2024年9月15日 聖書:フィレモンへの手紙1章8~22節「愛に訴えて願う」川本良明牧師

◎ただ今司会者から読んでいただきましたのは、パウロがフィレモンという人に宛てた手紙です。パウロの手紙は新約聖書中に13書簡ありますが、このフィレモン書簡は他の書簡とちがって神学的な論理を展開することはまったくなくて、奴隷主であるフィレモンのもとに奴隷のオネシモを送り帰したいという内容になっています。
 手紙の構成は、初めに「挨拶」、4節から「フィレモンへの感謝」、8~22節まで「手紙を書いた理由」、そして23節から「終わりの挨拶」という4つの部分で成っていますが、挨拶以外の4~22節までに<あなたの愛><愛に訴えて><愛する兄弟>と愛が5回、<心>(深い憐れみ)が3回も出てきます。つまりこの手紙は愛で貫かれている内容になっています。
◎名宛人のフィレモンは、奴隷を持つ豊かな生活をしていた人のようです。エフェソでパウロに出会ってキリスト者になり、2節にあるようにコロサイで家の教会を開いていました。その彼にパウロがお願いしたのが、「オネシモを私と思って迎え入れてほしい」ということでした。
 そのオネシモはフィレモンの奴隷でした。その事情は不明ですが、奴隷主フィレモンに何らかの損害を与えて逃亡し、ローマに至り、そこでキリスト者に出会い、獄中のパウロに導かれてキリスト者になりました。
 つまり二人ともキリスト者でした。しかし、だからといって当時の奴隷制度という厳しい関係の下では、奴隷主も奴隷もその社会的身分をやめることはできません。ですからこの手紙は、奴隷制度と福音の関係を考える上で大変貴重な手紙であると思うわけです。
◎古代ローマ帝国の社会は厳しい奴隷制度の下にありました。世界の歴史を見ると、人類は自然の脅威から身を守るために文明を築きました。しかし、その代償として、奴隷制度とそれを支える宗教を生み出しました。ですから奴隷が逃亡した場合、奴隷主が逃亡した自分の奴隷を見つけ次第、有無を言わさず処刑することは当たり前のことでした。
 そのことを重々承知していたパウロは、キリスト者である奴隷のオネシモと奴隷主フィレモンの上に降りかかってくる苦しみを思って、たいへん苦悩しました。しかし、ここで私は、パウロが別の書簡で語った言葉を思い起こすのです。<私は福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです>(ローマ1:16)。これはローマのキリスト者たちを訪問するにあたって書いたローマ書簡の一節です。
◎パウロは、世界の中心であるローマについて、最高の教養と野蛮さを混ぜ合わせた異教世界であると見ていました。そのローマを彼が恐れないのは、<福音は神の力である>とあるように、福音を神の全能の力であると確信していたからです。また、<福音とは、死者の中から復活して力ある神の子と定められた私たちの主イエス・キリストです>と述べています(同1:4)。
 かつて教会を迫害していた彼に、復活したイエスが現れて、<サウル、サウル、どうして私を苦しめるのか><主よ、あなたはどなたですか><あなたが迫害しているイエスだ>と言われたとき、彼は愕然として回心し、生涯命を賭けてキリストの弟子となりました。つまり、彼は、イエス・キリストこそ神の全能の力である、したがって、この世の究極の力であると信じていました。だから、<ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも-ユダヤ人以外の異教の世界の人々-にも、すべて信じる者には救いを得させる力である>と確信していたパウロは、フィレモンもオネシモも二人ともキリストに生かされていると信じていました。
◎最初の挨拶が終わった後、彼は2つの面でフィレモンに感謝しています。まず過去における彼との交わりの数々のことです。つぎに、今、牢獄を訪問する人たちから聞き及んでいるフィレモンの信仰生活と愛のわざのことを感謝し、どうかこれからもキリストの真理を知り、信仰の交わりがますます豊かになるようにと祈って、それから、<兄弟よ、私も聖徒たちもあなたの愛から大きな喜びと慰めを得、深い憐れみが生じました>と語りました。
 このようにパウロは、感謝と祈りの中で神の全能の力であるイエス・キリストの愛に生きるように勧めた後、8節からいよいよオネシモのことを語るのですが、それを語るとき、口ごもるように、<それで、私は、あなたのなすべきことを、キリストの名によって遠慮なく命じてもよいのですが、むしろ愛に訴えてお願いします>と言って、初めてオネシモの名前に触れるわけです。
◎彼はここで2回も<お願いします>と語り、まるで手をついて願っているようです。そして人間性の回復した、もはや奴隷ではないオネシモは、私の心であり、本当は手元に置いておきたいけども、しかしあなたのところに送り帰さねばとの思いを伝えるわけです。
 とりわけ注目するのは15~16節の言葉です。<恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特に私にとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。>じつに深い憐れみを感じさせる言葉です。
◎彼は、この出来事を、人間の目で見るのではなく、天から、神から見ています。これは本当に大切なことだと思います。私たちも、自分の過去の経験を想う時、人間的な目で、横並びに比較しながら見るのではなく、天から、神から、これまで私を生かし、そして今も私を生かしておられるという風に見ることは大切です。つまり、パウロは、オネシモがあなたのところから逃亡したのは、キリストに出会うためであり、奴隷ではなく愛する兄弟となるためであり、キリストに出会って主を信じる者となり、愛の人間になるためだったと語っています。
