2024年4月14日 聖書:マルコによる福音書1章1~10節 「力ある方が来られる」大薮善次郎牧師

 最古のマルコ福音書には「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」とい
う言葉ではなかった。「イエス・キリストの福音のはじめ」だけだった。つま
り神の子というのが欠落していたのである。そこにはマルコの主張があった。
イエス・キリストは権威を持った人間ではなく、神の愛を伝える普通の人間だ
った。
 イエスの生きた時代、それは奴隷制によって、人が人を抑圧していた。その
社会にあって神の愛を顕現させて下さった方、それがイエスである。
 パウロはダマスコへ行く途上で幻の中でイエスと出会い、これが彼の復活体
験となった。彼は「万民は恥ずべき罪人であり、それを救う為にキリストは残
酷な刑を受けて死んだ。」と考えた。そこでは、イエスは革命家キリストのイ
メージがある。これも一つの権威主義ではないか。しかしマルコが母親から聞
いたイエスは普通の人間であり、神の愛を語った人だと言う為に、福音書を書
いたのだ。
 牧師という仕事を隠退して改めてマルコ福音書を読み返してみた。すると私
自身が一つの権威主義に陥っていたことに気付かされている。愛に権威主義が
あってはならない。互いに愛し合うには、普通の人間であらねばならない。
 マルコが生きた時代、抑圧されている人々を癒しながら旅をした。当時の価
値なき人々に、神に愛されていることを、体をもって示した人間であった。
 86才になった私は、これまでにどれだけの神の愛を受けたかを数えてみた
。洗礼を受けた時が、私の復活体験ではなかったのか。なぜなら、それ以来、
神の愛を感じる人間になっていたのだから。
 毎年復活節には、自分の洗礼を考え直してみたらどうだろう。そこでは、神
様の恵みが豊かにあるではないか。

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