◎今日本は、特別永住者28万人、中長期在留者 294万人、「帰るに帰れない」非正規滞在者 7万人、短期滞在者 3万人以上など、外国人と言われる人たちが約332万人にいると言われています。しかも出身国は193でほぼ全世界の人々が日本に暮らしていて、今や日本は「多国籍・多文化」社会となりつつあります。ところが外国人に対する日本人は、個人では親切で優しいけれども全体では排外主義と同化主義であると言われます。この隔たりを生み出す要因は何でしょうか。
◎去る3月15日に閣議決定した「永住許可取り消し法案」と呼ばれる法案が、先日、衆議院で可決されました。これに反対する全国集会を先月の26日に外キ協がオンラインで開きました。一人3分の反対の声をあげるもので、私も九州・山口外キ連として参加して、①外国人犯罪率を高く見せる世論操作をやめよ、②仮放免の人たちに働かせないなど極めて非人間的な制度をやめよ、③日本政府と御用学者たちは奴隷解放の主を相手にしていることに気づけ、と語りました。
①について、昔、在日韓国・朝鮮の人たちには外国人登録証明書の常時携帯義務が課せられていました。近くの銭湯に行く途中で警察に呼び止められ、登録証を持っていないと警官が家まで同行し、登録証があることを確認しても不携帯として犯罪者となるわけです。現在は外国人登録証明書はなくなり在留カードとなりましたが常時携帯義務は変わりません。ですから警察が発表する外国人の犯罪は、圧倒的にこうした事例であり、新聞がそれをそのまま載せるので「外国人の犯罪は多い・怖い」という世論が作られるわけです。
②について、在留期限が切れたりして収容されます。それだけでも家族は生活に困るのに、やっと仮放免されても就労制限されて働くことができないのです。
③について、三千数百年前に神は奴隷であったイスラエルの民をエジプトから解放しました。これは人類最初の奴隷解放です。そして今や全世界で人権が叫ばれるようになっています。それは、奴隷解放の神がずっと働いておられるからです。あなたがたはこの神を相手にしていることに気づかないのか。いったい日本はどんな将来を招こうとしているのか。
このようなことを語ったわけです。特別永住者とされている在日韓国・朝鮮の人たちが、今なお本名ではなく通称名で生活しているのは、社会的圧力があるからです。本名を名乗れば仕事がないなどの現実が今もそのまま生きていることに私たちは気づかなければなりません。
◎最近の外国人の問題を紹介しましたが、毎日話題となっているウクライナやパレスチナの戦争も日本における外国人に対する問題も皆、民族をめぐる問題です。世界中どこの国でも多様な民族が混在しています。日本も例外ではありません。そして人は皆、自分の民族の中で、男と女、夫と妻、親と子などの関係で生きています。それは他の民族の中でも同じであって、人は皆、例外なく民族の一員として生活しています。
私たちは教会で聖書を開きますが、巷では労働やセックス、差別や人権、民族紛争などが話題になっています。じゃ聖書はそれらと何の関係もないのかというと、まったく逆であって、聖書の神の言葉は、私たち人間が行なっているあらゆる事柄に光を照らしています。そこで今日は、話題を絞って、民族の事柄を聖書がどのように語っているかを聞きたいと思います。
◎聖書に民族のことが初めて現れるのは創世記10章です。ノアの大洪水で人類が滅んだ後、現在の民族はノアの子孫から始まったと語り、3人の息子の系図が紹介されています。それぞれヤフェトの系図は2~5節、ハムの系図は6~20節、セムの系図は21~31節に、<氏族、言語、地域、民族>ごとにまとめられ、<地上の諸民族は洪水の後、彼らから分かれ出た>と締めくくっています。つまりノアに始まる人類は、洪水後に神がノアに対して結んだ契約(9:8以下-「私は二度と洪水で滅ぼすことはしない」との約束)のもとで、夫婦から家族、家族から氏族、氏族から部族、部族から民族にまで発展しながら全世界に広がってきたのです。
◎その間、人々は結婚を通じて混じり合い、文化的に交流し合ってきました。ですからどの民族も混合民族であって、純粋な血を持った民族は存在しないし、ましてある民族だけが優秀であるような民族は存在しないのです。民族について語る10章は、民族間の対立や戦争よりも平和の響きがあります。それは洪水前と同じ罪人である人類に対する神の配剤(計らい)なのです。
