⦿今日、教会に集められていることを共に感謝したいと思います。イエス・キリストの名によって行なう礼拝に参加するということは、そのことを意識するしないはともかくとして、イエス・キリストの父である神の招きにあずかるということだからです。その神の招きの言葉をもう一度お聞きしたいと思います。<死ぬ日は生まれる日にまさる。弔いの家に行くのは、宴会の家に行くのにまさる。そこには人皆の終りがある。命あるものよ、心せよ。>
これは旧約聖書の『コヘレトの言葉』という書物の一節です。日ごろは生活に追われ、健康やお金や人間関係など、円周のことに心奪われています。しかし、神の言葉は私たちを円の中心に心を向けさせてくれます。円の中心とは命のことです。
⦿一般に人生を真剣に思うのは、死という現実に心を向ける時と考える人が多いですが、先ほどお読みしたマルコ9:2~8が伝えている物語はそれとは正反対です。なぜなら、ほんのわずかな人たちが目撃した小さな出来事でしたが、死の現実を突破する命の姿を見て驚愕し、やがてすべての人に生きる意味を与え、世界全体を根本から変える物語を伝えているからです。
6日の後、イエスがペトロなど3人の弟子を連れて高い山に登ると、突然、イエスの姿が変わり、太陽のように輝き、服が光のように真っ白になり、またモーセと預言者エリヤが現れました。3人は非常に恐れ、動転したペトロは口走りますが、雲が覆い、<これは私の愛する子、これに聞け>という声が聞こえました。そして元の姿のイエスだけがおられたというのです。
⦿イエスの弟子は全部で12人です。彼らがイエスに出会ったのはわずか3年前ですが、おどろくことばかりが続きました。病をいやし、盲人の目を開け、悪霊を追い出し、死人を生き返らせ、5つのパンと2匹の魚で男だけで5千人を養うなど、枚挙にいとまがありません。
そればかりか、彼は奇跡を行なう時には必ず語っています。本物の権威ある教えとはこういうことだと思います。例えば、<心の貧しい人々は幸いです。天国はその人たちのものです>と彼は語っていますが、他の人が語れば、「どうして幸いといえるのか。世の中はそれと反対だ。」と言うはずです。けれどもイエスは語れば奇跡が起こるのです。言葉と奇跡が完全に一致しているのです。ですから、イエスの言葉は本当に権威があり、そのまま信じることができました。そういうイエスを見て、彼らは、これは本物だと感じたのです。
⦿じつは当時のイスラエルの社会では、職業を問わず皆、男の子は例外なく幼児期から近くの会堂で聖書を学んでいました。ですから一般の人々と同じように弟子たちも、自分たちの先祖であるアブラハム・イサク・ヤコブと契約を結んだ神が、今にもキリストをつかわしてくださると信じていました。キリストがダビデの子孫から生まれて、軍事的・政治的指導者として自分たちを敵の支配から解放してくれる希望を抱いていた彼らは、イエスこそ待望のキリストだと確信したのです。ところが先ほどの物語に戻りますが、じつは六日前、弟子たちにはたいへんショックなことがありました。突然、イエスが彼らに、<世間では私のことを何と言っているか>と尋ねたのです。
それで彼らがあれこれと語ると、<では、あなたがたは私をどう思っているのか>と聞きました。そこでペトロが、「あなたはキリストです」と答えると、<そのことを誰にも話してはならない>と口止めした後、衝撃的なことを告げたのです。それは、自分がエルサレムで指導者たちから排斥され殺され、3日後に復活するということでした。彼らは、頭の中が真っ白になりました。ですから、<3日後に復活することになっている>と言ったイエスの言葉など吹っ飛んでいました。キリストが排斥され殺されることなど、あまりにもかけ離れたことだったからです。
⦿その6日後にイエスは、弟子たちの中から3人を選んで山に登り、そこで自分の本当の姿を見せたのでした。山を下るとき、イエスは彼らに命じました。<自分が死んだ後、復活するまでは、今見たことは誰にも話してはならない。>この後、イエスは何度も弟子たちに、死刑を宣告され異邦人に侮辱され、唾をかけられ、鞭打たれて殺される。その3日後に復活すると、自分の受難の死と復活を語りました。
やがてイエスが目の前で捕まって連行されたとき、恐怖に包まれ、「死んでも先生の後についていきます」と言った弟子たちは皆、逃げました。そして十字架にかけられて殺されたとき、彼らはイエスを見殺しにしたことを悔い、絶望のどん底に突き落とされたのでした。
⦿ところが、その3日後に復活したイエスが彼らの前に現れたとき、喜びにあふれました。あの高い山で変貌のイエスを目撃した3人にとっては、言葉に表せないほどでした。今や彼らは、口止めされていたあの体験を皆に証しし、あのときイエスは身をもって復活を予告されたのだ、そして、復活した姿こそイエスの本当の姿なのだ、ということを確認したのでした。
その後、復活されたイエスは40日間、弟子たちと生活を共にした後、<私はあなたがたを独りぼっちにしない。必ず戻って来る>と言って天に昇って行きました。イエスが天に昇るのを見送った弟子たちは、大喜びで都に戻ると、毎日祈って、約束のものを待ちました。そして、10日後、約束の聖霊が天から降って一人ひとりにとどまったのでした。
