2024年10月6日 聖書:ペテロの手紙Ⅱ1章12~15節「教会の使命 (3)」川本良明牧師

◎この手紙はわずか3章の短い手紙ですが、使徒ペトロの遺言書簡と言われています。彼はシモンという名の漁師でした。若いころイエス・キリストから、<私について来なさい。人間をとる漁師にしよう>と言われて以来、兄弟と漁師仲間と一緒にイエスに従っていき、やがてイエスからペトロという名で呼ばれるようになりました。彼の人柄は、イエス・キリストの活動と生涯を伝えているマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書のどれからも知ることができます。
 老年になったペトロが今、14節で<私たちの主イエス・キリストが示してくださったように、自分がこの仮の宿を間もなく離れなければならない>と語っているのは、自分の死は偶然とか運命ではなく、かつてイエス・キリストが自分に語った言葉を思い出しているからです。
◎それは、ヨハネ福音書13章36節以下が伝えているように、イエスが過越の食事の席で弟子たちに、自分はまもなく別れることになると告げたときでした。動揺する彼らを代表するかのようにペトロが、<主よ、どこへ行かれるのですか>と聞くと、<私の行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。>と言われたことです。これが死の予告だと思うのです。彼は十字架の死を遂げようとしているのですが、弟子たちにはわからない中で、ペトロに「あなたは私の後について来ることになる」と言っているわけです。
 そこでペトロが、<主よ、なぜですか。なぜあなたについていくことができないんですか。あなたのためなら命を捨てます。>と言うと、<私のために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは、私を三度知らないと言うだろう。>と言われました。そして事実彼は、イエスが権力に捕まって連行されたとき、一人の女性から、「あんたも、あの人の弟子の一人じゃないか。」と言われたとき、「人ちがいだ」と拒否するのです。そして、しつこく言われるので、「そんな人は知らない」と三回目に言ったとき、鶏が鳴きました。それを聞いた彼は愕然としました。俺は裏切ったのだ。俺は裏切ったのだ…! どん底に突き落とされた彼の様子を他の聖書は、「彼は激しく泣いた」と伝えています。
◎やがて、イエスが復活して弟子たちに現われたとき、彼は顔をあげることができませんでした。あの事を思い出すと、とても目を向けられなかったのです。しかし、イエスは、それとはお構いなく弟子たちと食事をしていくのです。そして、ヨハネ福音書21章に書かれていますが、ガリラヤ湖畔でイエスが弟子たちと食事をした後のことでした。
 イエスがペトロに、<ヨハネの子シモン、あなたは私を愛するか>と言われました。すると彼はやっとの思いで、<はい、主よ、私があなたを好きなことは、あなたがご存じです>と答えました。このときイエスは、「愛するか=アガペー」と言い、ペトロは、「好きです=惚れる」と言っています。そこでイエスは、<私の羊を飼いなさい>と言われました。
 またしばらくして、イエスが、<ヨハネの子シモン、あなたは私を愛するか>と言われたとき、もうペトロは元の彼に戻って、<はい、主よ、私があなたを好きなことは、あなたがご存じです>と答えました。そこでイエスは、<私の羊を飼いなさい>と言われました。
 そこですっかり元気を取り戻したペトロに、またイエスが、<ヨハネの子シモン、あなたは私を好きか>と、親しくペトロの言葉で問うたのです。そのとき、彼はハッとしました。3回裏切ったことをイエスは覚えている…! そのことを思い出したペトロは、やっとの思いで、<主よ、あなたは何もかもご存じです>と答えたのでした。
 そのときにイエスは、<私の羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる>と告げました。これが、ペトロがどんな仕方で死ぬかをイエスが語ったのだ、と福音書を書いたヨハネは説明しているわけです。
◎ペトロの手紙に戻りますが、このようなことからペトロは、間近に迫っている自分の死を自覚して、14節のように、<私たちの主イエス・キリストが示してくださったように、自分は今別れようとしているのだ>と語っているのです。
 12~15節を読みますと、非常に差し迫っているペトロの思いが伝わってきます。しかし、聖書は、<私は、自分がこの体を仮の宿としている間>と訳していますが、原文には、「体」という語はありません。「仮の宿」という語もありません。原文は「幕屋」という語であり、14節の「仮の宿」も「幕屋」です。もちろんペトロは、間違いなく自分に死が迫っていると語っています。しかし今のように訳すと、ペトロの切迫感を弱めることになります。ですから、こういう日本語の訳し方は良くないと思うのです。
◎ペトロは、自分の死が差し迫っていることを強く表現するために、<これらのことをあなたがたに思い出させたい>と何回も語っています。12節でも13節でも15節でも3章1節でもそのように語っています。いったい彼は、何を忘れないようにと言っているのでしょうか。
