⦿12月は、大掃除や仕事納め、神社仏閣ではすす払いなど、一年を締めくくる時期とされ、何かと慌ただしさを感じることから師走と呼ぶこともあります。師が走り回るとは意味不明ですが、それはともかく、教会では、12月は走るのではなく、イエス・キリストの誕生を待つ時期ではないかと思います。今は教会以外の場所でもイルミネーションが飾られたり讃美歌が流れていますが、こういう時だからこそ、<死ぬ日は生まれる日にまさる。弔いの家に行くのは、宴会の家に行くのにまさる。そこには人みんなの終りがある。命ある者よ、心せよ。>という聖書の言葉が語られねばならないのではないかと思います。なぜなら、今から2千年前に誕生したイエス・キリストが、どんな人生を送ったのか。また彼のその生涯が、私たちにとってどんな意味があるのか、今のこの時こそ真剣に考える必要があると思うからです。
⦿イエス・キリストの生涯は4つの福音書に書かれていますが、著者とその読者、書いた目的によってそれぞれ書き方が違っています。そのためキリストの誕生物語も、マルコ福音書のように書いていないのもあれば、書いていてもマタイ、ルカ、ヨハネ福音書の内容はそれぞれ異なっています。今日はマタイ福音書のキリスト誕生物語を取り上げ、15日の礼拝でルカ福音書を取り上げる予定です。ただその前にヨハネ福音書について、少しふれておきたいと思います。
⦿この福音書は、<初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった>という書き出しで、キリストの誕生を語っています。これは、<初めに、神は天地を創造された>という聖書の最初の言葉(創世記1:1)と重ねているのです。そして、<神は言われた。「光あれ。」こうして光があった>(創世記1:3)とあるように、神は言葉で創造されています。それでヨハネ福音書は、キリストは天地創造の初めから神と共におられたお方であり、このお方が人間となってこの世界に来られた、と語っているのです。これを受肉と言います。<言葉は肉となって、私たちの間に宿られた>(ヨハネ1:14)とヨハネ福音書は書いています。
じつはこの福音書が書かれた紀元80~90年ころは、教会にギリシア的な霊魂不滅つまり肉体は死んでも霊魂は永遠に生きるという考えが入ってきていました。これは、キリストの人間性を否定する教えであって、結果的にはイエスの十字架の死を否定し、救いの福音を無力化する危険な動きがありました。そのためヨハネ福音書には論争する場面が多く出てきます。これは今の私たち日本における教会にも関わることですが、今日はマタイ福音書に戻ります。
⦿マタイ福音書は、元取税人マタイがユダヤ人たちに向けて書いたものです。キリストの誕生については1:18から紹介していますが、その前に長々と系図を書いています。カタカナばかりが並んでいるので、初めて読む人はうんざりします。新約聖書を初めて読む人には、むしろルカ福音書を勧めたいと思います。それはともかくとして、マタイが冒頭で系図を書いているのは、ユダヤ人向けに書いたからで、そこにはマタイの意図がよく表れています。
というのは、ユダヤ人の間には、ダビデ王のようなメシアを送るという神の約束が、早く実現してほしいという切実感が広がっていました。以前はギリシア人に支配され、今はローマ人に支配され、しかもファリサイ人や律法学者たちは神の言葉を歪めてしまっている。そういうことから、ユダヤ人社会には、メシアが来なければどうにもならないという切迫感が覆っていました。ユダヤ人であるマタイもそのことをよく知っていました。であればこそ彼は、イエスの誕生を語る前に、ユダヤ民族の始祖であるアブラハムと最大最高の王であるダビデの名前を挙げて、イエスこそまちがいなくその子孫であることを証明するために系図を書き出しているのです。
⦿じつは日本語の聖書は、<アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図>と書いています。たしかに歴史的に見れば、アブラハムの子孫がダビデで、その子孫がイエスですが、ユダヤ人にとって、それは常識であって今さら聞くまでもありません。しかし、マタイが言おうとしているのは、イエス・キリストこそダビデ王のようなメシアであるということでした。
ですから1:1の元々の原文は、<ダビデの子、アブラハムの子、イエス・キリストの系図>であって時系列的には書いていません。つまりマタイは、ダビデ王のようなキリストを送るという神の約束が、このイエスにおいて今こそ実現したのだと書いているのです。
⦿マタイは取税人としてまとめることに長けていました。イエス・キリストの系図も14代ごとにまとめて3つに区分し、<こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である>(1:17)と書いています。これは歴史書ではありません。
古代には数字がないので、アルファベットの文字で数を表わしていました。たとえば、日本語で言えば「あ」が1、「い」が2という具合にです。そこでヘブライ語のダ-ビ-デを数にすると4-6-4になります。そして4+6+4=14でダビデを現します。つまり14代による系図は、ダビデにおいて王権が成立し、バビロン捕囚で王権が喪失し、イエスにおいて真の王権が確立したと語っているわけです。このように意図的に系図を書いた後、誕生物語を書いたのです。
⦿誕生物語は2つに分けられています。前半は18~21節、後半は22~25節です。前半は夫ヨセフが結婚相手のマリアの妊娠を知って苦しみ、天使が現れ、聖霊による受胎であると告げられます。ヨセフもマリアも周りの人々も本当に苦しんだと思います。
