2024年11月17日 聖書:テサロニケ5章23~24節「福音と律法に生きる(2)」川本良明牧師

⦿「福音と律法に生きる」第2弾として、まず福音とは何かを理解するために、パウロの言葉を聞きたいと思います。<キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、……この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、私たちの主イエス・キリストです>。彼はローマ1:1~4でこのように語っています。
 「キリストの奴隷、福音を伝えるために神に任命されて使徒となった」と自己紹介する言葉には、自分が語るのは神の言葉であり、これを受け容れる以外に神の前に義しく生きる道はない、という非常に強い響きがあります。その上で彼はキリストを3つの面から語っています。
①神の御子であること、つまり永遠性と神性の内にあるお方である。
②ダビデの子孫である人間として、時間と空間に生きるお方である。
③死から復活させられて、力ある神の御子と定められたお方である。
 つまり、こういうお方であるイエス・キリストが福音であるというのです。
⦿つぎにこのお方が何をなさったのか、つまり福音の内容を理解するために、やはりパウロの言葉を聞きたいと思います。<最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、……キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、……三日目に復活したことです>。じつに溢れんばかりの喜びをもって語っているのはⅠコリント15章3~4節です。しかもこの前の1~2節で彼は<福音>という言葉を4回も繰り返しています。先ほど福音とは何かをローマ書から見ましたが、ここでは福音の内容を3つにまとめて語っています。
①キリストが人間の罪のために十字架で死なれたこと。
②墓に葬られたこと。
③三日目に復活させられたこと。
 福音とその内容について、それぞれ3つの点から語りましたが、これをキリスト教の教理と言います。ところが、今日の教会では一般に教理を軽んじる傾向があります。そして教理以外のことをあれやこれやと大事にしています。たしかにそれも大事なことですが、まずは教理という背骨がなければ、世の中のことに振り回されてしまうし、現実に起こっています。
⦿福音とその内容を語っているパウロは二千年前の人です。しかし、これを語っているのは神ご自身です。神がパウロを通して語っているのであって、二千年の時を超えて神は、今、私たちに語っているのです。つまり、永遠の神は、人間性を自分の中に取り込んで、ユダヤ人の一人として生まれ、私たちの罪を滅ぼすために苦難の道を歩み、十字架の死を遂げられました。このことによって罪は贖われ、神との平和が成し遂げられたのです。
 しかも、そのことがゆるぎのない確かなことであることを宣言するために、神は十字架で死んだイエスを三日目に復活させて、この方を力ある神の御子と定められました。ですからこの方を信じて受け容れるならば、私たちはどんなことがあっても罪を問われることはなく、神の前に義しく生きることができる。そのようにパウロは語り、神は今私たちに語っているのです。
⦿次にパウロは、律法についても語っています。先月20日に「福音と律法に生きる」第1弾として、アブラハム契約と律法の関係をパウロから聞きました。<ところで、アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して「子孫たちとに」とは言われず、一人の人を指して「あなたの子孫とに」と言われています。この「子孫」とは、キリストのことです。……神によってあらかじめ結ばれた契約を、四百三十年後にできた律法が無効にして、その約束を反故にすることはない。>(ガラテヤ3:16~17)と語っています。
 つまり、モーセを通して律法が授けられたが、それより430年前に神が結んだアブラハム契約がその律法によって無効になることはないというのです。なぜなら、今や神がアブラハム契約で約束していた<子孫>であるキリストが来られたからです。それでは、イエス・キリストは律法を無効にしたのか。「断じてそうではない!」とパウロは語ります。彼は次のようなイエスの言葉を念頭に置いていました。それは、<私が来たのは律法を廃止するためではなく、律法を完成するためです>という言葉です。この言葉ほど律法を考えるときに大切な言葉はありません。
⦿<私は律法を完成するために来た>とイエスは言われました。それでは、いつ、どのようにして完成されたのでしょうか。彼は十字架にかけられたとき、<成し遂げられた>と言って息を引き取られました(ヨハネ19:30)。すなわちキリストは、全存在をかけて律法を完成させ、彼ご自身が完成された律法と成られたのです。
 このことはすでに旧約聖書で語られています。神はモーセに箱と石の板2枚を作り、それを持って山に登るように命じ、その石の板に十戒を刻み込むと、それを持って山を下り、箱の中に納めさせました(申命記10:1~5)。その箱が契約の箱であり、福音です。つまり、福音の中に律法があるのであって、律法のない福音はありえません。しかし、また福音のない律法はないのです。ですから、律法を知るには、まず福音を知らねばならず、その逆であってはなりません。まず福音が語られて、つぎに律法が聞かれるというこの順序は非常に大事です。
⦿もし初めに福音を示さないで律法を語るなら、それは神の律法ではなく人間の掟また世の中の物差しを基準にして語っているのです。新約聖書にファリサイ派の人々や律法学者が出てきます。彼らが主張しているのはそういう掟です。彼らが語っているのは、神がモーセを通して授けた律法ではなく、それを解釈して作り出した口伝律法でした。律法は本来人間を自由にします。しかし口伝律法は、「安息日には何㌔以上は歩いてはならない」など、さまざまな掟で人々を縛っていました。これを律法主義といいます。それでイエスは彼らと真正面から対立したのです。