 12節で彼は、<従って、私はいつも、これらのことをあなたがたに思い出させたいのです。あなたがたは既に知っているし、授かった真理に基づいて生活しているのですが。>と語っています。つまり、<あなたがたは既に知っているし、授かった真理に基づいて生活していることは分かっています。けれども、ぜひもう一度それらを思い出してほしいのです。>と願っているのです。
◎ここで、<あなたがたは既に知っている>というのは、少し前の8節で、<あなたがたは怠惰で実を結ばない者とはならず、私たちの主イエス・キリストを知るようになるでしょう。>ということです。たしかにあなた方は主イエス・キリストを知っています。しかし、あらためてそのことを思い出してほしいと言っているのです。また、<授かった真理>とは、さらにさかのぼって3~7節で書いてあることです。それは、イエス・キリストが成し遂げてくださったすばらしいわざのことです。そのことをあらためて思い出してほしいと言うのです。
 イエスが成し遂げてくださった素晴らしいわざとは、永遠の神が、罪と悪にまみれた人間と同じ姿になって、罪と悪を滅ぼしてこれを贖い、これを潔め、神の本性にあずかる新しい人間にして、神の国の住民となって働く道を備えてくださったということです。
◎イエスは、その十字架の死において、私たち罪人の罪を滅ぼして、私たちを、神に義とされる、つまり、神に良しとされるという義認のわざを成し遂げられました。それはちょうど末期の癌になったとき、癌を殺すには死ぬしかありません。しかし、癌だけ殺して自分は生きたいと願っても私たちにはできません。だからイエス・キリストが、私たちの代わりに死んでくださって、罪という癌を滅ぼしてくださったのです。いわば私たちの大手術は終わったのです。
 けれども、手術は成功しても普通の生活はできません。元の生活をしようとしたら主治医は、完全に回復するため治療を続けますと言うでしょう。しかし、その治療はなんと喜ばしい治療でしょうか。それが聖化というわざであって、潔めのわざとも言います。そして、これもまたイエス・キリストが成し遂げてくださいました。つまり、イエス・キリストは、絶えず罪に誘惑され、絶えず死に脅かされる中で、神に祈り、神に助けを求めて、泣き叫び苦しみ悶えながら誘惑に打ち勝ち、死に至るまで、私たちに代わって、神にまったく従順に生き抜かれたのです。
◎そのイエスを神は復活させられました。そして、復活した人間イエスは天に昇り、聖霊として降って、私たちの中に住んでくださり、私たち一人ひとりが聖霊の実を結んで神の子となり、永遠に生きる者となるように、イエス・キリストご自身が成し遂げてくださるのです。
 そのことをペトロは、5~7節で語っています。少し分かりにくいと思いますが、聖霊の実を語っているのです。そのどれ一つも私たちにはできません。しかし、あの方はおできになります。聖霊が働いて、今ペトロが言ったことすべてを実現してくださるのです。
◎このように、イエス・キリストは、義認と聖化というわざをすべての人のために成し遂げてくださり、これにあずかるようにすべての人を招いています。その招きにこたえて、選ばれた者としてふさわしく生きるのがクリスチャンです。これについてイエスは譬え話をしています。「ある王様が宴会を催したが、招待客が来ないので、家来に通りに出て誰でも招くように言った。そこで宴会場は客でいっぱいになったが、そこに一人礼服を着ていない者がいたので追い出した」と話した後、<招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。>と言われました。
 このことを今ペトロは、10節で、<だから兄弟たち、召されていること、選ばれていることを確かなものとするように、いっそう努めなさい。>と勧めるのです。そして選ばれた者としてふさわしく歩むならば、すでに4節でも語ったのですが11節で、<こうして、私たちの主、救い主イエス・キリストの永遠の御国に確かに入ることができるようになる。>と結んでいるのです。
◎3~11節で、すべての人のためにすばらしいわざを成し遂げられたイエス・キリストを、あらためて兄弟たちに語ったペトロの中には、一貫してある思いがありました。それは、あの山上の出来事でした。もちろん彼は、復活したイエスに出会った喜びを決して忘れてはいません。しかし、今彼は、復活前に起こった出来事を決定的なこととして語っているのです。
 次の16節以下で彼は、<私たちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、私たちは巧みな作り話を用いたわけではありません。私たちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、「これは私の愛する子。私の心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。私たちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。>と、忘れもしない出来事にふれています。
