2024年2月4日 聖書:創世記3章1~7節「罪から解放された人生を生きる」川本良明牧師

◎人類は誕生して以来、自然の脅威や死や病気や不幸などがもたらす恐怖や不安に直面して、その背後に人間を超えた存在があると信じ、それに敬虔な心を寄せて救いを求めてきました。その超越した存在を便宜上神と称ぶならば、世の中にはいわゆる神があふれるほどあります。そのため私たちは、聖書に出会う前に自分がすでに知っている神を聖書の神にあてはめて読むという危険にたえずさらされています。
 しかし、<私はその方のもとから来た者であり、その方が私をお遣わしになったのである>とイエスご自身が語っており、また聖書がイエスのことを、<いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神-つまりイエスのことなのですが-、この方が神を示されたのである>と証言しています。
 私たちは、真の神が人間イエスとなってご自分を現わされた、と語る聖書の言葉と証言を聞くことがゆるされていることを、まず心から感謝したいと思います。
◎ところで神と同じように罪も、聖書に出会う前に私たちがすでに知っている罪を聖書の罪にあてはめて読むという危険にさらされています。
 たとえば日本の神道は、死や病気、けがや出産の穢れ、また地震その他の天変地異など、人間生活を脅かすものを罪としています。しかし神道における罪は、祓や禊によって簡単に除去されるので、むしろ罪よりも恥意識を重んじることが見られます。
 それに対して仏教は、じつに多くのことを教えられるのですが、生老病死や愛別離苦や怨憎会苦といった四苦八苦の苦しみから脱する道を説いた釈迦の教えが、やがて極楽や地獄の存在や因果応報の思想が現われて、それらと結びついて罪意識を深めていきました。この罪意識を徹底して深めたのが親鸞です。彼は、人間は元々罪深い存在であるが、ただ仏の慈悲にすがることで罪が赦されると説きました。
◎彼は悪人正機の教えにおいて、善人でさえも極楽に往生することがあるのにどうして悪人が往生しないことがありましょうかと説いています。ここで悪人というのは、仏の前には何ひとつ良いものを差し出せない、差し出せるものといえば、殺生で血にまみれた手と淫欲と嘘と強欲が満ち満ちているもの以外にはない、と自覚している人のことです。
 この悪人を救うために阿弥陀如来は48願掛けて苦しまれたから、その慈悲にすがればどんなに深い罪も赦されて極楽に往生でき、どんな罪深い人間でも仏にすがれば救われると説いています。それでこの教えは、キリスト教に最も近いと言われるわけです。
◎四苦八苦の苦しみやそれらから解放されるために、人間の苦しみや罪の現実をじつに深いところまで極めた仏教は、世界のさまざまな宗教の中でも最も優れたものではないかと思います。けれども罪や苦しみの現実を指摘することはできても滅ぼすことはできず、またその救いとして罪の赦しを語ってはいますが、罪の贖いは語りません。
 しかし聖書は、イエス・キリストの十字架の死によって罪が贖われたことによって罪が赦されたと語ります。罪の赦しという点では似ていますが、キリスト教は、じつにキリストの十字架の死において罪が贖われ、罪が滅ぼされ、そのことによって罪が赦されることを信じる信仰に生きるという点で、決定的にちがうのです。
◎その違いの根本的な原因は、罪を理解するのに、宗教から理解するか神の啓示から理解するかにあります。宗教は人間が神を求めるものですが、キリスト教は神が人間を求めるものです。宗教は人間の罪を、人間自身の内面や体験などから見出しますが、キリスト教は人間の罪を、人間イエスとして来られた神によって明らかにしています。
 聖書はまさにそのことを証ししています。そこで人間の根源的な罪を語っている創世記3章の1~7節をもう一度ご一緒に読んでみたいと思います。
◎蛇は明らかに悪魔の化身として描かれています。この蛇に問いかけられた女が、神から食べてはならないと命じられていた木の実を食べ、男もそれを食べると、二人は恥じる者となったというのです。この有名なエデンの園の物語は2章から始まります。
 その7節には<主なる神は、土の塵で人を形づくり、鼻に命の息を吹き入れると生きる者となった>とあります。土の塵とは肉体であり、命の息とは魂のことです。つまり肉体と魂は別のもので区別はしますが切り離せない1つの体、それが人間なのです。つまり死ぬということは、肉体は死んでも魂は生きるのではなく、肉体も魂も消滅するのです。
 このアダムをエデンに置かれた後、神はいろんな木を生えさせますが、9節には<園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた>とあり、16節で<「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」>とアダムに命じるわけです。
 この後、人が独りでいるのは良くない、助け手を造ろうと言って、アダムを深く眠らせて、彼のあばら骨を取って女を造ったという話が続きます。
 ちなみに人間が食べた木の実がリンゴであるという説は非常に一般的です。それで「リンゴではなくて善悪を知る木の実だ」と言うと「じゃ善悪を知る木にはどんな実が生るのか」と訊かれたことがありますが、その実とは善悪を知るという実です。つまりその実を食べると人間は善悪を知る者となるのです。
