2024年4月21日 聖書:コリントの信徒への手紙①1章30~31節「義と聖に生きる」川本良明牧師

◎新約聖書には「誇る、誇り」という言葉が59回出てきますが、そのうちの53回がパウロの言葉です。それほどに彼は「誇る、誇り」にこだわっています。しかし、彼がそれを否定的に語るときは、律法を誇ることや高慢など肉の誇りを意味しています。そして重要なのは、今日の説教題とも関係しますが、義と聖になられたキリストにあずかるという積極的な意味で用いていることです。今日の聖書個所の最後にある<誇る者は主を誇れ>もその1つです。
 しかし、誇ると言えば、私たちはマイナスのイメージを持っています。高慢な態度や競争に打ち勝って勝ち誇る虚しい誇りのイメージが影響しているせいか、クリスチャンは誇ってはいけないという先入観があるようです。しかしそうではないことに用心しながら見ていきたいと思います。
◎<誇る者は主を誇れ>とは極めて積極的な言葉ですが、まず<誇る者は>と言っているように、自分の中には誤った誇りがあり、いつもそれに縛られている現実を認めています。たとえば、肩書きやパワハラや上からの目線で語ったり見たりするなど、まさに高慢の罪がもたらしている様々な誇りを持っています。しかし、それをただ否定するのではなく、誇りを求める思いを認めながら、誇りたいならば本当の誇りに目を向けなさいと言っているのです。
 キリストが来る以前の旧約時代の預言者エレミヤも、<主は言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい。目覚めて私を知ることを。私こそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行なう事。その事を私は喜ぶ、と主は言われる>(エレミヤ9:22~23)と語っています。まず「誇るな、誇るな」と語った後、目覚めて私を知る事を誇れと言っています。
◎しかしそう言われても私たちは、目覚めることも主を知る事もできないし、高慢の罪によって誤った誇りから解放されないでいます。しかし、私たちには見ることも知ることもできない全能の神は、イエス・キリストとなってイスラエル民族の一人として生まれ、およそ30才になって公の活動を始めました。しかし、わずか3年足らずで、人々の妬みと憎しみを買って十字架にかけられて殺されてしまいました。ところがそれから三日後、神はこのイエスを復活させました。そして私たち人間の罪に対する裁きがイエスの死によって完全に終わり、罪が贖われたことを示されました。さらにそれから50日目に教会が生まれたのでした。
 ところが教会が活動するのを見て、激しく怒ったのがパウロでした。彼がダマスコにクリスチャンたちがいると聞いて、そこに向かっていたところ復活のイエスが彼に出会ったのでした。突然、天から光が照って目が見えなくなった彼に、<サウル、サウル、なぜ私を迫害するのか>という声が聞こえました。サウルとはパウロの前の名前です。彼が「そういうあなたはどなたですか」と聞くと、<私は、あなたが迫害しているイエスである>との答えがありました。「あなたが苦しめているのは私なのだ。私が苦しめられているのだ」との声を聞いたとき、彼は涙を流しているイエスを見たと思うのです。そのとき彼はガックリとし、自分の中で何かが吹っ飛んだのを感じました。そして、これまで血眼になって教会を迫害していた自分がいかに誤った誇りに縛られていたかに気づかされ、その誇りが根底から打ち砕かれたのでした。
◎パウロは、熱心なユダヤ教徒として律法を誇っていたことから、キリストに結ばれることによって抱く確信と希望を誇ることへと導かれていきました。そのキリストを語っているのが、先ほどのⅠコリント1:30~31の言葉です。<神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、私たちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。>まず彼自身がキリスト・イエスに結ばれました。だから彼は確信をもって、キリストは神の知恵であり、義と聖と贖いとなられたのだと語っているのです。
 かつて神は、600年以上前に預言者エレミヤを通して、<私は、慈しみと正義と恵みの業を行なう>と語りましたが、今、使徒パウロを通して、<私たちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたキリストの業である>と語っているのです。
◎しかし、初めて教会に来て、聖書を読む人にとって、<知恵と義と聖と贖い>とは何のことか分からないと思います。知恵は死んだ魂が生き返るときに働きます。聖書は、神が人間を土の塵で肉体を造り、命の息を鼻から吹き込んだと書いています。この神の息が人間の魂です。しかし人間は神から離れ背いて魂は死んでいるのです。知性、感情、意志でできている魂は死んでいて、人間は身体だけが動いている生ける屍なのです。ところが、神が魂を生き返らせるとき、知性は知恵となり、感情は美しく高貴となり、意志は正しい勇気となります。このように死んだ魂が復活するときに知恵が働きます。<主を畏れることは知恵の初め>(箴言1:7他)とあるとおりです。
 そして義とは、キリストの業によって神に義とされることであり、また聖とは、キリストの業によって神のものとして聖別されることであり、贖いとは、キリストの十字架の死によって、罪と滅びから救われて、神に無償で義とされて、神の子とされることを意味しています。
◎まず神に義とされることについてですが、私たちには知ることも見ることもできない神は、神の方から人間の姿で現われて下さいました。そして、卑しい身分となって、十字架の死に至るまで歩まれたことによって、私たちの代わりに罪を裁かれて下さいました。この神がなさったことが自分のものとなるのは信じるときです。そのとき人は神に義とされるのです。
