2024年6月2日 聖書:コリントの信徒への手紙Ⅰ 15章1~5節「福音の恵みに生きる」川本良明牧師

◎ただいまお読みしたコリントの信徒への手紙を書いたパウロは、3回の伝道旅行をしていますが、コリント教会は2回目の時に生まれた教会です。この手紙は、3回目の旅行でエフェソに滞在していたときに、コリント教会が心痛める問題に直面していることを耳にして書き送った手紙です。そしてコリントに向かっていく途中でその問題が解決したことを知って喜び、教会に到着すると3か月間滞在して交わりをもちました。その後、二度と訪問できないままにエルサレムで迫害され、囚人としてローマに連行されることになります。このように彼の伝道旅行は、物見遊山や観光といったものではなく、いつも緊迫した中で、いわば命がけの旅行でした。
◎その彼は、以前は熱心な教会の迫害者でした。ところがキリスト者たちを捕まえにダマスコに向かっていた時、突然、天から光が照ってきて、「サウル、サウル、どうして私を迫害するのか」という声がありました。「そういうあなたはどなたですか」と言うと、「あなたが苦しめているイエスだ」との答えがありました。こうしてパウロは、復活したイエス・キリストに出会ったとき、あの十字架に殺されたイエスこそ自分たちイスラエル民族が待ち望んでいたキリスト(メシア)であることを知って、180度方向転換したわけです。
 このことは使徒言行録で3回も証言されていますが、それまでの生き方を方向転換させられて、人生のすべてをそれに賭け、そのためには命も惜しまないほどにパウロを変えたものはなにか。それを一言で言えば、「キリストの福音である」ということが言えます。それを伝えるためにすべてを投げ出し、讃美歌に、「責めも恥も、死も滅びも、何かはあらん、主にまかせて」とある通りに、彼は一切を神にまかせてその道を歩んだ人です。ではその「キリストの福音」とは何か。そのことを知るためにⅠコリント15:1~5を選んだわけです。
◎<兄弟たち、私があなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉で私が福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます>。1、2節だけで4回も出てくる「福音」とは「うれしい知らせ」という意味です。そして彼が伝えたうれしい知らせとは、3節以下で書かれているものです。
 <最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファ(ペトロのこと)に現れ、その後十二人(実際は11人です)に現れたことです>。
◎ここで、「最も大切なこととして伝えた」と言っているのは、①キリストが私たちの罪のために死んで葬られたこと、②そのキリストが三日目に復活したこと、この2つです。しかもそれが自分勝手な作りごとではなく「私も受けたものです」と言っているのは、<聖書に書いてあるとおり>と2回も語っているように、神が聖書においてあらかじめ示していたことであって、教会の先輩から私も受け継いだものです、と言っているのです。
 しかし、2千年前のパウロがコリント教会の人々に語っているこの言葉は、同時に現代の宮田教会の私たちにも語っている神の言葉であるということを心に刻んでおきたいと思います。なぜなら、パウロを通して語っているのは、当時はもちろんのこと、いつの時代でも、また現代の今も生きて働いておられる神の言葉だからです。
◎そこで、パウロが伝えている福音の内容を私たちも聞きたいと思います。まず「キリストが私たちの罪のために死んだ」ことですが、いきなり「罪のため」と言われてもピンとこない人もいます。しかし、私たちは世を離れて隠遁生活をしているのではありません。現実に私たちは、健康や経済や人間関係がうずまく中で生活しています。その中でなぜイライラしたり、ムカついたりするのか。こうした不安・悲しみ・不幸・怖れ・怒りなどをもたらす源が、聖書が語っている「罪」なのです。
 日本では「和」ということが、聖徳太子の時代から尊重されてきました。それは互いに協調し合うという面では大切だと思います。これが日本人の中にしみついていることは、「さようなら」という挨拶によく表れています。別れていく人に向かって、これからあなたが直面するであろう環境の中にあって、左様であるならば左様であれと語るのです。ちなみに「グッドバイ」はゴッドバイつまり神がそばにいるという意味で、あなたはどんな環境に直面しても振り回されないで、いつも共にいる神を基準にして生きてくださいと語るのです。だから和の精神で、郷に入れば郷に従い、環境に合わせていけば、平和で和やかで争いはないのですが、その反面、目立たないように周りの目を気にし、自分を抑えガマンします。そのために健康に最も悪いストレスが溜まります。
◎本来私たちは神に造られているのに、創造主である神を土台としないで、自分を物差しにして、世の中の価値観や欲望に生きています。罪を犯すとは、本物を土台としないで偽物を土台として生きることなのです。神が主人ではなく自分が主人となっている、つまり自己中心で、自分が神となっているのです。じゃ、そのためにどうしたらいいのか。どうもできないのです。自分の力で逃れようとしても負けてしまうのが私たちの現実ではないでしょうか。
