2023年11月26日 聖書:マルコによる福音書5章1~20節「ゲラサの狂人~人間回復の物語」岡田博文兄

 2節には「イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場から
やって来た」とあります。ここでの墓場ですが、西欧や、最近の日本に見られる墓地公園を思い浮かべてはなりません。岩を横に掘って造った墓、無数に開けられた暗い穴。多くの人骨が晒(さら)されている戦場の横穴を思い浮かべてください。死者のみが住まうべき暗黒の場所に、そこに一人の男がいる。そして主イエスと出会う。
ゲラサの悪霊につかれた狂人の特徴が鮮やかに描写されています。
 1,墓場が住まい
 2,足枷(あしかせ)や鎖で縛られていたが、引きちぎり、砕いていた。
 3,夜も昼も墓場や山で叫んでいた。
 4,石で自分を打ち叩いていた(自傷行為)。
 6節には「イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ。『いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。』」
 ここには主イエスを神の子と認めながらも、墓場と狂気の自己にしがみついて離れまいとする姿勢がはっきりと読み取れます。
 9節で悪霊の名が「レギオン」であると分かります。レギオンは、歩兵部隊と騎馬隊とから成るローマの軍団の名前で、4000人から6000人の規模の軍隊です。この狂人にいかに多くの悪霊が住み着いていたかを示す比喩的な表現です。
 突然、2000匹の豚が登場する。一匹1万円としても2000万円、5万円とすれば1億円にもなろうという豚が、雪崩(なだれ)をうって海に入る。自殺です。豚は自殺をしたのです。この豚を動かしたのはローマの軍団と自称する悪霊の群れの仕業です。
 悪霊なんているのかしら。いるならば見たいものだ。そんなもの存在するはずがない。昔の人は馬鹿げたものが存在していると考えたものだ。悪霊の存在を信じるのは愚かなことだ。
 しかし、ドイツのある学者がマルコ福音書の注解書を書きました。そこ中で、こう言っています。悪霊の存在を見せることはできない。けれども、確かにいる。悪霊がいるのだということが、どうして分かるのか。それは、自分がどうして悪いかということを真剣に考えた時に、どうしてもぶつかる問題だ。悪霊とはまず第一に、人間に住むものであって、人間以外のどこにもいない。人間に住む。そしてその人間に罪を犯させる。しかもその悪霊の虜(とりこ)になって犯してしまう人間の罪の恐ろしさを本当に知るのは、自分が罪人だということに気づいた時であって、他人を観察してのことではない。このことが良く分からないと、この物語も分からない。悪霊の正体は分からないままに終わる。あなたも悪霊の虜であることに気づいてほしいと言うのです。
 先ほどの6節に「後生だから」という面白い言葉があります。口語訳聖書では、「神に誓ってお願いします」となっています。悪霊が先に用いて、「神に誓って出って行ってくれ、私はあなたとは関係がないから」と、言ったというのです。これもおかしな表現です。悪霊も必死になっていた。悪霊に捕らえられていた男が叫んだのです。
 主イエスが、真の神様が目の前におられるのに、「わたしは神様なしにやって行くのだから、かまわないでください」と言ったのです。
 先程の聖書学者は、これが現代人の悲惨な姿だと言いました。マルコ福音書はここで初めて罪を完全な姿で描き出しました。私たちを捕えている罪というのがどんなに恐ろしいものか、初めてその全貌を描き出しました。神様なしにやっていける。神様なんかいなくても生きていけると言い張る。
 この男は、家を飛び出した。しかし、自分で生きて見せると飛び出したように見えるこの男が、自分自身を見失ってしまっている。自分を石で打ち続けている。墓場でしか生きることができない。自分で生きて見せると言いながら、家族と一緒に生きることもできず、自分を愛することもできない。ここに、神様なんかいなくても生きることができると信じ込む人間がどんなに恐ろしい力の虜になっているかが、分かるというのです。
 使徒パウロは、罪についてローマの信徒への手紙7章18節以下で次のように語ります。「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうとする意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」
 このパウロの悲しみの叫びのような悲惨な現実の中に生きていたこの男を、主イエスは癒された。今、ここにはただ一人、着物を着て静かに座る男がいる。正気になったゲラサの狂人です。「座っている」は、山や墓場を荒れ狂って彷徨(さまよ)っていた姿と対比されます。「着物を着て」は、かつて彼が裸であったことを教えています。「正気になって」は、主イエスと人々の前で、魂の安息を得て、静かに座っている。彼の人間性が回復された。
 逃げ出した豚飼いたちは、大勢の群衆と共に戻ってきました。恐ろしくなった彼らは、
 17節「そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言い出した」。彼らは豚に起こった出来事を目撃しました。主イエスが彼らにとって、この地域にとって不吉な災いをもたらす存在だと感じました。主イエスが自分たちの安定した日常生活を脅かすものと映ったかもしれません。生活の安泰を願うゆえに主イエスを追放するのです。
 18節「イエスが舟に乗られると、悪霊にとりつかれた人が、一緒に行きたいと願い」ました。しかし主イエスはこの男の願いを許されず、彼に別の生き方を命じられました。
「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」(19節)
 これは「家族伝道」です。クリスチャン生活は、私がこうしました、ああしましたではありません。キリストがこうしてくださったという生活です。これが「証し」です。証しをするとき、自分が何か話しを作って語ろうとすると、口下手(くちべた)だとか、上手に話せませんということになってしまう。上手も下手もないはずです。自分に起こった出来事を素直に語れば良いのです。
 この男にとって、かつて正気を失った自分をよく知っている家族や地域の人々の元へ帰ることは、何がしか気の重くなることであったでしょう。むしろ故郷を離れて、主イエスにつき従った方が、・・・・・とそこに逃げ道を求める人間の気持ちの動きは容易に想像ができる。
 しかし主イエスの命令は、①家族の元でゲラサ(デカポリス)の地に留まるように、②自分の身に起こった主の憐れみの業を身近な人々に告げ知らせることでした。
 あなたが捨てて来た自分の身内の者、あなたを放り出した身内の者に、主が何をなさってくださったかを語りなさい、と言われました。主の憐れみがあなたを生かし、今この静けさの中に、平安の中に戻してくださったことを、語りなさい。主の言葉に促されて、この男は自分の家に帰って行きました。
 20節「イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。」(20節)「言い広める」という言葉は「宣教する」、教えを宣べる、という言葉です。もう少し言い換えると「説教する」という言葉です。つまり、この男には「宣教の使命」が与えられたのです。主の証しが語られる所、そこには「驚き」が生まれるのです。

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