 しかし、イエスをキリストと信じないユダヤ人たちは、神から授けられた律法を守れば神に義とされるという律法主義に立っていました。そのためパウロは、イエスをキリストを信じるとき神に義とされるという信仰義認に立って、自分の努力で神に義とされるとする律法主義に立った行為義認に対して命がけで戦ったのでした。しかしこの戦いは、次第に教会からなくなっていき、律法主義が支配するようになりました。そして16世紀になって、カトリック教会の律法主義を拒否して起こったのが宗教改革なのです。<ただイエス・キリストへの信仰によって人は神に義とされる>(ガラテヤ2:16)とあるとおりです。
◎次に神のものとして聖別されることについてですが、神はイエス・キリストにおいて人間になられました。つまりイエス・キリストは、被造物でありかつ罪を背負っている私たちと同じ人間になったということです。しかし、完全な神であると同時にへりくだって人間と同じ者となった彼は、神であることに変わりありません。ですから私たちとはちがった仕方で人間であるのです。
 つまり彼は、人間としての貧乏や病気、苦痛や悲惨、困難な状況に身を置きながらも、そのような被造物としての限界をまったく超えていました。それらに流されることはなく、常に抵抗し戦っていました。彼は、罪に囚われていましたが、罪を犯す負い目をまったく持っていませんでした。彼は微塵も罪を犯すことはありませんでした。私たちは皆死を迎えますが、彼も死ぬべき者となり、実際に33才の若さで十字架にかけられて死にました。しかし彼は死から直ちに完全に解放され、復活して死に勝利されました。このようにイエス・キリストは、私たちの人間性を超えた完全な人間となって、神の右に高く上げられたのです。
◎今人間イエスのことを語りましたが、彼は神の子でもありました。彼が神の子としてどんな生涯を送られたかを私たちはよく知っています。イエスがゲツセマネの園で、<アッバ、父よ、この杯を私から取り除けて下さい>と叫ぶように祈りました。しかし答えはありませんでした。また十字架の上でも、<わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか>と絶叫し、完全に神に捨てられたことを実感したまま息を引き取られました。そしてなぜ彼がこんな苦しみを受けなければならなかったのか。それが父なる神の愛であり意志であり、この神と1つであった彼が、本当なら私たちが受けねばならない神の裁きを、私たちに代わって裁かれるために苦しまねばならなかったし、父なる神も子なるイエスと共に苦しまれたのだということを私たちは知っています。
◎この人間イエスをキリストと信じるとき、私たちは神に義とされます。つまり、<私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛してくださった>(Ⅰヨハネ4:10)とあるように、それほどまでに神は身を低くされ、私たちを愛してくださっているのです。
 この神が、私たちと同じ人間となって、いわゆる「生・老・病・死」のあらゆる苦しみを苦しみながらも、それと戦い、それに勝利されました。<キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました>(ヘブライ5:7)とあるように、イエスは私たちの人間性を超えた完全な人間となって神の右に高く上げられました。それは何のためか。それこそ私たちが、神のものとして聖別されるためなのです。
◎先ほどの賛美歌513は、<その主に私はどう応えよう。主のため私は何を捨てよう>と歌っています。しかし十分に注意していただきたいのですが、神に義とされるのが自分の努力ではなく、ただ信じることによって義とされるのと同じように、神に聖別されるのも自分の努力で頑張るようにと求められているのではないということです。聖なる栄光のキリストは、私たち人間の汚れと悪と罪と死つまり生老病死のあらゆる苦しみを引き受け、それに勝利して完全な人間となりました。その彼が、私たちを聖別し、完全な人間性に生きるものとしてくださるのです。
 ただ愛されることにとどまるのではなく、愛されたがゆえに私たちは何をするかを求められているのです。しかし、私たちに求められているのは、「神様、どうかあなたのわざを私の内になさってください。あなたがそうしてくださることを信じて感謝します」と祈り願うことだけです。ですから、聖霊を豊かに注いで下さることを神に願うように勧められているのです。聖霊はイエス・キリストの霊であり、求めれば私たちの内に宿ってくださいます。ですから、「神様、私はこんな人間です。愛せないのです。私は誇るし、ダメなんです。けれども、あなたにはおできになります。だからあなたに信頼し、いっさいを委ねていきます。どうか助けてください。」そのように祈り願うことだけが求められているのであって、自分で頑張って実行することではないのです。
◎神がご自分のものとして聖別して下さるということ、ですから私たちに求められているのは愛なのです。信仰ではなく、愛なのです。信仰とは、神がイエス・キリストにおいて十字架に死んで、私たちの代わりに罪を裁かれて下さったことを信じることです。神に義とされるために信じなさいと言われているのです。けれども今私たちに求められているのは愛なのです。
 これほどまでに神は私たちを愛してくださった、その神の愛に愛をもって応えることが求められているのです。しかも神の愛に愛をもって応えることだけが求められていることを信じ、感謝して、新しい歩みへと進んでいきたいと思います。

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