本日の聖書箇所に登場する中心人物は生まれつき目が見えないというハンディを持った人です。彼は物乞いをし生計を立てつつ歩んでいました。彼は、主イエスとの出会いを通して目が見えるようになりました。
「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」(4-5節)。
主イエスは、ご自分をこの世に遣わされた父なる神の業をなすべく歩まれました。イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(8章12節)。
主イエスに従う者は暗闇の中を歩かなくてもよく、命の光を持つのです。私たちはそれぞれその恵みに与かっています。
そして、「シロアム―『遣わされた者』という意味―の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。(7節)。彼は主より言われた通りにして、目が見えるようになったのでした。シロアムの池は、父なる神から遣わされた主イエスを指し示すことになりました。
この人は目が見えるようになったことを喜びました。自分を癒してくださったイエスという方は神の御心を行う方だと主張しました(31節)。そのために、ファリサイ派の人たちから会堂の外に追い出されました。イエスは彼が追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。(35節)。主イエスは追い出された彼を心配し訪れ、主を信じるようにと招き導かれました。彼はイエスを救い主と信じ受け入れました(38節)。
弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」(2節)。弟子たちは、当時のユダヤ人たちが考えていたように眼に見えるところで大きなハンディや困難には必ずその原因があると考えました。それで弟子たちは、この生まれつき目が見えないということに対してその原因追及をしました。
イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。(3節)。主イエスはそのような原因追及をしませんでした。そのようなことはない、そうではなく、この人に神の業が現れるためであると宣言されました。主イエスは、この男性の全存在を肯定的に受け止めてくださいました。
人の目から見て希望がないと思われるところにも希望があります。
なぜなら、神は共にあってその困難を担い、幸いな道を切り開いてくださるからです。
定例行事
- 聖日礼拝
- 毎週日曜日10:30~
- 教会学校(子供の礼拝)
- 毎週日曜日9:30~
- 祈祷会・聖書研究会(午前の部)
- 毎週水曜日10:30~
- 祈祷会・聖書研究会(夜の部)
- 毎週水曜日19:30~
その他の年中行事
- チャペルコンサート(創立記念)
- 毎年8月下旬
- チャペルコンサート(クリスマス)
- 毎年12月23日
- クリスマスイブキャンドルサービス
- 毎年12月24日夜