2024年3月3日 聖書:コリントの信徒への手紙Ⅰ1章26~27、申命記7章6~8節「召しと召命①」川本良明牧師

◎3月になると学校や塾、習い事では進級や卒業などこれまで居た所を後にして新しい所に進学や就職や転勤して行くなど、「これまで」から「これから」へと移動することが多く見られます。そこで聖書が語る神の「召し」を考えるためにコリントの信徒への手紙を読んでいただきました。これはパウロが書いたものですが、この個所を見る前に彼とコリント教会の関係を少し紹介します。
◎パウロは母教会のアンテオケ教会から送り出されて3回伝道旅行をしています。1回目は現在のトルコである小アジア中南部で終わりました。2回目はエーゲ海を渡りヨーロッパに上陸してマケドニアからギリシアのアテネを経てコリントに到り、ここに1年半滞在してコリント教会が誕生した後、母教会に戻っています。
 3回目は小アジアとヨーロッパに生まれた教会を巡った後、小アジアのエフェソで2年3ヶ月滞在中にコリント教会の心痛める状況を伝え聞きました。そこでその最後の年にコリント教会に書き送ったのがⅠコリントの手紙です。そしてエフェソを出発した後、マケドニアの教会を巡る間にコリント教会の良い状況を聞いて喜んだ彼は、再びコリントに来て3ヶ月滞在しました。ちなみにこのとき書いたのがローマの信徒への手紙です。
 この後、小アジアに渡り、集められた献金を届けるためにエルサレム教会に向かいますが、ユダヤ人たちの激しい攻撃を受け、捕らえられ、ローマに送られます。彼は以前からローマ行きを願っていたのですが、なんと囚人の身となってそれがかなえられたわけです。以上のことが使徒言行録に書かれています。
◎エフェソ滞在中に伝え聞いたコリント教会の状況とは、分裂や近親相姦、不品行であり、また経済的に繁栄した地元の影響を受けて、不倫や結婚問題、偶像に供える肉の問題や貧しい人たちと金持ちたちの間の対立や裁判沙汰まで起こっているというもので、教会として何かを決めようとすると言い合いになってしまい、教会員が心一つになって力を合わせることができない有様でした。
 これは何もコリント教会だけでなく、教会は二千年前に生まれてから今日までいろんな問題を抱え続けてきました。教会は、罪を背負いながら、たえずその罪を悔い改めながら、信仰を与えられて生きている人間の集まりです。決して理想郷ではなく、いろんな問題が起こるのは当然なのです。
 しかしそのような教会をパウロは、手紙の最初の部分で、<コリントにある神の教会>と呼び、教会員を<キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々>と呼んでいます。これは形式的な挨拶の慣用句ではなく、また持ち上げている言葉ではなく、キリスト教会とキリスト教信仰を神の視点から見るという、根本的な理解から出ている言葉なのです。下から見ればたしかに罪と堕落しか見えないのですが、上から見ると、教会が存在し、罪を贖われて神に義とされたキリスト者がいるということ、その現実をパウロはいつも見すえていたのです。
◎聖書にあるパウロの手紙13通全体を見ると、まず光を掲げた後、その光の陰としていろんな心痛める状況を語るという特徴があります。つまりまず神の恵みや救いを語り、次に今の状況を語っています。たとえば1章10節以下で彼は教会内の分裂と争いを述べていますが、それを語る前の4節では、<キリスト・イエスによって神の恵みを受け、すべての点で豊かにされているあなたがた>と語っています。
 つまり、あなたがたは主の十字架の死によって罪が贖われ、罪を問われないばかりか新しい人間とされて、平和、喜び、感謝して愛に生き、古い過去を後にして未来の希望に向かって生きるためのさまざまな賜物を与えられています。しかも一時的に限られた自分の力ではなくて、主があなたがたを支えてくださって、信仰も愛も希望も成長させながら、終わりの日まで導いてくださいます。だから今すでに<この神によって、あなたがたは神の子です>と断言した後、10節で、<さて、兄弟たち、主イエス・キリストの名によって勧告します>と言って、分裂のことを指摘しつつ、それを乗り越えていく力強い言葉を語っていくのです。
◎たしかに教会にはいろんなマイナスなことがあります。にもかかわらず、コリントという地域にキリスト教会とキリスト教信仰があるということは、天地の創造や処女マリアのイエス誕生以上におどろくべき出来事ですと言っています。私たちはそこまで教会を見ているだろうかと思います。
 キリスト教会が存在し、キリスト教の信仰が存在し、その信仰に生きる人間が存在するということは、新しい1つの出来事でした。使徒信条では第1項、第2項で父なる神、子なるイエス・キリストが出て来て、いずれも「我信ず」と告白します。ところが第3項で「我信ず、聖霊を」と告白した後、聖なる公同の教会・聖徒の交わり・罪の赦し・体の甦えり・永遠の命を信じると私たちは告白しています。つまりキリスト教会とキリスト教信仰とキリスト者は、いずれも人間の努力や能力、敬虔さなど一切の人間的な行ないによらないで、ただ聖霊なる神によって存在しているのです。
◎しかもそのことは、神から見れば何も新しい事ではなくて、天地創造の初めから計画していたことなのです。天地創造や御子の誕生とは違いますが、御子が十字架で死んだ後、復活し昇天し、聖霊として降って教会を誕生させました。この神の計画には目標があって、それを目指して今ここで何が起こっているかということをパウロは見すえていました。
