2023年12月17日 聖書:ルカによる福音書2章8~9節「永遠の命に生きる」川本良明牧師 

●まもなくクリスマスを迎えますが、キリストの十字架の死や復活のことやあるいはキリストの誕生のことを聞いても、実感はわかないしピンとこない。そもそも死んだ人間が生き返ったり、処女から子供が生まれることなど、科学的にあり得ないし馬鹿げている。こうした現実的で常識的な判断が理由であるならばどうしようもありません。
 しかしもしも「隔たり」がさまたげになっているのであれば、つまりそれらは二千年前の遠いパレスチナ-今イスラエルとハマスが戦争しています-で起こった出来事であり、その隔たりが自分にとって身近にはならず、直接自分の生活や人生の目的からかけ離れているというのであれば、真剣に考えねばならないと思います。
●確かにキリストの出来事は時間も空間もかけ離れています。しかし本当にその隔たりが、私たちを神の恵みから遠ざけているのでしょうか。
 たとえば旧約聖書では、預言者イザヤが、天の御座に坐してその衣の裾が神殿に満ちている神に直面し、セラフィムが三度「聖なるかな」と呼ぶのを聞いて、「災いだ。私は滅ぼされる。私は汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、私の目は王なる万軍の主を仰ぎ見た」と叫んでいます(イザヤ6:5)。
 また新約聖書では、イエスの遺体に油を塗るために墓に行った婦人たちが、天使から復活を告げられた時、<墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである>とあり(マルコ16:8)、また今日お読みしたベツレヘムの羊飼いたちも、野宿して羊の番をしていたとき、<主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、非常に恐れた>(ルカ2:9)とあります。
 つまり隔たりはなく、直接目で見、耳で聞いているのに皆、このように語っているということは、原因が隔たりではなくて別にあると思うのです。
●イエスの誕生物語は、ルカ福音書とマタイ福音書に載っています。ルカ福音書は60年代前半に書かれ、マタイ福音書は60年代後半に書かれたもので、少しの違いはありますが、どちらも彼がいなくなってから30年以上もたっています。一般に世の中の出来事は、年月がたつと人々の間から忘れられるものです。ところがイエス・キリストの場合、忘れられたり風化するどころか生き生きと福音書に書かれています。
 そればかりか二千年経った今も、内容はともかくキリストの名を知らない人はいません。しかも誕生してから30年間、全く人々に知られていません。それが突然、公の活動を始めたのですが、わずか3年足らずで十字架にかけられて殺されました。こういう彼が今や全世界で知らない人がいないということは驚くほかありません。
●イエスの両親はヨセフとマリアです。父ヨセフは、早く亡くなってイエスの公の活動を知りません。しかし母マリアは、イエスの生涯とその後にイエスをキリストと信じる教会が起こったことも知っています。教会にはイエスの肉身の弟ヤコブも活動しており、ヤコブの手紙は彼が書いたものです。またヨハネ福音書は、マリアがイエスの弟子の一人に引き取られたことを証言しています。
 誕生物語は誰かの創作物語ではありません。教会の人々がイエスの誕生のことをマリアから聞きたいと願うのはごく自然のことです。そして彼女から誕生の次第を聞いたとき、人々は非常に驚きました。なぜならその誕生の次第が、彼の十字架の死と復活において示された神の御業とまったく一致していたからです。ですから教会がそのことを大切に語り伝え、今日見るような誕生物語ができたのです。
●誕生の次第は第2章に、<そのころ、皇帝アウグストから全領土の住民に、登録せよとの勅令が出た>という書き出しで始まっています。ローマ皇帝やシリア州総督の名前を書いているのは、イエスの誕生がまぎれもなく歴史的な事実であることを告げるためです。
 そして<その地方で羊飼いたちが野宿しながら、夜通し羊の群れの番をしていた>と続けています。当時の社会では、羊飼いは漁師と同じように差別を受けていました。その彼らに主の天使が現れたので、彼らは非常に恐れました。
 天使は、イエスの誕生の時以後現れず、イエスの復活の時に再び現れます。このことからイエスの誕生と復活は、この世の中がどのような現実であろうとも、人間の介入をまったく許さず、神の介入だけで起こった出来事であることが分かります。
●その天使が羊飼いたちに告げました。<恐れるな。今日救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである>と。メシアはヘブライ語で、そのギリシア語がキリストです。またイエス・キリストのイエスは、ヘブライ語のヨシュアのギリシア語読みです。ですからヘブライ語のヨシュア・メシアをギリシア語でイエス・キリストと読んでいるわけです。
 ヨシュアはごくありふれた名前で、キリストは「救い主」という職務につけた名前です。だから「イエスが姓で、名はキリスト」ではなくて、アレクサンダー大王というような呼び名と同じで、神は真の人間となって世に来られたのです。
●天使が「救い主が、豪華な立派な宮殿などではなく、汚い家畜小屋で生まれ、家畜のエサ箱に寝かせられているのを見るであろう」と羊飼いたちに告げると、突然、この天使に天の大軍が加わって、「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」という歌声が空いっぱいに響き渡りました。
