2024年1月7日 聖書:マタイによる福音書28章18~20節「はじまり」川本良明牧師

◎2024年という新しい年が始まって一週間が経ちましたが、教会では二週間前のクリスマスを新しい年の始まりとしています。皆さんにはどんなことが新しく始まっているでしょうか。健康のことや職場や仕事、家族や人間関係、勉強や新しい事業など、今までのことをふり返りながら、すでに新しいことを始めている方もいらっしゃると思います。
 預言者イザヤは、<主はこう言われる。初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる>(43:18~19)と告げています。
 今日の説教題の「はじまり」とは、神が始めた本当の新しいわざをあらためてご一緒に考えるためです。人間はいろんなことを始めますが、そのためにもまず上から下を見ること、天から地上を見ることによって、これまで下から上を見、また地上から天を見ていたことから解放されることを感謝したいと思います。詩編には、<神は私を広い所に導き出し、助けとなり、喜び迎えてくださる>と書かれています。
◎ところで正月には竹と松で飾る門松を見かけますが、それは五穀豊年を守る歳神が夫々の家を回るのでその目印のためです。歳神とは神道における生命力の神であって、松と竹を生命力や繁栄の象徴としているからです。
 しかし室町時代に一休宗純が歌ったとされる「門松は冥土の旅の一里塚、めでたくもありめでたくもなし」という一句は、門松を正月に飾るたびに1つ年をとり死に近づくので、死への旅の一里塚だというのです。これを聞くと年の始まりを表わす折角のめでたい門松が一転して墓石か墓碑に見えてきます。
◎しかしこのことは、否定できない事実ではないかと思います。死の現実は絶対であり、どんな生命力も繁栄も死の前には無力です。あらゆるものは誕生に始まり死を迎えて終わります。折角貯め込んだ財産も死ねば人の手に渡ることほど空しいことはない、と言われますが、誕生は1年ごとではなく一瞬ごとに冥土に近づいていく始まりです。
 聖書はこのことを否定していません。その冒頭に、<初めに、神は天地を創造された>と書かれているように、あらゆるものは、時間と空間の中で始めと終わりをもって存在する、つまり、誕生と死という限られた時間の中に生きる被造物なのです。
◎私たちは、かつてはまだこの世にいなかったのに誕生し、やがて死を迎えてもう二度と見ることはなくなります。たとえ死んでも親しい人たちが覚えてくれていることはたしかです。しかし、その人もやがていなくなります。愛する人の墓にお詣りに来る人も、いつか墓に入ることになると、それ以前の人は全く忘れられてしまいます。
 つまり私たちは、限られた時間の中で、自分の人生をただ一回かぎり生きるために命を与えられているのです。ところが、世の中にはいろんな教えや考えがあって、この世は幻であって仮の世であり、真の知恵を得て悟るならば、死は絶対的なものではなく、死は迷いである、と説く教えがあります。
 しかし聖書は、この世を仮の世とは語りません。なぜなら造り主である神ご自身が被造物となられてこの世界で生きることを約束され、事実、神は、イエス・キリストにおいて人と成ってこの世界に来られたからです。ですからこの世界は、決して幻でも仮の世でもなく、現実に存在しているものであり、被造物は、輪廻転生するのではなく、ただ一回の命に生きる存在なのです。
◎あらゆるものは誕生から死に向かって生き、始まりから終わりに向かっています。しかし聖書は、そのことを認めながらも、死が絶対であり、死があらゆるものの終わりであるのは、神の恵みの怒りの結果であると語っています。
 しかし、そのように聞いても誰が信じることができるでしょうか。神の恵みの怒りは隠されており、私たちの知恵や理性の力では決して知ることの出来ません。このことを語っている聖書の言葉を聞こうとするならば、信仰が要求されるわけです。
 聖書は、神が人となって来られたと語ります。このお方、イエス・キリストは、始まりと終わりを繰り返しているこの世の時間の中に生まれ、私たちと同じようにただ一回の、始まりと終わりの人生を過ごされました。
 つまり、イエス・キリストも、誕生して死に向かって生きられたのです。しかしその生涯が、罪が支配する古い世を終わらせるために死に向かっていく生涯であったことを誰が信じたでしょうか。誰も信じなかったし、誰一人気づくことはありませんでした。
◎それどころか預言者イザヤが、主の僕の召命と使命と忍耐に生きる姿を描きながら、それに続いて最後に語ったのは、次のようでした。<彼は見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼は私たちに顔を隠し、私たちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであったのに、私たちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだと、と>(イザヤ53章)。
 つまり人々は、キリストの苦難と死を見て、神に罰せられたのだ、と見ていたというのです。ところが、神は、この彼を復活させて、古い罪の世は終わり、新しい世が始まったことを宣言し、打ち建てられました。
