◎世の中には神と言われているものが無数にあり、人はその神に頼って生きています。しかし、神が本物の神であるならば、私たちには知ることも見ることも聞くことも触れることもできないはずです。それではどうしたら知ることが出来るのか。もしも神がご自分を示してくださるならば、私たちは神を知ることも見ることも聞くことも触れることもできるのではないでしょうか。
そして本物の神は、聖書の言葉をもってご自分を示されました。聖書を開くと<初めに、神は天地を創造された>と書かれています。これはじつに恵み深い言葉です。なぜなら、神は私たちが神に造られた者であると語っているからです。
◎それでは神は、どのように私たちを造られたのかというと、①神を愛する者として生きる、②隣人と共に生きる、③肉体と精神に統一された体として生きる、④限られた時間の中で生きる、この4つのことが総合的・全体的に結び合わさって、人間は人間に成っていくのです。
「蛙の子は蛙」という言葉がありますが、親の蛙とは似ても似つかぬ御玉杓子が、自然にやがて蛙になっていきます。そのように人間も自然に人間に成っていくのかというとそうではなくて、人間は人間の環境の中で人間に成るのです。たとえば寝ている赤ん坊がやがて2本足で立って歩くようになるのは、世話をする周りの人間が立って歩いているからだと言われます。
◎神が私たちを造られた4つのことを挙げましたが、これは哲学や人間学や倫理学などから考えて述べたのではなくて、イエス・キリストを根拠にしています。イエスは神を愛し、隣人を愛し、肉体と精神のバランスある統一された体として生き、わずか33才の限られた時間を生きられました。
そしてイエスは人間の環境の中で人間に成られました。つまり、神は、神を知ることも見ることもできない私たちの中に人間イエスとして現れるために、マリアの胎内に宿り、誕生し、<幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた>とあるように(ルカ2:40)、人間社会の中で人間に成っていったのです。
◎このイエスが公の活動をしたのはわずか3年足らずでした。それまではガリラヤのナザレ村で成長し生活していた全く無名の人でした。ところが公に姿を現わされてから彼に出会った人々は、彼に賛成する者も反対して憎しむ者も例外なく衝撃を受けました。
その衝撃というのは、間違いなく神の権威を持ち、神の力を持っていたのに、自分から権力者たちの手にかかり、十字架の死を遂げたことです。そしてさらに驚くことは、彼が選んだわずかな人々によって新しい共同体である教会が誕生し、彼の活動が継続し、爆発的に教会が生まれまた広がっていったということです。
◎今日お読みしたフィリピの手紙からも、そのことの一端を見ることができます。教会が誕生して2~30年後に書かれた手紙ですが、当時の教会に集められた人々が共通に理解していたキリストの告白が先ほどお読みした個所です。
まず6節ですが、<キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず>とは、キリストは神であったが神の身分にしがみついたり、それに縛られることはなく、神と等しいものであろうとしない、それほどに神と等しいお方であったということです。つまり、キリストはまったく神であったと語っています。
ところが次の7節では、<かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました>とあります。これは、キリストは自分を無にして、奴隷の身分となって、人間と同じ者になられたということです。そこには神としての何かがまだ残っていたのではなく、神としての何かがまったくなくて、神を完全に捨て去って、人間そのものであったと言っているのです。
◎6節はキリストは真の神であると語り、7節は真の人間であると語っているのですが、それは、たとえば互いに愛し合っている二人は、互いに本当に相手のものであるならば、相手がなくなってしまいはしないかと恐れることのないままに、互いに相手を自由に解放できます。それと同じように、神の御子は、父なる神と等しいことを捨てることも断念することもしないけれども、神の身分を自由に解放したのです。
彼は自分を無にして、奴隷身分となり、神としてのあらゆるものを脱ぎ捨てて人間と等しくなりました。このことをヨハネ福音書は、<言は肉となった>と語り(1:14)、パウロも、<罪深い肉と同じ姿となった>と語っています(ローマ8:3)。つまり奴隷身分となって、仕えられるためではなく徹底して仕える者として来られたのです。
