2024年7月7日 聖書:ローマの信徒への手紙6章4~5章「教会の使命(1)」川本良明牧師

◎私たちは生きているのではなくて、神に生かされているのですが、造り主である神を物差しにしないで自分を物差しにして生きていることが聖書の語る罪である、と言われてもピンとこないのはなぜでしょうか。それは、周りの空気を読み、周りの空気に合わせて生きること、このことの方が切実であるからではないかと思います。
 この「空気」という言葉は、日本独特の言葉なのですが、空気こそ神に代わる現実の価値観として働く私たちの基準になってます。つまり建前と本音という言葉がありますが、本音はこうだけど建前で生きるために周りの空気に合わせて本音を抑えています。周りの空気を読んで本音を抑えるからストレスが溜まるわけです。
◎かつて日本を戦争に巻き込んだほとんどの指導者たちは、このままでは負けると思っていたのに、それが言える空気ではなかったと振り返っています。これは天皇も同じです。「私は本当は平和を望んでいた。しかし、そんなこと言える空気ではなかった。」と言ったのでマッカーサーはびっくりしました。天皇の名によって戦争をしたのだから天皇に責任があると思っていたからです。それで彼は当時の指導者たちに聞いてまわったところ、皆、天皇と同じだったということですが、これは今も同じではないかと思います。
 ある会社で社員を集めて営業本部長が不況を乗り越えようと力を合わせるために、「みんな、一糸まとわぬ団結心で頑張ろう」と声を張り上げて演説をしました。その後、登壇した社長も「諸君、もう後戻りはできない。すでに匙は投げられた。」と激を飛ばしました。ところが後で社員たちが飲み食いしながら、「あの本部長の言葉は、一糸まとわずじゃなくて一糸乱れずじゃないか」「いや社長もそうだ。匙は投げられたじゃなくて采は投げられただ」と言うのですが、そのとき間違いと分かってはいたが、それが言える空気じゃなかったと皆思っていたわけです。ところが今、「こんな部長と社長がおって、会社は大丈夫なのか」と皆思っていたのですが、そんなこと言える空気ではなかったと皆思っていた、という笑い話です。
◎神を主人としないで空気を主人として、空気を読んで空気に合わせるのに一生懸命です。空気という宗教には教えがありません。空気を読むことが教えであって、空気という神を中心に生きていることが、罪を犯し続けている私たちの姿ではないかと思うのです。
 ではそのためにどうしたらいいのか。どうもできないのです。自分の力でそれに抗おうとしてもできないのが私たちの現実ではないでしょうか。だからこそ神は、そういう私たちを憐れんで、人間イエスとなって、私たちをそこから救い出すために、私たちに代わって十字架に死なれたということであります。
 つまり神は、ご自分が神であることをやめることなく、そのままで人間イエスとなって、それも卑しい姿となって来られました。ですから神を父と呼び、自分と一つであると語るイエスは、人々から妬まれ、憎まれて、十字架にかけられて殺されてしまいました。しかし、それこそが私たちに対する神の愛でありました。
◎イエスは、私たちの代わりに神に捨てられ、私たちの代わりに神に殺されました。そのことによって私たちを罪から救い出し、罪を帳消しにしました。つまり私たちの罪が溜め込んだ膨大な借金をイエスが支払ってくださったのです。このイエスを救い主と信じて受け入れた人は、一瞬にして神との関係が正常になり、神の子となるのです。つまり、イエスが天のお父さんと親しく呼んでいるその神が、自分の本当のお父さんとなることが起こるわけです。
 神との正常な関係が起こるとは、先ほどの空気という神を中心としていたことから解放され、イエスの父である真の神が主人となってくださって、ノーはノー、おかしいことはおかしい、と大胆に言うことができる者となる。それが聖書の語る神の福音、良き知らせというものです。
◎この福音は、神が私たちのために成しとげられた愛のわざですが、しかし神は、それに終らないで、私たち人間がそのことに積極的に自分から進んで関わることをされます。神は、神の愛に愛を持って答える人を求めておられるのです。
 すなわち、2千年前に起こったイエス・キリストのただ一回の出来事が、あらゆる時代のさまざまな人間の出来事となっていくことが起こるということです。これは決して当たり前のことではありません。もしそれが自分の身に起こる時には、ただただ畏れと感謝と喜びを持ってそれに応えるほかない出来事なのです。
◎私たちは、それに加わることも関わることも何の力も意志もない、あわれな汚れた、高慢で堕落した人間です。それにもかかわらず、そのようなことが教会で起こるのです。もしそのことが教会で起こるとすれば、それは私たちを目覚めさせる力である聖霊なる神が、私たちの中に働いて起こされるのです。聖霊は人間を洗礼へと導いてくださいます。洗礼というのは、まずは聖霊による洗礼があって、それにあずかるときに水の洗礼へと導かれます。つまり洗礼とは、神の福音を受け入れ信じて、みんなの前でそのことをいろんな形で表すことです。
◎先ほどお読みしたローマ書6章に洗礼のことが書かれてあります。水の洗礼は、新約時代つまり教会の時代に突然現れたのではなくて、旧約時代にすでにその原型を見ることができます。キリストが現れる前の時代の旧約聖書にあるレビ記や民数記には、汚れと清さを区別し、清めのために罪を贖う儀式として、水浴や衣服の水洗いが定められています。
 これがイスラエルの長い歴史の中で次第に変わっていき、汚れを清めることではなく自分の中にある罪を悔い改める洗礼へと発展しました。それはキリストが来た時に完成されると預言者を通して語られていました。そして預言通りに来られたイエス・キリストは、30才になって公の活動を受洗をもって開始しました。