◎このように、ベツレヘムの夜に始まり、ゴルゴタの死に終わるイエス・キリストの33年の生涯は、あらゆるものが誕生から死に向かって生き、始まりから終わりに向かっていることを絶対としていることを引き受け、背負って十字架に死ぬという苦難の生涯でした。しかし神は、彼を復活させることによって、神に背く人間の罪と、罪が招いている死を滅ぼしたことを示されました。
 そして、復活したイエス・キリストは、40日間、弟子たちと共に過ごされました。このとき弟子たちは、イエスから目と耳と心を開かれて、その生涯の意味を、つまり古い罪の世を終わらせるための苦難の生涯であったことを、初めて知らされたのでした。
 それからイエスは、聖霊として再び来ることを約束して父なる神のもとに昇られ、まもなく約束どおり、聖霊として来られたのであります。
◎このことからぜひ注意していただきたいことがあります。新約聖書の内容である4つの福音書と使徒言行録と22の書翰は皆、復活の朝に始まり昇天に終わるあの40日以来、イエスから心の目を開かれ、かつては理解できなかったことが理解できるようになって編纂され、読まれたものです。一番早く編纂されたものでもイエスが亡くなってから30年以上経っています。伝承されていたものを集めて編纂したのですが、それは歴史家が新資料を発見し、その歴史観に立って編纂して文書を作成するのとは全く異なるものです。
 それはともかく、復活の出来事によって、また聖霊の働きによって私たちは皆、二千年前に遠いパレスチナで起こったイエス・キリストの出来事を、今、ここで、時間と空間の隔たりを超えて、聞き、知り、見ることができるのです。ですから、<生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです>などと現在形で語っているのです。そして、だからこそ、<私たちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう>などの勧めや命令が語られているのです。
◎イエス・キリストの死と復活は、神によって古い世が終わり、新しい世が始められた出来事です。ですから教会が、「罪の世は裁かれて過ぎ去り、今や新しい世が始まった」と語るときは、いつもキリストの死と復活を同時に語らねばならないのです。
 しかし、今一つ大切なことは、キリストの死と復活は、逆戻りできないということです。復活した後、聖霊が降りました。ということは、もう十字架の死にとどまるのではなくて、さらに前進することが始まったということです。ここにこそ本当の始まりがあり、本当の希望があります。
◎先ほどお読みした聖書の言葉は、「伝道命令」と言われています。この予告をイエスは十字架に死ぬ前ではなく、復活してから語っていることに注意したいと思います。というのは、復活の予告の時と同じことが起こっているからです。
 イエスが公の活動をしたのは、わずか3年足らずです。その短い活動の間に彼は、何度も受難を予告し、そのとき必ず復活も予告していましたが、弟子たちはまったく理解できませんでした。ところが、彼が十字架に死んで墓に葬られた後、復活させられたとき、そのことが具体的に現実になったのでした。
 そして復活したイエスは40日間、弟子たちと生活を共にしました。そのとき告げたのが伝道命令でした。聖書は、<疑う者もいた>と書いています。伝道に尻込みする弟子たちがいながらもイエスは、<私は一切の権能を授かっている。だから、すべての民を私の弟子にするために行きなさい>と語りました。ところが、彼が昇天し、聖霊が降ったとき、弟子たちによる伝道が具体的に現実になったのでした。つまり、伝道を予告されていた弟子たちが、伝道できるようになったのは、聖霊を受けたときからでした。
◎時間や空間という隔たりを超えて、今、ここで、私たちは、イエス・キリストの十字架の死と復活の力を自分のものとしているのですが、いま教会は、ペンテコステに始まり、キリストの再臨である終わりの日までの間を歩んでいます。
 ですから私たちキリスト者は、そして教会は、今、ここで、十字架の死と復活をふり返り、聖霊の裁きと慰めにあずかりながら、力強く歩むことが約束されています。そのような中にあって、今の私たちにとって新しい始まりとは何でしょうか。
 初めに語ったように健康、商売、人間関係、仕事、事業などにおいて、私たちはいろんな新しいことを始めています。もちろんそのことは大切なことですが、だからこそ、神によって始めることが大事ではないかと思います。もしもこのことに目を向けながら新しいことを始めるならば、人それぞれがおそらく遭遇するであろうどんな状況になっても、確実に意味のある始まりになるのではないでしょうか。
 下から上を見るのではなく、また地上から天を見るのではなく、上から下を見、天から地上を見る、神から自分を見、この世の中を見るとき、どんな小さなことでも感謝できるし、また前向きに前進することができるのです。つまり、否定的・消極的・マイナスなことにおちいりやすい私たちですが、目を上に転じ、天から、神から見るとき、物事を肯定的・積極的・プラスに考え、行動することができるようになることを、感謝をもって受けとめたいと思います。

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