2024年2月18日 聖書:創世記3章8~9節、ローマの信徒への手紙5章8~11節「神の恵みに生きる」川本良明牧師節

◎人類が造り出した宗教の中で、人間の罪を最も深く極めた宗教は仏教だと思います。中でもキリスト教に最も近いとされるのは浄土真宗だと言われています。先日、なじみのある寺で49日法要に列席すると、どんなに罪深い人も仏の慈悲にすがるならば、罪赦されて救われると語っておられました。キリスト教もその十字架の死と復活によって罪を贖ったキリストの父なる神の愛を信じるならば、罪赦されて救われると語ります。罪の赦しという点では似ていますが、何か違うと感じました。
◎この似て非なることの決定的原因は、歴史的事実の有無にあるのではないかと思います。じつは学生時代に同じ寺の住職が私の家に法事に来られ、阿弥陀如来が48願掛けて苦しまれたことや悪人正機などの説法をされました。そこで私は彼に、「仏さんが苦しまれたのはいつ頃ですか」と問うたところ、少し考えてニコッと笑い、「億兆土です」と答えました。「土」とは冥土や浄土や国土の土で世界ということです。だからはるかはるか遠い昔に苦しまれたと言われたのです。これは別に彼の思いつきで言ったのではなく、輪廻の考えからすれば当然の答えだったと思います。
 仏教はバラモン教を継承して生まれており、輪廻という考えがあります。つまり森羅万象は、車輪が回転するように死んでは生まれ変わることを永遠に繰り返しているというのです。ここには歴史の概念がありません。永遠の輪廻転生とか億兆土と言われるのは歴史がないのと同じです。
◎しかし聖書は明確に歴史を語ります。旧約聖書を見ると、神は天地の創造主であり、全人類の中からアブラハムを選んでイスラエル民族を興し、エジプトで奴隷となっていたのをモーセを召してエジプトから脱出させ、シナイ山で十戒を授けて、現在のパレスチナであるカナンの地に定住させました。
 やがて王国を形成しますが、すぐに南北に分裂し、どちらの王国もアッシリアやバビロニアによって滅ぼされ、人々は捕囚民となりました。やがてペルシア時代に許されて帰還し、破壊されていたエルサレムと神殿を復興させ、国を形成せずに神殿の枝葉として各地に会堂を建て、律法を中心とした共同体として、その後のイスラエル民族の歴史は続いていきます。
◎このように聖書は、神が歴史の主であることを明確に語っています。それは新約聖書も同じです。旧約時代に神は恵みのもとで徹底的に彼らの罪を裁きましたが、それと同時に預言者たちを立て、彼らを通してメシアを遣わす希望を語りました。メシアとはギリシア語のキリストで、イエス・キリストはその預言どおりに現れたメシアです。
 彼はローマ皇帝アウグストゥスの時に生まれ、皇帝ティベリウスの時に公の活動を始め、3年足らずでローマ総督ポンティオ・ピラトのもとで十字架に殺されました。このことが新約聖書に書かれていますが、これもまたはっきりとした歴史的事実です。
◎しかも神は、彼を死者の中から復活させました。歴史の中で生まれ、生涯を終えた彼を復活させたことによって、神は、彼が過去・現在・未来の時間を超えて永遠にいますお方であることを宣言されました。だから聖書は、歴史の主である神が預言者を通して語った言葉を記録した書物であり、聖書は神の言葉なのです。
 私たちは聖書をそのように読むことが求められています。いや、命じられているのです。聖書を単なる1つの書物であるとか歴史書や物語を集めた本として読む人はいます。またその中を調べ、注解し、あれやこれやと学者が研究しています。それは大切なことですが、基本的に大事なことは、歴史の主なる神がイスラエル民族の歴史の中で語られた言葉が聖書であるということを踏まえて聖書を読むことです。
◎旧約聖書に書かれているエデンの園の物語もそのように読むことが求められています。先ほどお読みした個所は、アダムとエバが罪を犯した後のことを書いています。いったい彼らはどんな罪を犯したのでしょうか。
 もし神が命じた戒めを破ること自体が罪であるなら、親と親の言いつけを守らない子供の関係と同じです。親がどんな親であろうと、また言いつけた内容がどんなであろうと、子供は親の言いつけは守らねばならないことになり、なぜ守らなければならないのか。守ればどうなるのか、どんな人間になるのかと考え、疑問を抱いてはいけないことになり、「いかんといったらいかんのだ」と子供を押さえつけることになります。そうなればもう子供の親ではありません。
◎神が命じたのは、<園のすべての木から取って食べてもよい。ただし善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまうから>であって、その内容ははっきりしています。彼らが犯した罪は、善悪を知る木の実を食べたことです。神が死んではいけないからと言ったのに食べたのです。どうして食べたのか。蛇に誘惑されたからです。聖書は蛇を悪魔の化身として描いています。この蛇は女を誘惑するのに、食べてはならない、食べると死んでしまうと命じた神の言葉を逆転させて、「決して死ぬことはない。それを食べると、神のように善悪を知るものとなるのだ」と言いました。
 大切なことは、食べるか食べないかではなく神のようになること、つまり善悪を知り、人間が生きる基準を持ち、自分が自分の運命の主人公になることです。そのためには、善悪を正しく見わけることができねばなりません。もちろん神は善悪が何であるか知っています。だったら神に似せて造られた人間が善悪を正しく見わけて生きて行くのがなぜ悪いのか。むしろ「人は、自分の努力で必要なものを満たすことができるはずだし、そのために自分で判断し、自分で求め、自分で決断すること、つまり自立することが大切であって、人にはそれができる。」このように蛇は暗に仄めかしました。
 仄めかされる間に女は自分から結論を出しました。<女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた>のです。こうして人は、これまでは神に従う決断をしていたのに、これからは自分で決断していく者に変わったのでした。