そのことをパウロも使徒17:26~27で、「神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。」と語っています。
◎ところが、10章で祝福として働く神の計らいが、11章では怒りとして現われてきます。それが一般にバベルの塔の物語と言われている個所です。同じ文字と話し言葉で心を通わせ、また「石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた」といった技術革新で町を建設し、塔を中心として一つにまとまり、幸福な生活をめざすことは何の問題もありません。
ところが、塔を天に届かせようと動き始めたとき事態は急変しました。これまで彼らを養い育て愛してきた真実な本物の神を無視し、神に背いて、権力欲が町全体を覆うと、高い塔は自分たちが考え出し造り出した偽物の神を求める神聖な祭壇となり、技術革新で生み出されたレンガやアスファルトは、人々の幸福よりも聖なる塔の建設の方に優先されるようになりました。このような町の変化によって、社会は人の命よりもレンガの方が大切になっていきました。
こうしたことは今の私たちの周りでも起こっています。これから迎える高齢化社会に備えて法律を定めて福祉行政が進められ、初めは人間的な目標を持って施設が建てられました。その動機は良かったのですが今はどうでしょうか。施設は隔離する収容所のようになっています。こうした変化は同じではないかと思います。もちろん批判者は闇から闇に葬られていきます。
◎ここで思い起こすのは出エジプト2:23~25です。<それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた。>神は黙ってはいません。
神はノアとの契約を想い起こし、今、高い塔の建設に苦しむ人々の叫びを聞かれました。そこで神は、降って来て、町の様子を見、こんな有様になる原因を掴み、突然、互いに言葉を通じなくさせて、その企てを一発で消滅させました。ちょうど町全体に電気を送るおおもとの電源を突然OFFにすると、何もかも動かなくなるように、建設が出来なくなり、一緒に住めなくなり、それぞれの地域で増えていき、こうして民族が発生したと語っているのです。
◎民族について語る10章と11章を見てきましたが、前者が良くて後者が悪いというのではなく、どちらにも光と闇があります。10章では、民族間の対立は見られません。しかし、平和な社会が続くと、伝統を重んじ秩序が固まり、独自の文化が形成されていきます。ところが次第に閉鎖的で内向きになり、強い差別を生み出していきます。これは日本の徳川時代にその例を見ることができます。平和な250年間にきわめて強い部落差別や女性差別を生み出しています。
また11章では、差別を生み出す閉鎖社会の伝統や秩序を打ち破ろうとする動きまでは良かったのですが、革命を起こして社会が開かれたように見えながら、外に侵略していく社会となっていきます。これもまた日本は経験ずみです。幕末の動乱の中で大国の植民地にならずに独立を保ちましたが、結果として対外侵略を引き起こしていきました。
◎ここで聖書が何を語ろうとしているのかを考えたいと思います。10章の前の3~9章までは、アダムからノアまでの物語です。また11章の後の12章からは、アブラハムから始まる一つの民族の物語となっています。アダムやノアには神は直接語りかけています。しかし10章11章では、神は民族に語りかけていません。神が語りかけるのは、民族の中で生きている男女や夫婦、親子など一人ひとりに対してです。それが12章から再び始まるわけです。
しかもアブラハムに始まるイスラエル民族は、アブラハムが百才、妻のサラが90才の時に生まれた子供、つまり人間の介入なしに全く神の創造の業によって生まれたイサクからヤコブが生まれ、ヤコブから12人の子供が生まれた後、どんどん増えていった子孫なのです。だからイスラエル民族・ユダヤ民族は、世界の諸民族とはちがって神が直接興した特別な民族なのです。聖書はこの民族の歴史を主題としているのであって、諸民族は副題にすぎないのです。
