2024年5月5日 聖書:ルカによる福音書5章1~11節「神さま一番」川本良明牧師

◎教会は去る3月31日にキリストの復活を祝いましたが、復活したキリストは40日間、弟子たちと生活を共にした後、天の神のもとに帰りました。それを昇天と言います。その10日後に今度は聖霊として再び地上に戻ってきます。それを教会はペンテコステとして祝います。
 しかし、今日初めて教会に来られた人、初めて聖書を読まれる人にとって、復活とか昇天とか聖霊やペンテコステと聞いても何だかよく分からないと思います。しかし、すでに神を信じて歩んでいるクリスチャンたちを見てお分かりだと思いますが、クリスチャンとはどういう人かを一言で言えば、「神さま一番に生きている人」ということができます。
◎神さま一番とはどういうことかを知るために今日の聖書の個所を取り上げました。これはイエスの12人の弟子の中の指導者となるペトロがイエスと出会う場面です。
 ペトロはまだシモンと呼ばれています。ゲネサレト湖で漁師であった彼と仲間のヤコブとヨハネが網を洗っていると、続々と群集が集まって来ました。見ると行く手にイエスが立っています。そのイエスが近づいてきて、シモンに舟に乗せてくれるように頼んできました。彼は舟を出し、イエスが腰を下ろして岸の群集に話をしている間、話がしやすいように舟を操作していました。やがて語り終えたイエスはシモンに、「沖に漕ぎ出して、漁をしなさい」と言いました。この言葉に彼は、「先生、私たちは夜通し働きましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから網を降ろしてみましょう」と言って網を打つと奇跡が起こりました。これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏し、「主よ、私から離れてください。私は罪深い者なのです」と言いました。すると、イエスから、<恐れることはない。あなたは今から人間をとる漁師になる>と言われました。そこで彼は、何もかも捨ててイエスに従ったのでした。
◎この物語を注意して読んでみると、シモンは最初はイエスを「先生」と呼んでいますが「主よ」に変わっています。また「これを見たシモン・ペトロは」と、ここだけはシモン・ペトロになっていることが分かります。また他の福音書との違いもあります。マタイやマルコ福音書では、イエスから、<私についてきなさい>と言われて、<すぐに網を捨てて従った>とだけ書かれていますが、ルカ福音書では、このようにイエスに出会った場面を生き生きと描いています。
 このことから私たちは、即座にすべてを捨ててキリストに従うこともありますが、人によっては、判断や決心がつかない弱さや迷いがあり、そうした弱さや迷いを経ながらもキリストに従う者になっていくこともあるということを教えられます。
◎当時のイスラエルでは、漁師はもちろんどんな階層の子供たちも皆、会堂で文字を習い、聖書を学んでいました。幼児にケーキに書いた聖書の最初の文字(ユ)を食べさせることから始めて、少し年令が進むと、聖書は希望の書であり、イスラエルは希望の民であることを学びます。ですからユダヤ人たちは皆、聖書から、神が預言者たちを通して約束していたことを知り、信じていました。それはキリストが自分たちの子孫として来られるという約束です。
 子孫の一人としてキリストが来るわけですから、ユダヤ人にとって子孫を残すことは大変重要なことでした。ですからその掟を故意に破れば死ぬことになります。創世記38章9節以下にその実例が書かれています。また律法にも、<女と寝るように男と寝る者は、両者共にいとうべきことをしたのであり、必ず死刑に処せられる。彼らの行為は死罪に当たる>(レビ20:13)とあります。しかし、これを異性愛は良いが同性愛は悪いと解釈するのは誤りであって、同性愛を禁じているのは子孫を残さないことになるからです。しかし、今はもうキリストが来たのですから、この掟の使命は終わったのです。ですからキリスト教会は、「聖書に照らして、男性同士、女性同士が愛し合うことは何の問題もない。」と伝えているし、伝えなければならないのです。
◎物語に戻りますが、どんな階層の人でも皆、神が必ずキリストを遣わしてくださると信じて待っていました。ところが今ペトロは、イエスに対して、「この方は本物だ」と確信しました。それは群集に語る彼の言葉をそばで聞いていて、当時の聖書の専門家たちとはまるでちがって、本当の権威と本当の平安を感じたからでした。彼は、このイエスこそ聖書を通して預言者たちに示された全能の神と1つであり、神一番に生きているお方だと直感的に見抜いたのです。
 その直感が間違いではなかったことを確信したのは、イエスが、<あなたは今から人間をとる漁師になる>と語るのを聞いたときです。マタイやマルコ福音書では、<あなたがたを人間をとる漁師にしよう>と語っています。しかし、今イエスは、<あなたは人間をとる漁師になる>と言っています。つまり私ではなくて、全能の神があなたを人間をとる漁師にしてくださると語っています。このように、イエスご自身が全能の神一番に生きていることを示しているのです。だから「この方は本物だ」と確信したペトロは、神さま一番に生きるイエスに賭けたのです。神さま一番に生きるとは、最も大切なものに賭けることです。<人間をとる漁師>とは、人の魂を命へと導くことです。これこそ最も大切なものだと信じてペトロはイエスに賭けたのです。
◎ところで私たちは、生きる上で何を最も大切なものとしているでしょうか。3Kつまり健康、稼ぎ(仕事)、関係(人間関係)でしょうか。この中で最も大切なものは健康ですか。健康ほど不安定なものはありません。では稼ぎでしょうか。これもまた危ういものです。また人間関係ほど難しいものはありません。健康も稼ぎも人間関係も皆、不安定であって、しかも1つでも崩れると他の2つもダメになることは、皆さんも経験しておられるのではないでしょうか。