⦿復活したイエスは、天に昇って、今も神のもとにおられます。と同時にイエスは、聖霊として私たちの内に住んで、私たちを復活したイエスと同じ姿に変えてくださいます。そのためにイエスは、世の中から人々を教会に招いて、聖霊にあずからせ、永遠の命を与えて新しい人間にしてくださり、天国に迎えてくださることが今も起こっているのです。
今日の永眠者礼拝では、最初に、人は死の現実から人生を真剣に考えると語りました。しかし、それ以上に、死に勝利した復活のイエスをお知らせし、このイエスの本当の姿を目撃して驚愕した人々のことを紹介しました。じつは復活のイエスこそ神が人間を造った本来の姿なのですが、それを台無しにした姿が私たちなのです。しかし神はキリストによって、命がけで私たちを本来の姿に回復してくださったのであり、くださっているのです。
⦿聖書は、<人間は天地創造の神によって造られた存在である>と語っています。人間は偶然の産物でもタンパク質から微生物となり進化して生じたものでもなく、神の創造物なのです。ではどのように造られたのか。それは人間イエスを見ると明らかなのですが、もう少し詳しく言うと、人間は肉体と精神(魂)から成っていて、それらは別々のものでありながら決して切り離すことはできないのです。リンゴにたとえると、表面の皮が肉体で、果肉が精神(魂)です。精神とは知性と感情と意志から成っています。その真ん中の中心にある種が命(霊)です。
神は土の塵で人を形造り、命の息を吹き込んで生きものとされました。そして霊によって人として生かしておられます。私たちは、肉体と魂と霊の3つから成る体つまり我という人格です。霊は天とつながる命そのものです。私たちが神から離れて自主的となり、自力で生きる道を歩んで天とのつながりを切るとき、これを聖書は罪と言います。罪によって天とのつながりが切れると、人間は霊的に死にます。そして霊的な死は、やがて体の死を迎えることになります。体は肉体と魂から成っているので、死とは肉体も魂もなくなり、消滅します。
⦿ところで、肉体と魂を分離し、肉体は滅んでも魂は不滅であるという霊魂不滅の考えがあります。これは、魂は肉体に縛られているが、肉体が滅ぶと自由になって永遠に生きると考えます。ソクラテスが渡された毒の盃を手に持って従容として飲んでいったと言われるのは、これを信じていたからです。日本人の一般的な死生観も霊魂不滅ではないかと思います。盆になると、帰って来る死者を迎えるために提灯を下げたり、皆が集まったり、お供えをするのは、死者の魂が不滅と信じているからです。魂を迎えるのと見送るのと2回盆踊りを行なう地域もあります。
しかし、イエス・キリストは、死を前にして悶え苦しみました。それは、罪のために神に裁かれ、肉体も魂も永遠に消滅するすべての人間の身代わりとなって、彼ご自身が十字架の上で肉体も魂も消滅することを知っていたからです。そして彼は、<すべては終わった>と言って息を引き取られました。それほどまでに私たちを愛しておられたので彼は苦しまれたのでした。
⦿人間は霊魂不滅ではなく、罪のために肉体も魂も死滅する、それが聖書が語る死です。しかし、神はイエス・キリストを十字架に死なせることによって、罪を裁き、罪を贖ってくださいました。そして、そのことが確かであることを宣言するために、神はイエス・キリストを復活させられました。このキリストを救い主として信じて、聖霊にあずかるならば、肉体と魂としての体が回復し、永遠の命に生きる者となり、死ねば天国に行くことになります。天国は神のおられる所であり、そこにはイエスさまがおられます。だから天国とはイエスさまのことなのです。
天国を、こちらから行く所と思うのは、すでに聖霊が自分の内に住んで、日々、天とつながって潔められながら生活しているので、死を迎えたとき、イエスさまの所に行くからです。しかし、天国は向こうからやって来ます。なぜなら、イエスはマタイ5:3以下の山上の説教で、<心の貧しい人々は幸いです。天国はその人たちのものである。……。>と語っておられるからです。
⦿イエスさまのことを考え、神の恵み、罪の贖いなど、私たちのためにすばらしいことをしてくださったことを思い返すならば、<心の貧しい人たち、私はあなたの所に迎えに行きます。悲しんでいる人たち、私はあなたの所に迎えに行きます。……。>とイエスさまは語っているのです。天国は向こうからやって来ます。その人たちには信仰がないかもしれません。しかし、いつも苦しんでいる。いつも何かのために良いことをしている。その人たちにイエスさまは、<私はあなたの所に行きます>と言われている。それが、天国は向こうから来るということです。
天国に行くこと、天国がやって来ること、いずれにしても天国が、今生きている私たちの生き方の基準になっていることが大切であり、そのことを願っています。永眠者記念礼拝の今日、すでにキリストのもとに行かれた方々を偲びながら、あらためて死に勝利したキリストの出来事が、すべての人に生きる意味を与え、今や世界全体を根本から変えておられる神の恵みと神の子イエス・キリストの愛を心から感謝したいと思います。
定例行事
- 聖日礼拝
- 毎週日曜日10:30~
- 教会学校(子供の礼拝)
- 毎週日曜日9:30~
- 祈祷会・聖書研究会(午前の部)
- 毎週水曜日10:30~
- 祈祷会・聖書研究会(夜の部)
- 毎週水曜日19:30~
その他の年中行事
- チャペルコンサート(創立記念)
- 毎年8月下旬
- チャペルコンサート(クリスマス)
- 毎年12月23日
- クリスマスイブキャンドルサービス
- 毎年12月24日夜