◎世界の民族は、ユダヤ人を見すえて前進するときに神の救いを与えられます。<救いはユダヤ人から来る>(ヨハネ4:22)とイエスご自身が語られています。つまり世界の民族の救いの地平線には、ユダヤ人がいるのです。
ところが、神こそ王であり救い主であり裁き主として信じているユダヤ民族は、いつも他の民族の中に埋没する誘惑にさらされてきました。神ヤハウェを信じながら同時にバアルを信じるという偶像崇拝の誘惑です。しかも誘惑にさらされるだけでなく、それに陥ってしまいました。しかし神はそのことを百も承知であって、イスラエルを通して示されるはずの世界の民族の救いの地平線を、神ご自身が事実として示されました。それがペンテコステの出来事なのです。
◎神によって興されたユダヤ民族の子孫からキリストは誕生しました。神はイエス・キリストというユダヤ人の一人としてこの世に来られて、十字架の死で終わる苦難の生涯を送られました。しかしその十字架の死によって罪の贖いを成し遂げられ、その3日後に復活されました。そして40日間、弟子たちと生活を共にした後、<私はあなたがたを独りぼっちにしない。必ず戻って来るから待っていなさい>と言って天に昇られました。その10日後に約束どおり聖霊として降ってきました。それがペンテコステの出来事です。
教会の三大行事はクリスマス・イースター・ペンテコステです。クリスマスはキリストの誕生を祝う日、イースターはキリストの復活を祝う日、ペンテコステは昇天したキリストが聖霊として再び降ってきたことを祝う日で、今日はそのペンテコステの日なのです。
◎使徒2:1~4を読むと、まず<五旬祭の日が来て>とあります。五旬祭とは、ユダヤの三大祭りの一つである収穫感謝祭のことです。過越の祭りから50日目なので五旬祭と呼びます。つぎに<一同が一つになって集まっていた>とある「一同」とは、キリストの約束を信じて祈って待っていた弟子たちです。この彼らに、突然、聖霊が降って来ると、その物音に、五旬祭の巡礼で来ていたユダヤ人たちが驚いて大勢集まって来ました。
このペンテコステの出来事で重要なことの1つは、<すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。>とあるように、聖霊を受けた人々が、あらゆる国々の言葉で神の偉大な業が語られたということです。このことは外国語に限らないで日本の中でも同じことが言えます。各地域に土地言葉があります。これを1つにまとめて標準語にすることによって言葉が全国に通じるようになり、国民が心を1つに通わせることに問題はないのですが、しかしそのために土地言葉が「方言」とさげすまれ、方言を使うのを恥とすることは間違いだと思います。明るい面と暗い面を合わせ持つ民族の罪の現実を突き抜けて、異なる言葉のままに、神の言葉であるイエス・キリストを中心に1つになることが起こったのです。あらゆる土地言葉のままに、イエス・キリストを中心に1つになることができるのです。
◎ペンテコステの出来事で今1つ重要なことは、教会が誕生したということです。聖霊が降った物音に集まってきた人々に、ペトロが大胆にイエスが十字架に殺された顚末を語りました。「あなたがたは、罪のないイエスを異邦人の手に渡して十字架に殺しました。しかし神は、この方を復活させました。」と語るのを聞いたとき、胸刺され、心打たれたユダヤ人たちの上にも聖霊が降りました。そこで三千人もの人々が一気に洗礼を受けて、ここに教会が誕生しました。
ですから教会は、ペンテコステの出来事によって誕生したのであって、志を一つにした同志たちの集まりでも政治結社でも同盟でもありません。教会は、聖霊の力によって目覚めさせられ、イエスをキリストと告白する人々の集まりです。聖霊とは、神の右に座しておられるイエスの霊です。ですから教会は、そのイエスの地上的、歴史的なからだであることを覚えておきたいと思います。神の言葉が語られ、神がイエス・キリストによって、神の敵であった私たちの罪の赦しと神の愛と希望が証しされるところ、それが教会なのです。
◎私たちは、世の人たちに先立って神が私たちを選んで、聖霊の実にあずかって、一人ひとりが聖霊の実を結ぶようにと教会に招かれているのです。神は、いつの時代にも人々の中に聖霊として働いておられたし、今も働いておられます。そのことを気づかせてくださり、そのことを証しする者となるために招かれていることを感謝し、共に歩んでいきたいと思います。