 考えてみると、この3つはどれも皆、横並びのものであり、比べあって保たれています。病気しないように健康に気を使っています。また損をしないように儲ける努力をしています。そして人間関係が崩れないようにいつも神経を使っています。このように下ばかり見ていますが、私たちにとって最も大切なことは、下ではなく上を見ることではないかと思います。
◎ペトロも同じでした。それが今イエスに出会って、大切なのは上だと気づかされたのです。自分はこれまで下ばかり見て右往左往していたけども、上から見ると何か安らかなものが生まれてくる。それで彼は、どんなことがあっても、神さま一番に生きることを決心したのです。
 そこで神さま一番に生きることがどういうことかをいくつか考えたいと思います。
○神さま一番に生きるとは、賭けること、決心することです。しかし、ただ賭けること、決心することではなく、イエスに賭けること、イエスに従う決心をすることです。そのためには、イエス・キリストを知る必要があります。しかしそれは、教会の歴史や伝統や教会員を知ることよりも、まずイエス・キリストが何をされたのか、どういうお方であるのかを知ることです。そして本当に知ったならば、人に告白せざるを得なくなります。
 しかも、知ることも告白することも私たちにはできません。とてもできることではありません。しかし、聖霊が私たちに宿ったとき、聖霊によって私たちの目が開かれ、心が開かれて、自ずからそのようになっていくことが約束されていることに感謝したいと思います。
○神さま一番に生きるとは、正しい生き方をすることです。漢字の「正しい」という字は、上が一、下が止となっています。一とは一番、つまり、<初めに、神は天地を創造された>とあるように、すべてがそこから始まる「始まり」を示しています。上にあって、そこから始まる。まさに天、神です。そして下は止まる、つまり、とどまる、こだわる、執着することです。
 ですから正しく生きるとは、天の生ける神にとどまり、天を見上げ、生ける神を捕まえて離さないで生きるということなのです。
○神さま一番に生きるとは、二股に股がらないことです。雀が電線に止まっているのを見ますが、1つの線に止まっています。鳥が2本の枝に足をまたいで止まっているのを見たことはありません。正しいのと同じで、天の神だけを見上げて、二股にかけないことです。
 イスラエルの民が陥ったバアル信仰や偶像崇拝というのは、ヤハウェという本物の神を捨ててバアルを信じたのではありません。ヤハウェを信じながら同時にバアルを信じたのです。だから神は預言者を通じて徹底的にその二心を怒り、裁いたのです。
◎再び物語に戻りますが、群集に語り終えたイエスから、「沖に漕ぎ出して、漁をしなさい」と言われたとき、ペトロは、「先生、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えました。
 じつは彼は、イエスから舟を出すように頼まれたときガックリしていました。「夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」と言っているように、丸一日働いたけれども無駄だったというのです。それは私たちの日常生活においてもよくあることです。しかしペトロは、「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と元気を取り戻しています。それは、すでにその前に、「この方こそ神さま一番に生きている人だ。この方に賭けよう。」と、イエスさまを一番にしていたから元気を回復したのではないかと思います。
◎イエスさま一番、神さま一番を思い起こしながら、目を天に向けて、「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言って網を降ろすと、おびただしい魚がとれました。このペトロの体験を私たちもしているのではないでしょうか。私たちはいつもいろんなマイナスのことに襲われて、ガックリすることがたくさんあります。けれどもその度に、あっ、そうだ、神さまだ、と気づいて、まず神さまを一番にして天を見上げながら歩むことを繰り返していると、やがてどんなことがあっても上に目を向ける者になっていきます。
 しかもペトロを見ると、おびただしい魚がとれるという神の業を体験したとき、彼は決して得意にならず、むしろ、「主よ、私から離れてください。私は罪深い者なのです」と言ってイエスの足下にひれ伏しました。私たちが落ち込んで、目の前が真っ暗になり、右往左往しているとき、神は、私たちよりもはるかに低い、最も低いところに身を置いておられます。その神に、ありのままに、飾らないで、「先生、私はこんな者です」と率直に打ち明けるとき、神はそこから、「それでいいんだよ」と言っておられます。
◎イエス・キリストは、真の神であり、真の人です。真の神は、最も身を低くされ、卑しい奴隷身分のお方です。また真の人は、私たちの人間性を回復して、高く挙げてくださり、私たちをしっかりと人間らしく生きる者としてくださるお方なのです。
 このようにイエス・キリストは、病や死に勝利し、様々な制約を超えている人間イエスとして神の右に座しておられます。そしてこの人間イエスが聖霊として私たちの内におられるのです。ですから私たちは、たえず下からではなく上から物事を見るとき、ペトロのように元気を取り戻します。そのときには、得意にならないで、むしろ、こんな自分を神さまは用いてくださる機会を与えてくださっていることを喜ぶことができるのです。それらのことを感謝して、新しい一週間を共に歩みたいと願っています。

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