◎ですから8節で、<死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした>と告白しているのです。この「従順」とは、父なる神に従順であったと言っているのではなくて、どこまでも奴隷として従順であったと言っているのです。
彼が卑しい身分となり、従順な奴隷となって最後に行き着いたのは、痛ましい十字架の死でありました。彼は全くすべてを失ったところまで行かれました。その彼に神は「復活せよ」と語りました。次の9節に、<このため、神はキリストを高く上げた>と書いています。これこそ復活の出来事であり、神がイエスに、<天上のもの、地上のもの、地下のものがすべてがひざまずく>栄光をお与えになったと人々は告白しているのです。
そして、おどろくのは9節の最初の言葉、<このため>です。<十字架の死に至るまで奴隷として従順でした。このため、神はキリストを高く上げた>とあるように、この言葉は、「十字架の死の姿そのままに」という意味です。神はキリストを十字架の傷跡を持ったままに復活させたのです。つまり十字架の死にまで至った者を、その後で高く上げたというのではなくて、卑しい身分の奴隷として痛ましく十字架に死んだ者をそのまま同時に高く上げたということなのです。
◎そして、このイエス・キリストの体が教会であることを覚えたいと思います。教会は、イエス・キリストが地上的・歴史的に存在している形であります。つまり、教会が初代から使徒信条において告白しているように、教会は聖霊によって、イエス・キリストが建てておられるのです。これは、私たちがひじょうに謙虚に聞くべき言葉だと思います。すなわち教会は、私たちの信仰や経験によって建てられているのではないということです。
私たち人間は4つの特徴をもって神に造られていると最初に紹介しました。人間はそのように生きる神のすばらしい作品なのですが、そのような人間になるために必要なことは、神の言葉です。イエスが荒野で空腹を覚えたとき、悪魔から、「お前が神の子なら、これらの石をパンにしたらどうだ」と言われたとき、<人はパンだけで生きる者ではない。神の口から出る言葉によって生きるのだ>と言って誘惑を退けました。このように、人は神の言葉によって生きるのです。
◎それでは何をもって神の言葉というのか。神の言葉とは、①イエス・キリストご自身です。神は人となって現れました。<初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。>(ヨハネ1:1)とあり、この方が肉となって、この世界に来られました。まさに神の言葉はイエス・キリストご自身です。②その神の言葉が満ちあふれているのが聖書です。聖書の中で神は神の言葉を記録させ伝えているのです。③さらに神の言葉は、聖書の言葉を語る説教です。
つまり神の言葉とは、イエス・キリストと聖書と説教です。その中で教会で語られる説教は、イエス・キリストに解き明かされた聖書を語るのであり、語らねばなりません。感話や体験談、思想や信仰の証しや講話などがどんなにすばらしいであっても、イエス・キリストを指し示すことのない説教は説教ではありません。それは肉のわざであって、それによっては教会は育たないし、教会は消えていくしかないのです。
人々が教会に呼び集められているのは、イエス・キリストを求めて来ているのです。そして教会において、賛美が歌われ、祈りが祈られ、説教が語られ、互いに交わるのですが、そのような中で中心にあるのはイエス・キリストを指し示していることです。しかし、それは、自分の努力でできるものではありません。だからこそ聖霊の助けを求めるのです。「主よ、御言葉をください。イエス・キリストを指し示す教会となりますように助けてください。キリストの名にふさわしい教会にして下さい。御言葉を実感できるようにして下さい」と心を合わせて祈りながら、共に歩んでいきたいと思います。
定例行事
- 聖日礼拝
- 毎週日曜日10:30~
- 教会学校(子供の礼拝)
- 毎週日曜日9:30~
- 祈祷会・聖書研究会(午前の部)
- 毎週水曜日10:30~
- 祈祷会・聖書研究会(夜の部)
- 毎週水曜日19:30~
その他の年中行事
- チャペルコンサート(創立記念)
- 毎年8月下旬
- チャペルコンサート(クリスマス)
- 毎年12月23日
- クリスマスイブキャンドルサービス
- 毎年12月24日夜