2024年8月4日 聖書:エレミヤ書31:33 ルカによる福音書21:25~28「頭をあげなさい」川本良明牧師

◎月の第一と第三日曜日に宮田教会で説教奉仕をさせていただいていますが、7月は年に一度の講壇交換が地区の行事で行なわれました。私は若松教会に行き、宮田教会は久多良木和夫牧師が来られたと思います。地区内の全牧師が各教会に派遣されるのに、どの教会に誰が行くのかは籤で決めています。旧約聖書の箴言の書に<籤は膝の上に投げるが、ふさわしい定めはすべて主から与えられる>(16:33)とあり、神の御心を知る方法として籤を行なうのは間違ってはいないと思います。
◎ただ籤のことで教えられるのはヨシュア記です。ご周知のようにエジプトで奴隷身分だったイスラエル民族は、神から遣わされたモーセによってエジプトから解放されて約束の地カナン(現パレスチナ)に入る前に、シナイ山の麓で神から十戒を授かりました。そしてそれを基にした律法を中心とした生活を荒れ野で40年間過ごしたのですが、やがて世代が代わり、指導者もモーセに代わってヨシュアとなり、時が満ちてヨルダン川を渡って約束の地に入りました。そして全部族が定住するそれぞれの土地の配分を籤で決めたのでした。
 彼らは、神が先祖アブラハム、イサク、ヤコブにカナンの地を必ず与えると約束したことを信じていました。つまり籤の配分を神の御心と信じ、その土地を神の賜物として受け止めました。それは「神の約束」ですから自分の力と知恵で得ようとすれば、預言者を通して火のような神の怒りを招くことになります。つまりその土地は武力で征服したものではないのです。
◎当時のカナンは、都市が形成され、主な産業は農耕でしたが商業活動も盛んでした。それに対してユダヤ民族は、小家畜集団として家畜に必要な周辺の草地に定住しました。時折商業地に出向くことはあっても、もっぱら律法を中心に生活する異質な存在でした。とりわけ毎週の安息日には、奴隷も寄留の民も皆休みが与えられ、礼拝に集まって賛美と祈りを献げる彼らの平和と喜びの姿に、カナンの人々は驚きの目で見ていたと思われます。
 有名なエリコの陥落と占領がヨシュア記6章に書かれていますが、実際のエリコはずっと離れた所で栄えていたことが考古学で分かっています。またヨシュア記14章~28章には各部族への領地割当が書かれていますが、これも「将来、神が与えるはずの約束の地」としての「設計図」であって、武力で占領支配した土地ではないのです。彼らは、必ずや将来、神が恵みと祝福をもって、設計図通りに自分たちの子孫にその土地を与えてくださるという約束を信じて、今は神に選ばれた民として律法と幕屋を中心とする平和な生活を送っていました。
◎ところが彼らの人口が増えて農耕が行われていくにつれて、生産力を示す土地の神バアルへの信仰が広がりました。礼拝が形式化し、律法を中心に生活する民族としての異質性が失われていくと、喜びと平和な生活が脅かされる危機感を覚える目覚めた人々は苦しむことになります。
 神に選ばれた民族が直面した苦悩は、2百年とも4百年とも言われる長期にわたるものでした。それはカナンの周りの国々の勢力との政治的な関係というよりも、むしろ異教の神バアルなどへの信仰に陥ることの苦悩でした。そしてそれは真の神への信仰に立ち返るための戦いでもあって、その歴史を12人の士師たちが登場する士師記が生々しく伝えています。
◎しかし異教の神を慕っていく動きは止まりません。そのため王国を建て、また神の臨在を求めてエルサレムに神殿を建てました。それでも堕落の動きを止めようとしないイスラエル民族に対して、神の怒りは激しくなり、ついに頂点に達したとき、王国は大国のアッシリアやバビロニアによって滅ぼされ、神殿は破壊され、捕囚民となってバビロンに連行されました。
 これまでにない悲劇が起こり、悲惨のどん底に突き落とされたとき、神は驚くべき慰めと希望の言葉を預言者エレミヤを通して語られました。それが先ほどお読みした聖書の言葉です。エレミヤ31章31~34節の中で、<かつて私が彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだもの>とあるのは、シナイ山の麓で結んだ十戒を中心とする律法のことです。そして神は、<私が彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った>と言うのです。
◎律法の原点である十戒は、出エジプト記20章1節以下に書かれています。その内容は、前半が神への掟で後半が隣人への掟で合計10の掟と前文からなっています。2節に前文があり、3節から掟が書かれていますが、じつはこの前文こそ十戒を読む基準なのです。
 その前文で神は、<私は主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。>と語っています。つまり神はイスラエルの民に、「私はエジプトで苦しんでいたあなたがたを憐れんで奴隷身分から解放しました。この私をあなたがたは自分たちの神として選び、愛しますか」と問いました。すると彼らは、「世の中には沢山の神々がいますが、私たちを奴隷から解放してくださったあなたこそ私たちの神です」と答えました。そこで神は、「そうか、ならば私をおいてほかに神があってはならない。…殺してはならない…」と言っているのです。
◎ここで重要なことは、神がイスラエル民族と契約を結んでいることです。契約は結婚における夫と妻の関係に譬えることができます。男性が自分の前にいる多くの女性の中から一人の女性を選んで「私はあなたを愛します」と告げ、逆に女性も自分の前にいる多くの男性の中から一人の男性を選んで「私はあなたを愛します」と告げ、互いに結婚指輪を交わします。これが契約です。もしも不倫・姦淫の罪を犯せば契約は破れます。異教の神バアルなどを慕い求めたイスラエル民族は、それと同じことをしたのでした。
