれ、十字架上で、<わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか>と叫ぶほどにイエスは神から容赦なく捨てられました。私たちが捨てられなければならないのに、代わってイエスが捨てられたのです。それは、そのような私たちを罪と悪から救い出し、本来の神の作品に回復させるためでした。
 そして神は、この御子を復活させて、聖霊として再びこの世に来られました。聖霊はイエス・キリストの霊ですが、聖霊は肉体と魂である人間の全体を覆うと同時に、人間の中心である命に働きかけて、神の言葉を聞く者とし、神と人格的な関係を回復して、神を信じ、神の愛に愛でもって応え、永遠の命に希望を抱いて生きる者としてくださるのです。
◎今日は永眠者礼拝です。キリストを信じて生涯を終えた信仰の先達もおそらく生前には、生老病死の脅かしと苦しみの戦いを身をもって戦ったであろうし、その戦いに耐えなければならなかったと思います。しかし、決定的で重要なことは、本当の死の戦いはキリストによって既に戦われたのです。ですから彼らにとって残されていたことは、眠りにつくことが許されたということです。
 今日お配りした名簿の初めに聖書の言葉が紹介されています。<イエスが死んで復活されたと、私たちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。>(Ⅰテサロニケ4:14)。ここにも「眠りについた」と書かれています。しかし「永眠者名簿」とあるのは誤解を招く言葉だと思います。永眠者つまり「永久に眠る者」あるいは「眠っている者」と見るのは聖書的でないからです。<眠りにつく>とは<眠りに落ちる>つまり<キリストのもとに眠りにつく>といった意味の言葉なのです。
◎そして今ひとつ大事なことは、ここに掲げられている写真は、本当に思い出深い方々ではありますが、しかし私たちは、その人のことを語るのではなくて、生前においてイエス・キリストがその人に対してどれほどに憐れみ深い恵みのわざをなされたのかを思い出し、考え、語り合うことではないでしょうか。
 いよいよ死を迎えたとき、そこにはあの方がおられる、しかも終わりの日に一人ひとり名前を呼ばれて、肉体と魂に復活させてくださるお方のもとに行くのであります。その名前は、両親からいただいた名前というよりも、神の前に記されている本当の名前です。このお方が、その誕生からその人生を共に歩まれ、死まで導かれたばかりか死の地平線の向こうで躍動している永遠の御国に連れだって逝かれたことを覚えたいと思います。

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