2024年3月17日 聖書:コリントの信徒への手紙Ⅰ7章17~20節「召しと召命②」川本良明牧師

◎3月も半ばになると、学校では受験、会社では就職をめぐる悲喜こもごもを経ながら、新しい学校や会社に向けて、また進級や転勤など新年度に向けての準備が始まっています。教会でも1年をふり返り新年度に向けて総会が準備されています。今日は午後から北九州地区総会が行なわれようとしています。
 これまでを後にしてこれからに向かって行くことは、必ずしも夢と希望だけでなく不安と落胆に向かって行く人もいます。私も7つの学校を転勤して、登っていくこともあれば降っていくときもありました。上から下に、右から左に向かう人もいれば、逆に下から上に、左から右に向かう人もいます。しかし上や下、右や左など、部分から見るのではなく、上も下も右も左もどちらも含んだ全体から見るとき、それまで不安だった人は本当の平安を与えられます。またこれまで不安でなかった人は、これまでの体験からさらに確かな道が開かれていきます。
 下から見るのではなく上から、つまり地上から見るのではなくて天から物事を見るということを考えるために、あらためてもう一度「召しと召命」と題して、コリントの信徒への手紙を読むことにしました。
◎第2回目の伝道旅行で開拓したコリント教会を去って2、3年後、パウロはコリント教会の党派争いや近親相姦、不品行、結婚問題、貧富の差から来る対立や裁判沙汰など、心痛む状況を聞きました。しかし彼はそのような教会を<神の教会>と呼び、教会員を<神に召されて聖なる者とされた人々>と呼んでいます。
 そのように呼ぶことができたのは、経済的に繁栄して罪と悪徳が広がるコリントという地域にキリスト教会が存在し、罪を贖われて神に義とされたキリスト者たちが存在していることは、天地創造や処女マリアによるイエスの誕生以上におどろくべき出来事であると見ていたからです。下から、地上から見れば振り回されます。しかしパウロは、上から、天から見ていたのです。
◎そこで1:26節ですが、<兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません>という文章では「あなたがたが召された昔のことを思い起こしてみなさい。今あなたがたは召される前の有様になってないですか」と責めています。しかしそうではありません。パウロは、<兄弟たち、あなたがたの召しに注目しなさい>と勧めているのです。
 召しとは、イエス・キリストを通してなされる神の招きです。コリント教会の召しを受けた人たちは、人間的に見ると知恵ある者や能力ある者や家柄のよい者というよりも、むしろ大部分が、愚かで弱く、身分が低く、世の中から軽んじられている者たちでした。あなたがたはそういう人たちではないですかとパウロは語っているのです。
◎<兄弟たち、あなたがたの召しに注目しなさい>と勧めるパウロは、先ほどお読みした7章17~20節でも同じように勧めています。17節で<おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい>と語っています。
 神に召されたとき、人はキリスト者という身分や新しい状態に置かれます。そしてその身分と結びついたすばらしい希望を与えられ、分相応の義務を与えられます。ただしこの「身分」という言葉は、召しを受けた状態や場所を意味する言葉です。だから<割礼を受けている者は、割礼の跡を無くそうとせず、受けていない者は受ける必要はありません。そのままの状態で召しを受けたのです>と言っているのです。
◎ですからパウロは「召される」ことと「召しを受けた状態や場所」とを区別しています。一般に「召しを受けた状態や場所」を召命と呼んでいます。神から召されると召命を与えられます。神は人を召しますが、召命からはまったく自由です。だから人は召しを受けた場所において、精一杯、誠実に生きながらも、そこは絶対ではなく、いつでも神の召しに応えて出ていく心備えをしていることにおいて自由なのです。
 それは死に直面する場合でも同じです。いま関わっている善いわざは、死という地平線を越えて、永遠と結びついて躍動するわざとして続いていきます。ですから、今、ここにとどまっているのではなく、いつも神の「召し」を待ちながら、「今、ここで」ということ以上に「今から、ここから」という気持ちを持って希望に生きることが、私たちに、またすべての人に命じられているのです。
◎私たちは皆、万物の創造主である神から命を授かって生活しています。その私たちが神に召されて新しいことが与えられると、これまでの召命は古くなります。しかしこのときまで神は創造主として、私たちを守り導いてこられたのですから、召しを受けるということは、これまで以上の新しい召命としての状態や場所が与えられます。
 召命はいつも新しい出発点なのです。新しいことが人に与えられるとき、これまで神から与えられていた場所や状態から出ることになります。つまり今まで神が召して下さったことに応えて責任を果たしてきた召命を後にして、これからは、新しい召命において、新しい召しに応えて責任を果たしていくことになるわけです。