 しかしそれは私たちにも見られるのではないかと思います。これまで何回か話したことのある話ですが、ある名門校に文科省の役人が視察に来ました。賢そうな生徒たちの勉強ぶりに感心した彼は、地球儀の近くに座っていた生徒に、「君、この地球儀はどうして傾いていると思うかい?」と聞きました。すると生徒はサッと立ち上がって、「ボクがしたんじゃありません!」と言いました。おどろいた彼は、担当の教師に聞くと、「初めからそうなっていました!」。ますますおどろいた役人は、校長室で校長に話をすると、すぐに事務長を呼んで、「だからあの業者から買うなと言っといたはずだ!」という笑い話ですが、人は何か言われると反射的にマイナスに反応し、命令形で聞き、自分を守ろうとします。だから普段からいつも頑張っています。頑張るといつかくたびれると落ち込み、自分を卑下して責める。優越感と劣等感の間を上がったり下がったりしています。そういう私たちの有様は、先ほどの律法主義と同じではないでしょうか。
⦿こういう現実にある私たち人間に、神はなぜ律法を授けたのでしょうか。神はイエス・キリストにおいて律法を完成させました。律法の完成者であるからこそ彼は、律法をその根本的な精神から語っています。例えば山上の説教において、<殺してはならない>という律法について彼は、<兄弟に「ばか」と言う者は、最高法院に引き渡される>と語っています。<あなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい><敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい>などの言葉も皆、律法の精神を根本から鋭く語っている言葉です。
 しかし、私たちはこれを守ることはできません。なぜか? それを聖書は罪のためと言います。私たちは罪のもとにあるから律法を守れないのです。否、そればかりか律法をゆがめて口伝律法にすり替えてしまうのです。しかし、律法は私たちが罪人であることを暴露します。これについてパウロは、<聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めました。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした>(ガラテヤ3:22)と語っています。つまり律法は、人間は罪人であるということを鋭く指摘します。それは、その人をキリストのもとへ導くためなのです。そして、キリストを信じるならば、その人をきよめていく、それが律法の働きです。律法を自ずから守ることが起こるのです。
⦿先ほどお読みしたⅠテサロニケ5:23~25はそのことを語っています。テサロニケという所は貿易が盛んで、大きなユダヤ教の会堂があり、ユダヤ人の力が強い所でした。しかし、道徳的に乱れていました。その原因は偶像崇拝にありました。パウロは第二次伝道旅行でそこを訪問し、教会を設立しました。ところが、教理全体を教える前にユダヤ人の強い抵抗と迫害に会い、終末論の学びを残したまま、そこを去らざるを得ませんでした。それで彼は、コリントにいる間にこの手紙を書いたのです。その内容は、終末論を体系的に扱っています。ですから、キリストの栄光をめざして信仰生活を歩んでいく指針が与えられる非常に重要な書簡です。
 終末とはキリストの再臨の時です。キリストは復活して一度来られました。これを初臨といい、再び来られることを再臨といいます。今は初臨と再臨の間の中間の時です。神はキリストの苦難の生涯と十字架の死において、すべてを成し遂げられました。しかし、成し遂げたことが完成するのは終末の時です。そのときキリストが再臨してすべてを完成します。私たちは、キリストを信じて歩んでいますが、初臨と再臨の間の時ですから完全ではありません。いつも誘惑があり、苦難があります。妬みや嫉み、裏切りや中傷、そして悪に陥ります。教会でも同じです。特に牧師は注意が必要です。<あなたがたのうち多くの者は、教師にならないがよい。私たち教師が、他の人たちよりも、もっときびしい裁きを受けることが、分かっています>(ヤコブ3:1)と聖書は語っています。私は「自分は偽牧師です。あのお方が本物です。イエスさまに目を向けてください」と言っています。こういう中で、しかし、パウロは希望をもって生きるようにと語っています。やがて完成するときが来ることを知っているからです。
⦿じつは、教会では義認のことがよく語られます。すなわち、イエス・キリストは、私たちの罪のために十字架に死んで罪を贖って下さいました。そのことを信じるならば神に義とされます。このことを信仰義認と言います。これについてパウロは、<ところが今や、律法とは関係なく、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です>と語っています(ローマ3:21~22)。律法の行ないではなく、信仰によって救われること、この信仰義認はとても大切なことです。
 しかし、そこで終ってはならないのです。信仰義認された者が何に向かって、どういう目標をもって生きるのでしょうか。パウロは、先ほどのⅠテサロニケ5:23で、<どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように>と祈っています。この<聖なる者となる>ことを聖化と言います。
きよめられること、神の律法が自ずから実践されていくことです。
⦿もちろん、聖化してくださるのは信仰義認してくださった平和の神ご自身です。
そしてパウロはつづけて、<あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守る>ようにと励ましています。パウロは、<霊と魂と体>と言うことで、人間が3つの構成要素からできているといった哲学や人間論を語っているのではありません。彼は、人間の全存在が聖化を目指して神に守られていくと言っているのです。そして、私たちをこの世から召し出した神は真実なお方だから、終末の時に聖化を完成させてくださる、とパウロは締めくくっています。
 クリスマスが近づいています。処女マリアはキリストの受胎を受けて、身内のエリサベトを訪問した時、<私の魂は…私の霊は>と心から讃え、歌っています。そのように、初代教会も新約聖書の全書巻も主の死と復活と昇天と聖霊降臨を想起し再臨を待望しています。私たちも福音と律法を正しく理解し、主が再び来られることを喜びをもって待ちたいと思います。

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