ユダヤ人は、婚約の儀式が終った瞬間から結婚した夫婦と同様に見なされます。そして結婚まで一定の期間が置かれて、その間、会うことはなく互いに結婚の準備に取りかかります。もちろん婚前交渉などは考えられないことです。ですから、そのときにマリアが子供を宿したということはたいへんな出来事だったわけです。このように前半を書いた後、後半で、この出来事の意味を、マタイなりに解釈した内容として書いているのです。
⦿今日は、その後半から3つのことを取り上げたいと思います。①預言が実現したということ、②預言の内容がインマヌエルであること、③イエスと名付けられたことの3つです。
①<このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。>(22)…旧約聖書は、世界における神の計画の歴史を書いています。神は全人類の中からアブラハムを選び、その子孫からイスラエル民族を起こし、全人類の救いのわざを約束されました。そのことを、マタイは福音書によって示したのです。彼は旧約聖書を熟読していました。しかし、何と言ってもイエスに出会って、その教えを聞き、その奇跡のわざを目撃して、まさに神が預言していた通りのことが起こっていることを、驚きをもって書き留めました。
マタイは、イエスの出来事のすべてにわたって、<主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった>と繰り返しています。しかも、旧約聖書を非常に多く引用していて、旧約聖書と新約聖書をつなぐ架け橋のような内容になっています。マタイ福音書が、マルコ福音書よりも後に書かれていながらも新約聖書の最初に置かれているのはそのためです。
②つぎに<見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる>(23)という言葉は、イザヤ7:14の<…見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ>という言葉の引用ですが、この預言が実現しただけでなく、<この名は、「神は我々と共におられる」という意味である>とわざわざ書いているのは、それがどれほどに計り知れない神の愛と恵みをもった内容であるかを伝えようとしているからです。
つまり、男の介入を許さず、神ご自身が聖霊によって宿り、聖なる神が私たちと同じ卑しい肉の体となり、創造主なる神が被造物となり、永遠なる全能の神が限られた時間と空間に生きる死ぬべき存在となられました。それは敵意のみちたご自分の世界に来られたことを意味します。<言葉は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった>(ヨハネ1:11)とあるとおり、彼はわずか30才で、人々のねたみ、攻撃、侮辱によって十字架に殺されました。しかし、それは、インマヌエルのためでありました。旧約聖書において神は、<私はあなたがたの神となる>と何度も言われています。この約束を神は実現されたのでした。
③<ヨセフは…その子をイエスと名付けた>(25)とあります。ヨセフが名付けたのではなく、神から命じられて付けた名です。この名前はヘブライ語ではヨシュアと言います。ヨシュアは、かつてモーセが自分の従者ホシェアに名づけた名前です。名づけたときの状況は、イスラエルの民が荒野で40年過ごすことになる決定的なときでした。
モーセに率いられてエジプトから解放され、約束の地を目の前にしたとき、そこを偵察するために12人の使いが遣わされました。ところが帰ってくると10人がおびえて尻込みし、約束の地に向かうことを拒絶しました。しかしカレブとヨシュアの二人は断固として行くことを主張しました。結局、神の怒りにふれて、わずか11日で行ける所を40年間足止めされ、この二人を除いて全員が荒れ野で死に絶えました。ところが、そのとき幼少であった者や荒れ野で生まれた子供たちが成長し、その新しい世代がヨシュアに率いられて約束の地に入ることになりました。このことは、私たちの今の教会についても教えられるところです。
⦿その後、イスラエルの民を約束の地に導きいれたヨシュアの名はたいへん親しまれて、一般的な名前となりました。ですから、神はごくありふれたイエスという名前を付けたのです。私たちは皆、親からもらった大切な名前で生活しています。しかし、親からもらった名前ではなく通称名で生活せざるを得ない人も沢山います。その両者の関係の中に私たちはあります。
しかし、イエスは、生まれる前に、親からではなく神から名をもらっています。ですから、イエスという名は、神からもらった名にふさわしく、私たちに対する愛と恵みに満ち溢れており、その名を呼べば、預言者をとおして神が約束したインマヌエルを親しく実感することが許されます。ですから、私たちも、親からもらった名前も大切ですが、神の前には命の書があって、そこに自分の本当の名前が書いてあります。私たちは、その命の書に書いてある本当の名前で本当の命に生きることが約束されているのです。そのことを感謝したいと思います。
定例行事
- 聖日礼拝
- 毎週日曜日10:30~
- 教会学校(子供の礼拝)
- 毎週日曜日9:30~
- 祈祷会・聖書研究会(午前の部)
- 毎週水曜日10:30~
- 祈祷会・聖書研究会(夜の部)
- 毎週水曜日19:30~
その他の年中行事
- チャペルコンサート(創立記念)
- 毎年8月下旬
- チャペルコンサート(クリスマス)
- 毎年12月23日
- クリスマスイブキャンドルサービス
- 毎年12月24日夜