◎洗礼者ヨハネが現れて、大胆に活動を始め、「悔い改めよ。」と人々に語りました。そこにイエスが来て洗礼を受けようとしたとき、ヨハネは神から示されてキリストだとわかって、「私こそあなたから洗礼を受けるべきなのにどうしてですか」と言うと、「今はそうしてもらいたい。正しいことをするのは我々にふさわしいから」と答えて洗礼を受けます。そのとき、天から聖霊が下って、「これは我が愛する子。我が心に適う者」という父なる神の声がありました。
 ところが活動を始めてわずか2年半で、妬みと憎しみにあって殺されてしまいました。しかし、その死によって私たちの罪は完全に贖われ、その復活によって愛に生きる新しい人間にされることが始まったのです。そして、この愛に生きる新しい人間の創造が具体的に起こったのは、イエスの復活から50日目に、突然、弟子たちの間に聖霊が降ったときでした。このとき、キリストを救い主と信じて受け容れた3千人の人たちが、同時に洗礼を受けて教会が始まったのでした。
◎先ほどお読みしたローマ6章4節に、<キリストと共に葬られ>とあるのは、3節で、<…キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた私たちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。>と語っている中の、<その死にあずかるために洗礼を受けた>とある<その死>つまりキリストの死が決定的な死であることを示すために<葬られた>と述べているのです。
 また4節で、<それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです。>と語る中で、<御父の栄光によって>とあるのは、<私たちが新しい命に生きるため>であることを保証するために書き加えているのです。つまり、父なる神がキリストを復活させられたのは、天地創造の初めから計画されていたことなのです。
◎洗礼とは、救い主であるイエス・キリストとともに死んで葬られ、彼と共に新しい命に復活する儀式なのです。洗礼には水槽や川で行なう浸礼と器の水を頭にかける潅水と滴礼などがありますが、形はどうであれ、キリストと共に死んで生き返ることが洗礼なのです。5節で、<もし、私たちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。>と書いてあります。あやかるとは、同じということではなく似ているという意味です。ですから肉体の死と復活を語っているのではなくて、罪の死と霊的生命の復活を語っているのです。キリストの死にあずかり、キリストの命にあずかることが洗礼なのです。
◎しかし、罪と汚れの中に生き、堕落し高慢な罪人である私たちは、どんなに努力してもそれから解放する力も意志もない者です。ある弟子が目を輝かして師匠の所に来て、「先生! 遂に死ぬことが出来ました! 喜んでください」と言いました。すると師匠はおどろいて、「大変だ! 自分を殺したもう一人の自分がいる!」と答えたそうです。死ねば罪も滅びますが、死ねば本も子もありません。しかし、罪だけ死んで自分は生きることは不可能です。
 だからこそ神の子キリストが、私の代わりに死んで罪を滅ぼしてくださったのです。肉に生きる私たちは皆、自己中心で、罪と汚れにまみれた欲望から逃れることはできません。肉の自分に死ぬことが必要なのに、私たちは自分を捨てることさえできないのです。
◎そこで自分を捨てるために何に向かうのかが大事なのです。仏教では、あらゆる苦しみから解放され、平安になるために座禅して無の境地に達することをめざします。しかし、「無とは自分の中にある仏性や仏を見出すことである」と語るところにあいまいさを感じます。
 ところが私たちははっきりしています。聖霊に向かうことが自分を捨てることなのです。私たちには聖霊を受ける道が備えられていることを感謝したいと思います。聖霊を受けるとき、いつの間にか自分が死んでおり、おのずから無の状況が生じてくるのです。例えば、妻から「あなたはいつも上からの目線で私を見ている」と言われた夫はすぐにカッとなっていました。ところがあるとき同じように言われたとき、「ごめんね」と言ったのでびっくりしました。どうして言えたのか。それは本人が一生懸命努力してできたのではなく、イエスを仰ぎ、本当に聖霊を祈り求めていく中で、いつのまにかそういう人間に変えられていったということです。ですからこれこそ光に向かっていく道、キリストの死の姿にあやかることなのです。
◎キリストの死の姿にあやかるとは、聖霊なる神であるキリストの霊にあずかることであり、またその復活の姿にあやかるとは、聖霊の実にあずかることです。私たちは皆、教会に招かれ、洗礼に導かれ、キリストの死の姿にあやかり、キリストの復活の姿にあやかる者とされています。この神の大いなる恵みと計画に感謝したいと思います。
 しかし、同時にそれにとどまるのではなく、このことをすべての人に宣べ伝えるために、私たちは教会に呼び集められているのです。今日の説教題「教会の使命(1)」は、外に開かれた響きを持った言葉です。閉鎖的で、自己中心的な、まさに空気を漂わせるような教会は、教会にとって致命傷です。しかし、私たちは、閉鎖的な空気を打ち破り、愛の掟を打ち立てるイエスに従うように、一人ひとりが召されていること、罪許され、聖霊の実を結ぶ新しい神の子の群れの一人として生きる者とされていることを心から感謝したいと思います。

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