 その山上の出来事は、どの福音書も伝えています。弟子のペトロ・ヨハネ・ヤコブ3人を連れて高い山に登ったイエスが、突然、その姿が変わり、顔が太陽のように輝き、服が光のように真っ白になり、またモーセと預言者エリヤが現れました。おどろいたペトロは、「先生、ここに幕屋を3つ作ります」と口走りました。それから雲が3人を覆うと、その中で先ほどの神の声が聞こえた後、元の姿のイエスがそこにおられたのでした。このおどろくべき出来事は、イエスが弟子たちに、復活を先取りして、ご自分の本当の姿を見せたということです。
◎イエスが復活前に見せたご自分の本当の姿を、復活後にも見せたのがパウロに対してでした。教会を根絶やしにしようと血眼になってダマスコに行く途中、天から光が照ってイエスが現れました。<サウル、サウル、どうして私を苦しめるのか><そういうあなたは、どなたですか><あなたが苦しめているイエスだ>。これは復活後ですが、あの山上の出来事と同じだと思うのです。あのイエスが今パウロにも現れたということです。
 このことをペトロは知っていました。なぜなら、この手紙の3章の終わりの方で、彼はパウロのことにふれて、彼の文章は難しい所もあって誤解されることもあるかもしれないけども、パウロは私と同じことを言っているのだと紹介しています。ですから、パウロと同じようにペトロにとって、イエス・キリストの本当の姿を目撃したことがどれほど衝撃的なことであったか、そのことを私たちは知らなければなりません。
◎しかもそのことをはっきりとペトロの中に刻み込んだのは、復活のイエスに出会ったときでした。山上の出来事の後、イエスは3人に、<私が復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と言われています。その通り彼らは黙っていましたが、やがて本当にイエスが復活したとき、あの時のことがピタッと結びつきました。ですから、彼らは山上の出来事を、他の弟子たちにも語ったと思うし、さらに他の人々にも証言したと思うのです。
 復活のイエスに出会うことで、イエスの本当の姿を知ったペトロおよびパウロの衝撃は、ものすごかったと思うのです。初代の教会はそのことを振り返りながら、その宣教活動を行ない、イエス・キリストを伝えたのです。極端に言えば、クリスチャンは、そのことを証しするために、この世から選ばれて教会に集められていると言えます。
◎山上の出来事も、イエスが墓から復活したことも、どちらもこの世界の時間の中で起こった出来事です。つまり、復活前のイエスも復活後のイエスも同じお方です。ですから、この同じイエスが、再びこの世界に来られるということを、初代の教会はもちろんペトロもパウロも確信していました。このことをペトロは、手紙の第3章で語っています。小見出しに「主の来臨の約束」とあるように、ペトロは3章全部において、イエスが同じ姿で来られることを確信をもって書いています。12節でも13節でも14節でも、<待ち望む>と繰り返し語り、忍耐強く待ち望むことを勧めているのはそのためです。
 イエス・キリストの本当の姿を目撃して受けたペトロの衝撃は、復活のイエスに出会ってなおさら切迫感を強めたと思います。ですから彼の中には、やがてこの世界は終わるのだ、しかしそのとき、あのイエスがまちがいなく来られるのだという緊迫感がありました。そのことを、死を間近にした思いと重ね合わせて書いているのが1:12~15節です。しかしその切迫感がこの文章からは伝わってきません。なぜ伝わらないのか。それは、ギリシア思想の先入観から翻訳しているからです。<体を仮の宿としている>とか<仮の宿を間もなく離れる>といった表現は、明らかにギリシア思想を背景に日本語に訳しています。
◎ギリシア思想は、霊肉二元論といって、肉体が魂を束縛し閉じ込めていると考えます。魂は肉体によって苦しめられている、だから、肉体が滅びると魂が自由になって、本当の世界、完全な世界に行くのだというのがギリシア思想です。ソクラテスが冤罪で死の宣告を受け、毒の杯を取ると、従容として飲みました。それは、自分は今から死ぬけれども、肉体が滅びることで本当の自分である魂は解放される、だから喜ばしいことだと確信していたからです。
 しかし、その姿はイエス・キリストと全く違います。彼はゲツセマネの園で、死を前にして、悶え苦しみました。それは、神から離れ、神に背いて、神に裁かれ、肉体も魂も永遠に消滅する私たちすべての人間の代わりに、彼ご自身が神に裁かれ、十字架の上で肉体も魂も消滅しました。そのように彼は、私たちへの愛ゆえに苦しまれたのです。私たちは、このイエス・キリストを知り、その大いなるわざを思い起こし、心に刻み込み、今も私たちの内に働いて永遠の希望を与えておられることに感謝し、ペトロと同じ切迫感をもって、主の来臨を心から待ち望みたいと思います。
 霊肉二元論は、日本人の世界観と非常によく似ています。しかし、肉体から離れた魂だけの天国などないのです。今度永眠者記念礼拝がありますが、その中でこのことをぜひ取り上げたいと思います。それはともかくとして、私たちは、この世界の時間の中で、互いに愛し合いながら、キリストを宣教し証しして行きたいと思います。

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