 まさに全能の神であり、またこの世の究極の力であるイエス・キリストの福音つまりキリストの愛こそ奴隷主と奴隷の関係という当時の社会的、時代的規範を越えて、この世の物差しである罪を越えて、新しい人間関係を作り出す力なのです。そしてパウロは、<オネシモを私と思って迎え入れ>るように願い、さらにオネシモの身代わりとなり、彼が与えた損害を支払いますと申し出ています。この書簡がパウロの愛の実践の手紙であると言われるゆえんです。
◎ここで注意しておきたいのは、パウロはフィレモンが奴隷主であることを微塵も批判していないことです。しかも彼の奴隷であるオネシモを、一人の人間として迎えるように語ることができているということです。もちろんオネシモに対しても奴隷をやめることを勧めてはいません。それは推測ではなく、パウロの他の書簡を見て分かるからです。
 例えばエフェソ6:5~8で、<奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。…キリストの奴隷として、…人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。…奴隷であっても自由な身分の者であっても、善いことを行えば、だれでも主から報いを受けるのです。>と語っていますが、これはどの書簡にも見られる言葉です。
◎そこで奴隷制度と福音の関係を考える上で、参考までに民族についてふれたいと思います。聖書に民族のことが初めて現れるのは創世記10・11章で、ノアの子孫に始まる諸民族のことが書かれています。その前の3~9章にはアダム~ノアの物語が、12章からはアブラハムとその子孫であるイスラエル民族の物語が書かれています。
 そして神は、アダムにもノアにもいろいろと語りかけています。しかし10・11章の諸民族に対しては、神はまったく語っていません。ところがアブラハムとイスラエル民族に対しては、ふたたび語っていますが、しかし、今度は語りかけているのが個人に対してなのか民族に対してなのか区別がつきません。イスラエルは神が特別に興された民族です。したがって、この民族と神との関係は、私たちも含めた世界の諸民族に対するしるしなのです。つまり世界の諸民族において神が語りかけるのは、民族に対してではなくて、その中で生活している個々の男や女、夫や妻、親や子などに語りかけるのだということなのです。
◎聖書は、イスラエル民族の歴史を主題としています。ですから、世界の諸民族は、ユダヤ人を見すえて前進するときに神の救いが与えられるのです。しかし、イスラエル民族は、神に特別に選ばれた民族であり、彼ら自身も神を王として救い主として裁き主として信じていながらも、たえず周辺の諸民族に影響され、他民族の中に埋没する誘惑にさらされるだけでなく、それに陥ってきました。今もそうです。
現在のイスラエルとハマスの対立を考える場合、マスコミをはじめ世界中がイスラエルを批判していますが、その批判の中に、かつてドイツのヒトラーとナチスがやったような反ユダヤ主義、あるいはそれを生み出したヨーロッパ諸国の反ユダヤ主義が紛れ込んでいないか、それに加担していないか、その危険性を自覚しているか、よくよく注意してみることが大切です。そのことについてはまたいつか取り上げたいと思います。
◎神が語りかけるのは、民族ではなく、その中で生活している一人ひとりに対してであると見てきましたが、それと同じように、神は、奴隷制度に対してではなく、その中で生きている一人ひとりの人間、ここでは奴隷主フィレモンや奴隷のオネシモに語りかけているのです。もちろん、聖書は奴隷制度を認めているわけではありません。むしろ、聖書が語る神こそ人類を奴隷制度から解放するために、人類のために、人類に代わって戦っているのです。
 神は、イスラエルを古代エジプト帝国から解放するために奴隷制度と戦ったのではありません。人類が文明の代償として生み出した奴隷制度から人間を救い出すために、神は特別にイスラエル民族を興し、解放の戦いに参加させ、主体的に働くように招いたのです。
◎このことは、現在の日本においても同じことが言えるのではないかと思います。例えば女性差別が家父長制度の下でもたらされたと鋭く批判されています。たしかに家父長制度の下で女性が家長の支配によってどんなに苦しんできたかを見過ごしてはならないと思います。
 あるいは医療制度の下での医者と看護師との関係、あるいは社会保障制度の下での行政担当者と生活保護者との関係、あるいは天皇制の下での天皇と臣民との関係など、さまざまな○○制度によって社会は成り立っています。このような社会の中で、性差別、部落差別、在日外国人差別などさまざまなことに直面するのですが、その時、私たちが本当にそこから解放されるために、制度を戦い、制度をなくせばよいということではないと考えるわけです。
◎そして今や神は、イスラエル民族の歴史の中に人間となり、一人のユダヤ人として来られました。新しい契約を結ばれる神によって、歴史は、旧約聖書から新約聖書へと進んでいます。私たち教会は、イエス・キリストの復活と昇天の出来事を振り返りながら、終りの日に向かって、聖霊のわざにあずかりながら、その使命に生きることを託されています。ですから、○○制度とか○○主義とか○○イデオロギーとかのこの世の物差しではなく、直接イエス・キリストの霊である聖霊の実にあずかりながら、託されている使命を果たすように招かれていることを感謝したいと思います。

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