◎今から2千年前、エルサレム郊外でイエスという名の一人のユダヤ人が十字架につけられて殺されました。それを命じたのはローマ総督ピラトであり、この総督の手を借りてイエスの死刑を執行させたのはユダヤ人の指導者たちでした。彼らがイエスの噂を耳にしたのはいつごろなのか分かりませんが、およそ3年前からでした。
当時の社会は、政治的には都エルサレムの議会と地方の衆議所があり、宗教的には都の神殿と地方の会堂がありました。ですから中央と地方を結ぶしっかりした情報網から伝わってくる北のガリラヤ地方で起こったイエスの活動に関する情報は、「これまで経験したことのない(!)」ものでした。つまり、わずか3年足らずの活動で、彼ら自身の手で同胞の一人を組織的に亡き者にしようとするほどまでに、イエスの活動は衝撃的であったということができます。
◎ヨハネ11:47~50は、追いつめられた彼らの姿をよく伝えています。<そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院(これが「議会」です)を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っている、…このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」…大祭司が言った。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が…好都合だとは考えないのか。」>。まるで議会の議事録を見ているようです。
神を信じ神の律法を持つ彼らは、特別に神に選ばれた民です。そういう彼らは、イエス殺害を良心の呵責なしに、つまり神の前に正しいことをするのだと自分たちの行動を正当化せざるを得なかったわけです。ですから彼らは自信をもってイエスを殺そうと動いていきました。
◎しかし、指導者たちだけではなく、あらゆる階層の人たちがイエスの活動に衝撃を受けたことは、4つの福音書がよく伝えています。マタイ・マルコ・ルカ福音書の3つを共観福音書といいますが、じつは、これらが書かれたのは、イエスの死から30年後です。またヨハネ福音書は60年以上は経っています。ですから福音書は、いずれも過去を振り返って書かれているのです。
ひじょうに多くの人々がイエスと出会っていましたので、イエスの死後もその受けた衝撃を証言する言い伝えが数多くありました。その言い伝えの中でもとりわけ重要であったのは、イエスに特別に選ばれた弟子たちの証言でした。彼らの受けた衝撃は計り知れないものであって、それを一言で言うことはできませんが、少なくとも子供の時から聖書を通して聞かされていた天地創造の神、イスラエルの神に出会ったということでした。
◎当時のイスラエルの社会では、男の子は例外なく幼児期から近くの会堂で聖書を学んでいます。ですから職業は何であれ、皆聖書(旧約聖書)の内容を知っています。ですから彼らは、天地創造の神、アブラハム・イサク・ヤコブの神、イスラエル民族を支え、その歴史の中で働いている神がどういうお方であるかを知っていました。そういう彼らが圧倒的な衝撃を受けたのは、そのような神にイエスにおいて出会ったということです。
しかもそのことは、彼らの知識をもとにして裏付けたのではなく、むしろイエス自身の出来事によってそのことを確信したのです。その出来事とは、イエスの復活と昇天でした。この出来事に出会うことによって、彼らはイエスこそ間違いなく聖書を通して自分たちに知らされていたイスラエルの神であることに絶対の確信を持ったのです。ですから福音書は、イエスの復活と昇天という事実を振り返って書かれているのです。
◎弟子たちが、イエスの口から受難の死と復活を聞いたのは、指導者たちのイエスに対する攻撃がはっきりしてきたときでした。ちなみにマルコ福音書は16章で構成されていますが、ちょうど真ん中の8章でイエスが死と復活を語っています。その直後に、イエスは、弟子のペトロ・ヨハネ・ヤコブ3人を連れて高い山に登りました。すると、突然、イエスの姿が変わり、顔が太陽のように輝き、服が光のように真っ白になり、またモーセと預言者エリヤが現れました。そして雲が3人を覆うと、もとの姿のイエスがそこにおられたのでした。
つまり、イエスはそこでご自分の本当の姿を見せたということ、また復活を先取りして弟子たちに示したということです。しかもこの出来事を共観福音書は皆伝えています。ですから弟子たちは、イエスが十字架にかけられて殺されたとき、絶望のどん底に突き落とされましたが、その3日後に復活したイエスが彼らの前に現れたとき、喜びあふれると同時にそれ以上に、イエスの死とイエスの復活という出来事の意味を知ったのです。
◎イエスの本当の姿を知った弟子たちは、イエスが本来死ぬべきお方でなかったのになぜ死なれたのか、それも何度も受難の死と復活を予告していたのはなぜか。それこそが神の計画であったことを彼らは知ったのでした。つまり旧約聖書全体において、またイスラエル民族の歴史において、神が人間イエスとなって来られることを約束していたのであり、その約束を実現したことを知ったのです。いや、正しく言えば、彼らはイエス自身からそのことを教え諭されたのです。
そのことをルカ福音書24章が伝えています。イエスが復活して現れたとき、弟子たちは幽霊だと恐れました。そこでイエスは、<まさしく私だ。幽霊には肉も骨もないが、見ての通り、私にはそれがある。>と言ってもまだ信じないので、食べ物を所望し、焼いた魚を目の前で食べたと書いています(36~43節)。そして44節以下で、旧約聖書に書かれている事柄は必ず実現するとあなた方に言っておいたはずだ、と言って、<聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、「キリストは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する」と書いてある。…あなた方はこれらのことの証人となる>と語っています。このようにイエスは弟子たちに自分の死と復活の意味を教え諭されたのです。