 古い罪の過去は終わり、新しい未来が来る現在、これまでとこれからの間にある今、教会につながっている私たちがいるのです。この出来事を見すえていたからこそパウロはあのように語ることができたのです。
◎そこで先ほどお読みした個所を見たいと思います。<兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません>と書かれています。
 元々聖書はギリシア語で書かれています。それを日本語に翻訳しているのですが、今読んだところは間違っています。そのように言えば混乱を招くかも知れませんので、少し丁寧に説明したいと思います。これを翻訳した人は、コリント教会のひどい有様を前提にして読み取っているようです。しかし、教会がどんなにひどい状態にあるかを見抜きながらも、パウロがどのような視点で見ていたかを考えると、このように彼が語ったとは思えないのであえて訂正をしておきたいと思うのです。
◎まず「召された」という言葉は「召される」という動詞の過去形ですが、元々の言葉は「召し」という名詞です。また「思い起こす」ではなく「見分ける」です。ですから彼は、「あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい」つまり「召された昔のことを思い出して、今の自分たちがどんな有様になっているかを考えてみなさい」と言って責めているのではありません。そうではなくて、「あなたがたの召しに注目しなさい」と促しているのです。それに「人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません」も昔のことを言っているのではなく、今の教会の有様つまり「人間的に見て知恵ある者も能力ある者も家柄のよい者も多くありません」と言っているのです。
 パウロは、そのようなコリント教会の人たちこそ神に召された人たちであると断言し、神は知恵や能力あるいは生まれ育ちなどで人を選ばれるお方ではありません。だからあなたがたは「神の召し」に注目しなさい。神はあなたがたをこそ召したのです。このようにパウロは語りかけているのです。
◎これはモーセとイスラエル共同体においても同じでした。神は全人類を救うために、特別にイスラエルの民を選びました。しかし彼らはどういう有様だったか、申命記7:7には、<主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった>と書かれています。イスラエルもコリントの教会と同じ数の少ない小さな集まりでした。
 しかも神に召された指導者のモーセは、エジプト人として育った人ですから、ユダヤ人たちの批判と攻撃の的となり、いつも孤独でした。パウロもまた孤独でした。なぜなら、ユダヤ人の中のユダヤ人であると自負していた彼は、徹底的に教会を迫害していました。ところがその彼がキリスト教徒となったのですから、ユダヤ人からは憎まれ、キリスト教徒からも警戒されたからです。けれども神は、全人類を救うためにイスラエルの民を召したのであり、この民こそ神に召された民であるというパウロと同じ確信を与えられたのがモーセでした。
◎元々イスラエル民族は、アブラハムが百才、妻のサラが90才の時に生まれたイサクの子孫です。つまりこの民族は人間の介入なしに、全く神の業によって存在し続けており、存在自体が奇跡であると言わざるを得ないことは教会と同じです。
 もちろん彼らはたえず罪と堕落の誘惑にさらされ、その中に陥って神にきびしく裁かれながら、<ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は今、こう言われる。恐れるな、私はあなたを贖う。あなたは私のもの。私はあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、私はあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない>という神の言葉に支えられ、生かされ続けてきました。
◎今私たちも、荒野のイスラエルや異教の地でその地の影響を受けてたえず誘惑に脅かされているコリントの教会と同じように、宮田教会も日本の教会も数の少ない小さな集まりです。しかし筑豊の宮田というこの地域にキリスト教会が存在するということ、またキリスト教信仰に生きる私たちが存在するという事実は、じつに新しい出来事なのです。
 しかも下を見れば、わずか1m60cm足らずのいつも罪と堕落にさらされている虫けらのような存在ですが、神様から見れば私たちは、そして教会は、天地創造の初めから計画している目標の実現に向けて用いられているということを忘れてはなりません。その紛れもない根拠は何か。それは主イエス・キリストの十字架の死と復活、そして昇天し、聖霊としてこの世界に再び来られて、教会を誕生させました。このことを信じる信仰を与えられているということです。この歴史的な根拠を片時も目を離さずに見すえて、現状がどうあろうとも揺るがない確信をもって、パウロがコリント教会につながる人々を兄弟と呼びかけたように、神に召されている私たちも兄弟と呼びかけられていることを感謝しながら歩んでいきたいと思います。

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