◎ややもすると私たちは、職業や仕事を天職と思って、そのことが絶対であり揺るがないものと思いがちですが、神が人を召すのに固定した場所はありません。その場所は、いわゆる職業や仕事に限りません。専業主婦や子育ての場所、親や子としての場所、妻や夫としての場所、男や女としての場所、また介護としての場所や病人としての場所もあります。人は働くために生きているのではなく、生きるために働いているのです。
 <おのおの自分が召されたときの状態にとどまっていなさい。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです>とあるように、新しく召されたとき、ちょうど栄光に輝く新しい向こう岸に向かって船出していくように招かれているのです。福音書にはイエスがたえず<向こう岸に行こう>と言って弟子たちと一緒に行ってますが、そこでは本当にすばらしいことが起こっています。イエスご自身が「神の国」ですから、イエスと共にある弟子たちはすばらしいことを経験するわけです。それが向こう岸なのです。だから召されるということは、不安は伴いますが、不安の中にあっても栄光に輝く新しい向こう岸が待っている、そこに船出していくということなのです。
◎じゃ神から召された時、今まで自分が生きてきたことはどうなるのだろうかと考えます。
 例えばパウロは、自分のことを「私はヘブライ人の中のヘブライ人、律法に関してはファリサイ派の一員である」と語っています。そのために彼は熱心に教会を迫害しました。その彼の有様は使徒言行録に3回出て来ますが、非常に生々しく、徹底し、気が狂ったようにキリスト者を殺したりもしています。そのように教会を迫害するほどまでに律法に関して熱心だった彼が、ダマスコに行く途中、天から光が照って、<サウル、サウル、どうして私を苦しめるのか>という声を聞き、「そういうあなたはどなたですか」と言うと、<あなたが迫害しているイエスだ>と復活のイエスの出会う、これが彼が召しを受けたときです。それからの彼は「福音と律法」の正しい関係を打ち立てる使命を与えられ、その生涯を貫きました。律法に熱心であったがゆえに本当のキリスト教教義を確立する善きわざへと変えられたのです。もし彼がいなかったらおそらくキリスト教はすでに無くなっていたであろうと言われているほどです。
 それはモーセも同じです。彼はエジプト人として成長しながらも、ユダヤ人が奴隷扱いされているのに我慢できず、ユダヤ人を助けようとしてエジプト人を殺しました。そのために追われる身となり、逃亡先で羊飼いとして80才になったとき、神に召されました。それはかつて若いときに奴隷のユダヤ人を助けようとした彼が、本当の奴隷解放である出エジプトを行なうためにエジプトに遣わされることでした。
 またペトロもそうです。彼が一人前の漁師になったのは父から教わったからですが、彼が使徒になったのは経験を積んだからではなく、キリストから<私についてきなさい。人間をとる漁師にしよう>と招かれたからです。
◎このように神に召されると、召しを受ける前のことが否定されるのではなく、より豊かに用いられ、最も善く生かされているのは、その人が気づかずともイエス・キリストによってご自分を示された神が、誕生からずっと見守り、それまでの召命のすべての場所においてもその人と共に歩んでおられたからです。
 神に召されてキリスト者となった私たちも同じです。その人がキリスト者であるかどうかは神が判断なさることですが、とにかく私たちは教会に集められて、神の言葉を聞き、たえず新しい召しを受ける備えをしていくことが求められています。もちろん召しを受けた私たちを神がどこへ連れて行くのかを前もって知ることはできません。
 私は75になったとき、それまでいた教会を後にしました。それはアブラハムの旅立ちと重なっていて、母教会に戻って礼拝を守っていました。それから5年経って80になったとき、モーセのエジプト派遣と重なり、どうなるだろうかと思っています。神はどこに導かれるのか、行先知らずで、前もって知ることができないのは、私だけでなく、皆さん一人ひとり同じです。しかし、「神様、いつでも用意しています」という心の準備が大切です。なぜ前もって知ることができないのかというと、聖霊が私たちを導いているからです。聖霊は自由に賜物を与えるお方です。
 しかし、世界の罪でも人類の罪でも隣人の罪でもなく、この罪人である私のために十字架に死んで罪を贖い、すべての借金を支払ってくださったお方は、過去の自分を最もよく御存知であり、あの時にもおられたし、「さ迷い出でたるわれを、伴い帰りて」という賛美歌にあるように、これまでずっと見守り、あの「4つの足跡」のようにいつも共にいて導いて来られた。そのことを信じて、上と下とか、左と右とか、こういう部分からではなく、全体から、つまり上下左右の中心である命そのものにふれて、そこにおられる聖霊に呼びかけながら、その声を聞きながら、天の窓から今の自分を見ながら、また教会を見ながら、これまでの体験からさらに確かな道へと開いてくださることを心から信じ、共に感謝して歩んでいきたいと思います。

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