◎罪を犯した彼らが踏み出した一歩は、ほんの小さな一歩に過ぎません。この一歩が人類にとってどれほどに大きな一歩であったかを知ることはできません。しかしアダムの犯した罪を、その後に生まれた人間が同じように繰り返しているのは、けっして感染や相続やDNAつまり遺伝あるいは模倣することで引き継がれていったのではありません。そうではなくて私たちは、このアダムにおいて神に知られているのです。つまり神は私たちを、アダムを通して見ておられるということです。
 このことは神がイエス・キリストを復活させたことと関係があります。神は復活して時間を超えたイエスにおいて、すべての時代、すべての場所に生きる人間の傍らにおられて、アダムにおいてその人を見ておられます。だから私たちは、アダムにおいて自分を知り、人類を知り、日本の歴史を、世界の歴史を知らねばならないのです。
◎アダムとエバは、神に従うことから自立し、自分で判断し、決断する人間に変わった時、自分たちが裸であることを知り、互いに恥じ、自分を隠すようになりました。それが罪を犯して起こった最初の姿であり、神による断罪でした。そして神を恐れるようになり、神が近づくと隠れるようになります。<その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。「あなたはどこにいるのか。」>
 歴史の主なる神の言葉それが聖書です。神の言葉は、人類を代表するアダムとすべての人間を1つに結びつけます。また神の言葉は、アダムの不従順を断罪しますが、直ちに私たちの不従順をも断罪されます。この後、神のきびしい言葉が次々と語られていきますが、神がアダムと女と蛇に語った言葉は、すべての時代のすべての人間に、そして私たちに語られていることなのです。
◎しかし、ぜひ聞き逃してならないのは、歴史の主なる神がイエス・キリストを復活させられたお方であることです。つまり第2のアダムであるキリストを見すえて神の言葉を聞かなければならないのです。15節には、神が悪魔の化身である蛇に対して、<お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に私は敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く>と不思議なことを語っていますが、悪魔を滅ぼし彼も無傷ではないということは明らかに十字架の死を予告しています。
 人間をご自分の形に似せて造られた神は、神に背き、不従順となり、根源的な罪を犯して神の作品としての肉体と魂を台無しにした人間の罪を贖い、罪を赦すためにどんなことをされたのか。それは御子イエスにおいて、私たちと同じ罪の体となり、十字架の上でその命をささげられました。神はこのようなことより以下のことをされないほどに、私たちを愛しておられることを私たちは知らなければなりません。
 また21節には、神が、自分たちが裸であることを知り、いちじくの葉で腰を覆っていたアダムと女に、<皮の衣を作って着せられた>とあります。これからエデンの園を出て行く二人は、罪を背負ったまま歩んでいくのですが(これが私たちの現実です!)、その二人に、沈黙のままに神は、そのままでいいんだよと語りかけたのでした。
◎先ほどお読みしたローマ5:8~11で使徒パウロは、<しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。それで今や、私たちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです>と語り、さらに彼は、まだ私たちが敵であった時でさえも、神は御子の死によって私たちを和解させて下さいましたと語っています。
 つまり、キリストにおいて神は、人間の罪を贖い、私たちの罪はもう古い過去のものとされたのであって、同時に神はキリストにおいて、新しい命に未来を生きる道を開かれた、これが復活において起こったということです。神が人間に初めて語りかけた<あなたはどこにいるのか>という言葉は、私たちに語られている言葉であって、神があなたを探しているということなのです。いつも神は、<あなたはどこにいるのか、あなたは罪を犯してこのように生活しているけれども、あなたはどこにいるのか>と探しておられます。自分を恥じ、自分を否定しているあなたを問いかけて探しています。
◎そして見つかったら喜ぶお方であります。このことをイエス・キリストはいろんな所で語っています。たとえば「銀貨一枚を無くして家中を探していた女が、それを見つけたら、みんなと一緒に喜ぶ、これが天の国である」とか「一匹の小羊が迷い子になった。羊飼いが一生懸命に探し求めて、ふるえている小羊を見つけると肩に担いで帰って来た時、みんな一緒に喜んでくれと言います」など、喜ぶ神を語っています。
 そしてそのことをイエスご自身が身をもって証ししました。それが十字架の死において、私たちの罪のために苦しまれ、贖いを成し遂げて、それが絶対不動のものであることを宣言するために神はイエス・キリストを復活させたわけです。
◎それでは、私たちはどうしたらこの神に出会えるのでしょうか。もしも親鸞聖人がいたら何というでしょうか。信心が必要であると仏教は語ります。しかし聖書は、神を信じれば救われると語ってはいません。でも聖書には、イエス・キリストを信じることで救われると書いてある、と言われそうです。たしかにローマ3:22でパウロは、<イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です>と書いていますが、じつはこれは、<イエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに与えられる神の義です>という文章です。
 キリストは私たちのために、私に代わって、真実を貫いてくださった、死に至るまで神に従順に生き抜いてくださった、だから私たちは、このキリストに信頼し、受け入れるならば救われると言っているのです。神は私たちをアダムを通して見ておられるのですが、同時に神は、第2のアダムであるキリストを通して私たちを慈しみの目をもって見ておられることを心から感謝したいと思います。

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