 だから神は、そういう私たちを憐れんで、人間イエスとなって、私たちを救い出すために私たちに代わって十字架に死なれたのです。<私たちの罪のために死んだ>とは、罪人である私たちの罪を贖うために死んだということです。贖うとは、代わりに借金を支払うという意味です。イエスは死をもって、私たちの罪がもたらした多額の借金を代わって支払ってくださったのです。
◎私たちは、造り主である神に背き、憎み、自分が神となって、自分の物差しで人を評価したり、裁いています。だからもう神に捨てられても仕方のない存在なのです。ところが神は、神であることをやめないで、愛する独り子キリストにおいて人間となりました。それも卑しい姿となって来られたので、人々にねたまれ、憎まれ、殺されてしまいました。しかし、それこそが、私たちの代わりに捨てられ、殺されることによって、私たちの罪を帳消しにするために示された神の愛であったのです。つまり、それによって私たちは、神から罪を許されたのです。
 神に罪を許されたとき、私たちは、神との関係が正常になります。神との関係が正常になるとき、私たちは神の子となるのです。このことについて聖書は、<言(キリストのこと)は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。>(ヨハネ1:12)と書いてあります。つまりキリストを受け入れ、信じた人は、一瞬にして神との関係が正常になり、神の子となるのです。そしてイエスが「天の父よ」と呼んでいる神が、自分の本当の父となるのです。私たちは皆、父を持っています。しかし不完全な父親のために苦しめられる子供もいます。しかし、今や神ご自身が本当のお父さんとなって下さり、何でも神と話せるようになるのです。
◎私たちは、どうしても許せない人がいます。しかし、赦さないと疲れるので何とか赦そうと努め、ある程度まで赦すことはできます。それは、関係を断って、縁を切って、二度と会わないようにするのです。しかし、それでもどうしても会わなきゃならないことがあると、表面は繕っても心は必至ですから顔がひきつっているわけです。これが私たちの姿だと思います。
 ところが神が私たちを許すというのは、それとはまったく違います。神はどんなことがあっても許しながら、これからもず-っと一生付き合っていく関係になり、私たちの中に新しい恵みを豊かに創造してくださるのです。だから神と平和な関係になった今は、この神がずっと共にいてくれることになりました。これこそがキリストの福音の恵みに生きることなのです。
◎洗礼を受けるということは、この福音を受け入れ、信じて、公に告白することなのです。もちろん、イエス・キリストを受け入れ、信じたら、直ちに罪を犯さない人間になるかというと、決してそんなことはありません。相変わらず、神を主人とせず、自分が主人となり、自分を物差しにし、世の価値観や欲望に振り回され、罪を犯し続けていきます。
 しかし、そのことに気づいたとき、神は、「それでいいんだよ」と言われます。そのためにイエスが十字架の死を遂げて、罪を贖い、許して、生涯共にいてくださるからです。じゃ、洗礼を受けたってしょうがないじゃないかと言われそうですが、そうではありません。それはちょうど免許を取ったばかりの医者が、真っ白い服を着るのと同じです。中身は未熟ですが、すでに医者なのです。それと同じように、まだ体は汚れていますが、これから清くなるのです。
◎これがパウロが語る福音です。いや正確に言えば、福音の第一歩です。キリストの十字架の死によって自分の罪が贖われたと信じるとき、神との関係がまったく新しくなり、罪が許されて、神の子とされて、神を本当のお父さんと呼びかけることができます。そして現実の生活において、健康のこと、経済のこと、人間関係のことなど不安や苦しみや悲しみに落ち込んだ時、なんでも神に打ち明けることができる者とされたのです。それは確かです。
 しかし、福音はそれにとどまりません。聖霊によって清められ、永遠の命に生きる者とされるなど、驚くような福音が約束されています。このことは、今後紹介したいと思います。
◎今日は、パウロが、<これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません>と語った言葉をもって終りたいと思います。<受け入れ、生活のよりどころとしている>とは、神様一番、福音一番に生活するということです。
 思い出してください。鳥が2本の枝ではなく1本の枝に止まっているように、二股かけないでいくということです。また「正しい」という漢字の正という字は、上が一、下が止です。つまり、上を見上げて天の神さまだけにとどまって離さず、二心を持たないで生きるということです。私たちに真実な神に対して、真実をもって応えて、この一週間を歩みたいと願っています。

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