◎しかし、彼らは、知識としては知っても、それが血と肉となり、体全体として知るという確信を持てませんでした。イエスはそのことを百も承知でした。40日間、弟子たちと生活を共にした後、彼は弟子たちに、<私は今から天に帰っていくが決してあなたがたを独りぼっちにはしない。だから都を離れないで、前に私が言った父の約束されたものを待ちなさい。>と言い、<必ずあなた方に聖霊が降る。そのとき、あなたがたは力を受ける>と語りました。
そしておどろくことに、<彼らの目の前で雲に覆われて見えなくなった>と聖書は語っています。(使徒1:9)。聖書はそれを昇天と言います。そしてイエスは神の右の座に着かれたと聖書は証言しています。それから10日後、彼らが一堂に集まって約束の聖霊を待って祈っていると、突然、激しい風が吹くような音が聞こえ、家中に響いて一人ひとりに聖霊が降りました。使徒2:1~4にある通りです。そしてその音を聞いた人々が大勢集まって来ました。
◎その人々に、聖霊の力を受けた弟子たちを代表してペトロが語ったことが、使徒2:22~36に書かれています。要約すると次のようです。「皆さん、どうか聞いて下さい。あのナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方でした。神がこの方を通して奇跡や不思議な業を行なったのをあなた方はご存じです。ところがこの方を、あなた方は異邦人の手を借りて、十字架につけて殺してしまいました。しかし、神はこの方を死の苦しみから解放して、復活させられました。私たちは皆、そのことの証人です。そしてイエスは昇天し、神の右にあげられ、約束された聖霊を注いでくださいました。皆さんが今見ての通りです。ですから皆さん、よく知っていただきたい。あなた方が十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、キリストとなさったのです。」
それを聞いた人々は、「ああ、自分たちがあのイエスを殺したんだ」と思い返し、胸を打たれて、ペトロに、<兄弟たち、私たちはどうしたらいいのですか>と言う彼らにペトロは、<悔い改めて、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい>と勧めると、3千人の人々が洗礼を受けました。こうして世界で初めて教会が誕生したのでした。
◎キリストの霊である聖霊が弟子たちに与えられ、聖霊は、彼らの信仰・愛・希望を彼らの中に作られました。聖霊が弟子たちに受け取られ、聖霊の働きである信仰・愛・希望が受け取られたとき、聖霊は、彼らの中に教会を誕生させました。
ですから教会は、神の御子が人間イエスとしてこの世に来られたと信じる人々の集まりです。また教会は、ナザレの人イエスを神の御子と認識した人々の集まりです。そして教会は、聖霊によって死んだ魂が目覚めさせられた人々の集まりです。つまり教会は、人の信仰や洗礼によってではなくて、むしろ人を信仰に導き、洗礼へと導いた聖霊によって誕生したのです。まず神が、キリストが、聖霊が、教会を世界の中に生み出したのです。教会が存在するのは神のわざによるのです。そのわざに神は、人間を参加させ、主体的にかかわる恵みにあずからせられるのです。
◎この恵みを見すえて先ほどお読みしたⅡコリント5:1~5を読みたいと思います。一般にこの聖書の個所は、<地上の住みかである幕屋>は個人的な人間の体のこと、<幕屋が滅びても、神によって建物が備えられている>は死と新しい命のことを語っていると読まれています。しかし、パウロがここで語っているのは、教会についてです。つまり、<地上の住みかである幕屋>とは、目に見える現実の教会であり、また<天にある永遠の住みか>とは、目に見えない実在の教会のことです。ここでパウロは、終りの日に起こる素晴らしい約束を語っているのです。
そして、この目に見える現実の教会を理解した上で、その中に含まれている肉体的存在である一人ひとりのキリスト者のことを考え、また神から与えられる将来の新しい姿の目に見えない実在の教会を理解した上で、その中に含まれている不滅の体という霊的存在である一人ひとりのキリスト者のことを考えることが求められていると思うのです。
◎つまり、パウロは、「私たちは、現実の教会は滅びても天には実在の教会があることを知っています。たしかに私たちは現実の教会の中で苦しみもだえています。けれども苦しんではいても現実の教会から逃れようと思いません。実在の教会が天から与えられるからです。そして、現実の教会のもとで重荷を負ってうめいている私たちを、実在の教会を待つ者とするために、<神は、その保証として聖霊を与えてくださった>(5節)」と語っているのです。
私たちは、現実の教会の中で対立したり高慢や怠慢や偽りによって傷つくとき、「教会も人間の集まりだ」と言います。たしかに私たちは罪と悪の泥まみれの人間です。けれどもそういう私たちが、この現実の教会に集められ、聖霊の力にあずかる者とされ、実在の教会への希望が与えられていることを感謝したいと思います。実在の教会が決して無力な空想の産物ではないことは、イエスの昇天の出来事において明らかです。弟子たちは、イエスが目の前で雲に覆われて見えなくなったとき、天に昇ったと確信しました。
聖書は1ページで、<初めに、神は天地を創造された>と語っています。<天>は見えない世界です。神の座があり、天使たちが存在する被造物の世界です。それに対して<地>は宇宙も含めた見える世界であって、地において私たちは現実の教会に集められているのです。しかし、天には実在の教会があり、あの高い山でご自分の本当の姿を弟子たちに示されたイエス・キリストがおられるのです。ですから私たちは、現実の教会にあって、雲に覆われて見えませんが、実在の教会が身近に隠されてあると信じ、喜びと感謝と希望をもって、共に助け合い、愛し合いながら、託された教会の使命を果たしていきたいと思います。
定例行事
- 聖日礼拝
- 毎週日曜日10:30~
- 教会学校(子供の礼拝)
- 毎週日曜日9:30~
- 祈祷会・聖書研究会(午前の部)
- 毎週水曜日10:30~
- 祈祷会・聖書研究会(夜の部)
- 毎週水曜日19:30~
その他の年中行事
- チャペルコンサート(創立記念)
- 毎年8月下旬
- チャペルコンサート(クリスマス)
- 毎年12月23日
- クリスマスイブキャンドルサービス
- 毎年12月24日夜