2024年1月28日 聖書:ヨハネによる福音書15章5~7節・ヤコブの手紙2章17節「人生を新しく生きる」川本良明牧師

◎マンネリ化している毎日の生活の中で、目標のある、新しい生き方を求めていくことは、何も年取った人だけでなく若い人の中にも見かけることがあります。昔、パチンコ行脚をした高校3年生の子がいました。夏休みに黒崎のパチンコ店でプロに出会って、玉を出す秘訣を覚えた彼は、黒崎から始まって小倉、門司、下関、大阪と向かい、ついに横浜まで行ったとき、何十万円か持っていました。しかし東京は景品を換金しないので、横浜と東京を往復しながらすっからかんになり、着払いで黒崎に帰ってきました。学校の生徒指導で反省文を書いた彼は、高校3年をやり直して無遅刻・無欠席で卒業しました。東京までパチンコ行脚したあげく、彼は何かに行き着いたのではないか、そして人生を新しくやり直したのではないかと思うわけです。
◎これまでの生き方に別れを告げて、新しく人生をやり直すことは人それぞれです。経済的な環境や身体的な境遇などの制約がある中で、どうしたら新しい人生を生きることができるのか。そのことを考えるために取り上げたのが、今日の聖書の言葉です。初めの言葉は、イエスご自身の言葉であり、後の言葉は、イエスと何歳年下か分かりませんが、長く生活を共にしたイエスの実の弟ヤコブの言葉です。
◎初めのヨハネ15章5~7節は、皆さんはすでに何度も読まれてそらんじておられると思いますが、もう一度ご一緒に読んでみます。<私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである。私につながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたが私につながっており、私の言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものは何でも願いなさい。そうすればかなえられる>。
◎イエスが誕生したとき、<その名はインマヌエルと呼ばれる。それは、神は我々と共におられるという意味である>と言われました。すなわち神は、人間イエスとなって世界に来られ、私たちと共におられる神となったということです。そのイエスが今私たちに、私につながっていれば、共におられるだけでなく、豊かな実を結ぶし、また望むものは何でもかなえられると言われるのです。「神は我々と共におられる」ということを、感動的で美しい信仰の形で表現している「4つの足跡」という小話を紹介します。
◎ある人が夢を見ました。自分のそばにイエス様がおられて、イエス様と一緒に小高い砂丘の上から自分が歩いてきた人生の足跡を振り返ると、その足跡は、ずっと4つの足跡でした。彼はイエス様に、なぜ足跡が4つなのかを尋ねると、2つが自分、もう2つがイエス様のものであり、イエス様がいつも一緒に歩んでくださったことを知りました。
 これまでのいろんな経験を思い出しながら、彼は深い感謝をこめてそれを眺めていましたが、よくよく見ると、足跡が2つしかないところがあることに気がつきました。そして、それが自分の最も苦しい、またつらい経験をしていた時であったことを思い起こした彼は、イエス様に尋ねました。「主よ、あなたは私といつも一緒に歩んでくださったと言われました。けれども、あなたは、私が一番苦しいときには、いつも私から離れていたのではありませんか。」すると、静かにイエス様はお答えになりました。「愛する友よ。私はいつもあなたと共にいました。足跡が2つしかないのは、あなたが最も苦しんでいるとき、私があなたを背負っていたからです。」
◎私たちは順調なときには「神が共にいる」と感じることができます。しかし苦しいとき、むなしいとき、神が見えなくなり、神も仏もあるもんかと叫び、捨てバチになります。しかしそのときにこそ神が最も近くに共におられるということ、それはけっして作り話ではなくて、イエスご自身が身をもって示されたことなのです。
 ガリラヤで活動を始めてから3年後、イエスは先頭に立ってエルサレムに向かい、最後の食事をされました。それまでの彼は、全能の神の子としての権威をもって常に主導的に行動していました。ところが食事が終わってゲツセマネの園に行くと、突然、彼の様子が変わり、もだえ苦しみ始めました。そして「私は死ぬばかりに悲しい」と弟子たちに訴えると、弟子から少し離れたところで父なる神に、「父よ、この杯を私から取り除けて下さい」と祈りました。十字架の死を前にして、それを取り除けてくださいと祈るこのとき、彼は、今まで完全に一つであった父なる神が見えなくなっていました。
 しかし彼は、その暗闇の中で、もだえ苦しみながら、「どうかあなたの御心が行われますように」と祈り、神の御心を信じて十字架の道を歩んで行きました。ところがその十字架の上でも、<わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか>と神に訴えました。これは完全に神に見捨てられたと実感した言葉であります。
 このイエスを神は復活させられました。つまり、彼が苦しみの極みにまで達していたこのときにこそ、神はイエスの最も近くにおられたのです。
◎しかし、なぜイエスは苦難の人生を歩み、十字架の苦しみを受けたのか。それが神の意志だったからです。すなわち、彼の苦しみこそ私たちのための、計り知れない愛を示すための神の行動でありました。
 つまり、イエスの苦しみは、私たちが受けねばならない神の裁きを、私たちの代わりに受けて、罪に対する戦いを、私たちのために、私たちに代わって勝利した神の行動だったのです。このように神は、私たちが順調なときはもちろんのこと、神が見えなくなり、最も苦しい、最もつらい時にこそ最も近くに居られるお方であるということを、イエスは身をもって示されたのです。