 <しかし、来るべき日に、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである。すなわち、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。…>と続いていますが、エレミヤを通して神が語っている31~34節において、最も中心的な言葉こそ<私は彼らの神となり、彼らは私の民となる>という契約の言葉です。これは、<私はあなたがたの神となり、あなたがたは私の民となる>と言いかえることができます。
◎しかし日本社会では、契約になじみがありません。例えば会社に就職するとき、雇用契約に基づいてではなく「会社に入る」あるいは「会社の一員になる」という感覚で勤め始めます。新入社員はまず会社の空気になじむことが求められます。本来雇用契約に立てば雇用者と被雇用者は対等ですが、それを主張すると「空気が読めないやつだ」と言われたり、「雇ってもらっているのに」と思われたりするのではないでしょうか。
 空気というルールが強く支配している日本の社会にあっては、空気を読めないことの方が天国に近いのではないかと思います。じつはそれには根拠があります。マタイ20章にイエスの譬え話があります。ぶどう園の主人が9時に雇った労働者と同じ日当を5時に雇った労働者に払うと、早く来た労働者が不平を言います。すると主人は「私は不正はしていない。契約通りにしている」と語ります。これは契約概念の薄い私たちにはなかなかなじめない譬え話ですが、しかしイエスは、これを語るとき、「天国はこのようなものである」と語っているからです。
◎聖書は一貫して契約を語っています。旧約・新約は「古い契約・新しい契約」の意味です。神が契約を初めて語るのはノアで、洪水と生き物に関して結んでいます。次がアブラハムで、約束の地の所有と子孫に関する契約を結んでいます(創世17章)。
 しかし今エレミヤを通して語られたのは、<私は彼らの神となり、彼らは私の民となる>という契約でした。しかもそれが語られたのは、土地を奪われ、神殿も破壊されたときで、神は契約を破るどころかもっと親密な内容である契約を示されたのです。そしてその契約は、およそ六百年後に実現しました。神が人間イエスとなって来られた時、<私はあなたがたの神となる>ことと<あなたがたは私の民となる>ことを実現されたのです。
◎イエス・キリストは、神の子でありながらご自分を人の子と呼んでいます。神の子で人の子であるとは、創造者なる聖なる神が被造物となり、罪と汚れの肉の存在となられたということです。だから使徒ヨハネは、<初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます>と語ることができたのです(Ⅰヨハネ1:1)。
 本当の神は太陽と同じように真面に見ることはできません。しかし神は、目で見、聞き、触れるお方として来られました。しかも神の子キリストは、謙虚で、迷った小羊を必死で探し求め、見つけたら肩に乗せて人々と喜びを分かち合う愛のお方でありました。その彼が十字架の道を歩まれたのは、まさに<私はあなたがたの神となる>ためでした。そのような神の子キリストを救い主として信じて受け容れるとき、神は罪と汚れに満ちた私たちを義として認めてくださり、罪許された者として扱われるということが約束されているのです。
◎しかし神は、<私はあなたがたの神となる>だけではなくて、<あなたがたは私の民となる>ことも約束しています。この約束も神は人の子イエスにおいて果たされました。つまり神の子が人の子となるとは、神が私たちの人間性をご自分のものとされ、人間に神の性質を与えるということです。そのために、<キリストは、肉にあって、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげました>(ヘブル5:7)。
 つまり、神はイエスにおいて、罪と汚れにまみれた肉の私たちと同じ姿として来られましたが、彼は決してそれに陥ることなく、罪と汚れの肉に打ち勝ち、脅かす死にも勝利しました。このようにイエスご自身が、私たちに代わって、私たちの代わりに、<あなたがたは私の民となる>という姿となり、完全な人間としての人生を送られたのです。そして神は、このイエスを甦らせ、神の右にまで上げられました。それは、私たちクリスチャンだけではなくすべての人間の完成された人間性が、神の右にあるということです。
◎先ほどお読みしたルカ21章25~28節は、イエスが終末のときに力と栄光を帯びて雲に乗ってくると弟子たちに語っています。世界が終末を迎えるというものすごいときに、イエスが再臨すると言われるのです。そしてイエスは、その終末の時にすべての人を甦らせて、神の右にある完成された人間性を着せてくださると約束されました。それは全く新しい神の契約です。
 今、この世にあって地上で生きている私たちに、<身を起こして頭を上げなさい。>とイエスは言われます。それは招きの言葉です。すなわち、「目を上げて私を見なさい。私は再び来る。私は今、あの高い所にいるし、またこの低い所にいるあなたたちと共にいる。私はあなたがたの神として、肉に勝利し、死に勝利した人間である。あなたがたは、私の民となるために、頭を垂れてではなく、頭を上げて、この私を見なさい。」と語っているのです。
 たしかに私たちは、地上にあってじつにみすぼらしい姿で生活しています。しかし、今イエスが、<私は神の高い所にいるけれども、同時にあなたがたと共にいる>と言われています。それは聖霊として私たちに内に住んでくださって、頭を上げて歩む者としてくださるということです。エレミヤが、<私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す>と語った<私の律法>とは、具体的には聖霊の実のことです。その聖霊の実にあずかるとき、<あなたがたは私の民となる>ことが起こるのです。このことを信じて、この一週間を歩みたいと思います。

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