2024年10月13日 聖書:マルコによる福音書12章41~44節「現代の福音」大薮善次郎牧師

やもめが賽銭箱にレプトン銅貨二つを入れた。イエスは生活費の全てを捧げた彼女の行為を良しとした。貧しさの中でも神に捧げることを通して、真の幸せを得るのである。

 新約聖書における貧しさとは何であろうか。それは物質的にも精神的にも貧しいということである。マタイ五章三節では、心の貧しい者と言う。これは貧しさを精神的なものに限定したものだ。
 しかし、やもめは精神的にも物質的にも貧しいのである。それでこそ幸せを得るということは、逆説的である。貧しさを極限まで体験しているからこそ、真の幸せを感じ取ることができるのである。

 イエスの十字架というのは、当時のユダヤ社会の中で富める者によって貧しき者が殺されたと言うことだ。このイエスを救い主とするのがキリスト教信仰の中心となった。これがイエスは人間として全く貧しさの中で生きられたという証拠でもある。

 イエスは歴史上の人物だ。人間として表裏一体を生きた。だから、精神的も物質的にも貧しくあっても、この両者を超えたところに真の幸せがあることを示すことができたのである。

 私たちは、イエスに従うものとして、あるがままの人間であっていいのだ。何も自分を良い人間、悪い人間と思う必要はない。イエスを信じ、イエスに全てを任せて生きようではないか。

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