◎「4つの足跡」の小話にもどりますが、大変有名なこの小話が言おうとしているのは、苦しい時にこそ神の慰めがあるということです。たしかにそれはまちがいないのですが、もしも順調なときの私たちが、マンネリ化した歩みを変えないままに「神は私たちと共におられる」という神の慰めを得ているとしたら、それは何ら新しい人生ではないし、新しく人生を生きるということではないと思います。
 神は、イエスにおいて私たちへの愛を示されたばかりか、私たちが神の子としてふさわしい者となり、永遠の命に生きる者となるために、律法を定められたお方です。そして、その律法をイエスご自身が完成してくださいました。そして、聖霊として私たちの内に宿り、気がついたら自ずから、私たちが律法を実践する者と成っているようにしてくださるのです。神が律法を定められたのは、私たちが、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制といった御霊の実を結ぶためなのです。
◎ですからインマヌエルを私たちが喜び、感謝するということは、同時に律法を心から進んで実践することが伴っているのです。イエスがぶどうの木と枝のたとえで、<人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ>と言われたこの「豊かに実を結ぶ」とは、神の子としての実を結ぶことであり、神に対する掟と隣人に対する掟を定めている十戒を、みずから進んで実践するということなのです。
 もっと正確に言えば、そのように神が私たちに働きかけて、気がついたらいつのまにかそのような者になっているということです。だから私たちに求められているのは、ただ、「神様、どうかあなたのわざを私の内になさってください。あなたがそうしてくださることを信じて感謝します」と祈り願うことです。自分で頑張って十戒を実行することではないのです。そのことは皆さん、すでにご存じだと思います。
◎この十戒をみずから進んで実践することこそヤコブの手紙が勧めていることです。この手紙の著者は、長い間家族の一員として過ごしたイエスの実の弟ヤコブです。ですからこの手紙は最初から最後までイエスの言葉が生き生きと伝わってくるものです。今日はその一部をもう一度ご一緒にお読みしたいと思います。<信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです>(2:17)。
 つまり、インマヌエル=神が私たちと共におられることがどれほど深い愛であるか。私たちと共におられるために御子イエス・キリストが十字架において死を遂げて、復活して、聖霊として私たちの中に宿ってくださるという、これほどの深い神の愛はありません。つまり、インマヌエルは神の愛を語っています。しかし神の愛が語られているということで、十戒における律法が軽んじられてはなりません。いつも神は私たちと共におられることは本当に感謝です。けれども同時に忘れてはならないのは律法を行なうことです。インマヌエルという神の愛は、大前提として律法が命じられているのです。
◎たとえば、<安息日を心に留め、これを聖別せよ>という掟が十戒にあります。この戒めをインマヌエルと同時に聞く時、この戒めが愛の戒め、恵みの戒めであることが分かります。つまり、<私はぶどうの木、あなたがたはその枝であり、あなたがたは豊かに実を結ぶ>と語るイエスは、もしもあなたが安息日を厳守するならば、私は安息日の主として、すばらしい恵み、予想外の恵みを与えると言われているのです。
 このことを具体的な生活の中で考えてみますと、日曜日に商売を休む、仕事を休むとき、収入が減るので大変不安を覚えます。それで礼拝を休むという誘惑にかられます。しかし、キリスト者としての証しとして、日曜日にはどんなことがあっても休まずに礼拝を守るならば、結果的に大変恵まれることがまちがいなく起こります。このことは、すでに皆さんがいろんな形で経験しているのではないでしょうか。
◎20才の大学時代に受洗した私は、心が燃えていました。それで熱心な信仰生活を始めたわけです。アルバイトで稼いだ金をポケットに入れていて、礼拝でそれを全部献金に投じました。すると礼拝後に会計の役員の方が来て、「これはあなたでしょ。まちがいではないですか」と言うので、私は「献金ですからあなたが言うことではないでしょ」と答えたわけです。次の日、電車で大学に行き、昼食代がないことに気づきました。空腹を覚えながら大学の食堂に向かっていると、道端の土の中から紙切れが出ていました。よく見ると百円札でした! 当時のとんかつ定食が80円でしたから無事に昼食を摂れたのですが、その喜びだけでなく、奇跡を起こしてくださった神に感謝したことを今でも忘れません。その後の結婚生活においても、子供3人抱え、家のローン支払いなど、これでもかこれでもかと経済的に大変でしたが、同じようなことが何度もあったわけです。
 マタイ7:11に、<このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。>とイエスは言われていますが、この言葉をヤコブは1:17で言っています。<良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです>。彼はここで「御父」とか「良い贈り物」と言っていますが、そこにイエス様がおられ一緒に生活している、そのイエス様がたえず言われていた言葉が伝わってきます。ヤコブという人はそういう人なのです。そういう目でヤコブの手紙を読むと、実に生き生きとイエス様のことが身近に伝わってくるすばらしい手紙なのです。
 ですから私たちも、喜んで、いつもイエスは私たちと共におられる、神われらと共におられるということは、イエスわれらと共におられるということですから、そのことを信じ、感謝して、新しい人生の歩みを共に始めたいと思います。

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