◎3章に戻りますが、アダムと女は、蛇に誘われて禁断の木の実を食べることで罪を犯しました。聖書は挨拶さえしてはならない相手がいると語っています。<そのような者に挨拶する人は、その悪い行いに加わるのです>(Ⅱヨハネ11)。それが蛇なのです。
 ところが「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」と問う蛇に女は答えます。蛇を相手にした彼女に何が起こったのか。神が命じた内容と女が蛇に語った内容を比べると微妙に違うことが分かります。神-<善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまうから>、女-<園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから>
 蛇を相手にした彼女の中に、すでに「神は、なぜ中央の木の実だけは食べてはならないと禁じたのだろうか。あの戒めの裏に何か大切なものが隠されているのではないか。それはいったい何だろうか」と神の戒めを分析し、分解し、無力にする羽目に陥ることになります。それを見た蛇は、「決して死ぬことはない。それを食べると目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」と言いました。
◎ところで、彼らはどんな罪を犯したのでしょうか。神が命じた戒めを破ったことでしょうか。そうではありません。神は善悪の知識の木から食べてはならないと命じたのです。しかし彼らはそれを食べ、その結果、善悪を知る者となりました。これこそ蛇が、「それを食べると、神のように善悪を知るものとなる」と言っていたことでした。
 たしかに神は善と悪をはっきりと見分け、悪を徹底的に裁くお方ですが、人間がそのように善悪を知る者となったことで神のようになったこと、それが蛇の狙いだったのです。こうして人間は皆、自分の弱さや悪い面を何とか強くしよう、良くしようとして、自分で自分を助けようとする者となりました。その罪の結果として死ぬ者となりました。欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生むと聖書が語っているとおりです。
◎先ほど仏教について、人間の苦しみや罪の現実をじつに深いところまで極めていることにふれました。しかしそうした現実を生み出しているものを、聖書は原罪と呼んでいます。原罪とは、根源的な罪であり、人類を代表する罪であって、世の中のさまざまな苦しみや罪といわれるものは皆、原罪から出てくる罪なのです。
 アダムが善悪を知る木の実を食べることによって犯した罪は、ほんの些細なことでした。しかしこのほんの些細なことが、なぜ原罪と呼ばれるのでしょうか。なぜすべての人に当てはまる罪なのでしょうか。なぜアダムの犯した罪が、人類を代表する罪であり、すべての人に死をもたらす根源的な罪なのかを考えたいと思います。
◎聖書がアダムについて語っている個所は、旧約聖書では創世記2~4章、新約聖書では使徒パウロがローマ書とコリント書でふれているだけです。聖書全体の中でほんのわずかしか出て来ませんが、人間の罪にとってアダムはじつに重要な人物であります。
 とくにパウロはそのことをローマ5:12以下で語っています。<一人の人アダムによって罪が世に入り、罪によって死が入ってきた>と同時に<一人の人イエス・キリストの恵みの賜物が多くの人に豊かに注がれる>と語り、アダムはやがて世に来られるイエス・キリストの先駆的な人間であると指摘しています。そして、<一人の罪によってすべての人に有罪判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになった>とか<一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされる>とか<罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、主イエス・キリストを通して永遠の命に導く>など、アダムとキリストとが対比されて述べられています。
◎イエスは直接聖霊なる神によって生まれました。同じくアダムも直接神によって創造されました。神はイエスの十字架の死において、すべての時代、すべての人間のために、その根源的な罪を贖ったことを、イエスを復活させることによって示されました。
 このように、アダムが犯した罪が、すべての時代の、すべての人間に当てはまる根源的な罪であることを示すために、神はアダムを直接創造されたのです。そして神は、すべての人間の罪を贖うイエスを原型として、アダムを直接創造されたのです。パウロもまたイエス・キリストをまず見すえて、その上で、アダムを見ていたからこそローマ5:17以下であのようにアダムとイエスとを対比して語ったのです。
 私たちもアダムの罪に縛られていますが、主イエス・キリストが十字架の死によってこの根源的な罪を贖ってくださったことを信じることが許されています。しかも神は、このお方を通して、私たちが罪から解放された人生を生きるように願うばかりか、生きるようにして下さいます。そのことを心から感謝したいと思います。

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