 度肝を抜いた羊飼いたちは急いでベツレヘムに行くと、家畜小屋の飼い葉桶に赤ん坊が寝ているのを見て、驚き、感動しました。なぜなら天使が自分たちに告げたとおりだったからです。彼らは一部始終を語りました。それを聞いたマリアは、しっかりと心に受けとめたのでした。
●この後、マリアは30年間、イエスと共に生活しました。彼が家族と別れ、故郷を出てからまもなく彼女は彼の噂を聞きました。一時は彼が気が狂ったという風評を耳にしましたが、その愛するイエスが十字架の上で大声を上げて息を引き取るのを見ました。
 泊まる場所もなく家畜小屋で誕生した彼の最期が、それ以上に残酷な場所で無惨に死に、その遺体が墓に葬られるのを見たとき、彼女はこれまでの彼との生活をふり返りながら、誕生から死までの彼の生涯の意味を思い巡らしました。
 それから彼が復活したことを聞き、まもなく聖霊が降ったことを聞きました。かつて聖霊におおわれてイエスを宿し誕生した後、イエスと共に歩んできた彼女は、今まさに聖霊に満たされて、キリストの十字架の死と復活の意味を示されたのでした。
●十字架の死はもちろん復活もこの歴史の中で起こった神の出来事です。神は御自分の御子イエスを十字架において殺させることによって、私たちの罪を完全に滅ぼしてしまいました。罪と言えば法律上の罪や道徳的な罪などいろいろありますが、神がイエスの死において完全に滅ぼした罪とは何か。それを聖書は初めから語っています。
 神から造られた人間は、エデンの園で、<あなたは善悪を知る木の実を決して食べてはいけない>と言われました(創世記2:17)。ところが悪魔の化身である蛇が、<本当に食べてはいけないと神は言われたんですか>と囁くと、<どの木の実を食べてもよいけど、園の中央の木の実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神は言われました>と人間が答えると蛇は、<決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ>と語るのです。
●人間は善悪を知る木の実を食べて罪を犯した、つまり善と悪を知る者となって、「これは良い、これは悪い」と判断するようになったいうのです。ですから「あの人は悪い、私は良い」などと比べるようになり、遅いよりも速いほうが良い、劣ったものより優れたものの方が良い、などと比較する、人と比較し自分の中でも自分を比較することが起こっている。これが罪なのです。
 すなわち神は人を裁くお方ですが、私たちがその裁く座に座って、神のように裁く者となっています。これが誘惑した蛇の思うつぼであり、罪にはまったのです。それは、いろんな罪がそこから出てくる本来の根源的な罪です。善悪を知って神のようになって、人を裁き、自分を裁く罪です。このアダムが犯した罪は、どんな時代のどんな国のどんな民族も、人間ならばだれもが持っています。この根源的な罪を滅ぼされたお方こそイエス・キリストなのです。そのために十字架において苦しみ、私たちに代わって裁き主である神に裁かれ、私たちのために神から捨てられました。つまり裁き主である神が、十字架において自ら裁かれ、捨てられることによって、この根源的な罪を滅ぼしてしまったのです。
●私たちは相変わらず法律的な罪、道徳的な罪を犯していますが、根源的な罪という根っこは切られています。だから大丈夫です。過ちを犯すたびに、「私の代わりに私の罪を滅ぼして下さった神様助けて下さい」と言って救いを求めることができるのです。
 初代教会のキリスト者たちは、この十字架の傷を負っている復活のイエスに出会いました。このことを聖書ははっきりと伝えています。<私の手に釘の痕があるのを見なさい。脇腹に槍で突かれた痕があるのを見なさい。私だ。>とイエスは言われています。つまりイエスは傷を負ったまま復活して弟子たちに現れたのです。
●私たちを神の恵みから遠ざけているのは、時間と空間による隔たりではないことを初めに語りました。そして預言者イザヤとイエスの遺体を納めた墓に行った婦人たちと野宿していた羊飼いたちを聖書から紹介しましたが、彼らに共通しているのは<恐れ>でした。
 そのように、時間的・空間的な隔たりではなく<恐れ>という本当の隔たりに直面したとき、人は時間・空間を超えて「今、ここで」神の救いの出来事を知り、実感し、救いの恵みにあずかることができるのです。はるか遠いパレスチナで二千年前のことが、今、ここで、私に起こったこととして受け取ることができるのです。
●神は人間の根源的な罪を完全に滅ぼすために、愛する御子イエス・キリストを呪いの十字架にかけて殺させました。その御子を神は復活させて、キリストが私たちの罪を完全に滅ぼしたことを宣言されました。しかもキリストは、その十字架の傷を負ったままに聖霊として私たちの内に宿って下さって、私たちを導いておられます。聖霊は、私たちの死んだ魂を復活させて、私たちを新しく誕生させて下さいます。
 まさにクリスマスは、二千年前に短い生涯を終えた愛に満ちた特別な人間の生誕を祝う祭りではなくて、その十字架の死と復活によって、私たちの根源的な罪を滅ぼし、全く新しい歴史を私たちの内に始められた全能の神の子である人間イエスの生誕を祝う祭りなのです。この神を、このキリストを、この聖霊を、恐れをもって迎えるとき、私たちも、今、ここで、神の恵みを実感して、人生の本当の目的を知り、今、ここで、永遠の命を生き生きと生きることができることを、感謝をもって喜びたいと思います。

聖書のお話