2024年12月15日 聖書:ルカによる福音書2章1~7節 アドヴェント(2) 川本良明牧師

⦿クリスマスとは、キリスト・マスつまりキリストの誕生を祝う祭りですが、今日は、夫のヨセフと妻のマリアが、キリストの誕生を迎えるまでに悩み苦しんだこと、そして大きな恵みと解放へと導かれたことを学びたいと思います。今やクリスマスは広く知られて、内容的にも少し理解されてきていますが、クリスマスが近づくと何かしら楽しくなるのは、イルミネーションやサンタクロースといった外面的なことではなく、クリスマスそのものから来ていると思います。
 それを自覚するしないは別にして、「暗闇を照らす光」とか「真の平和と喜びと愛をもたらすために神が世に来た」とか宮殿などではなく「家畜小屋で生まれそのエサ箱に寝かせられた幼な子」などの言葉からかもし出される香りによるのではないかと思うからです。
⦿4つの福音書でキリストの誕生を書いているマタイ、ルカ、ヨハネ福音書のうち前回はマタイ福音書を取り上げました。この福音書の最初に長々と系図が出てくるのは、著者マタイがユダヤ人であり、同胞向けに書いているためでした。ユダヤ人の間には、ダビデ王のようなメシアを待望する切迫感が広がっていました。ですからマタイは、イエスこそ待っていたメシアであることを証言するために系図から書き始めたのです。
 しかもダビデを表す14という数字で、系図を14代ごとにまとめて3つに区分し、最後に<こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である>と書いて、初めの14代はダビデにおいて王権が成立したが、次の14代でバビロン捕囚を招いて王権を失い、最後の14代でイエスにおいて真の王権が確立したと語っているわけです。
⦿この系図につづけて書いているイエス・キリストの誕生物語は、ルカ福音書と大きく異なります。ルカは妻のマリアを中心に書いているのに対して、マタイが夫のヨセフを中心に書いているのは、ヨセフと系図が深く関係しているからです。系図の第一区分はアブラハムから14代のダビデで終ります。このダビデは神から祝福されて驚くべき約束を受けました。
 それはダビデ契約といい、サムエル下7章12~16節に書かれていて、ダビデの子孫が代々王位を継いで、その子孫からメシアが生まれると約束され、子孫が過ちを犯しても鞭で懲らしめるが慈しみは取り去らないと神から約束されています。ところが、その後のユダ王国を見ると、偶像崇拝と神への背きがずっと続き、神から厳しい裁きを受けることになります。それが第二区分にあるソロモン~エコンヤの後に起こるバビロン捕囚です。
⦿ここでダビデの子孫からメシアが生まれるという約束が破棄されました。それは神が預言者エレミヤを通して告げているもので、エレミヤ22:24、30節にあります。つまりエコンヤからは子供は生まれず、彼の子孫からは、だれひとりユダを治める者は出ないと書かれています。ところがマタイの系図では、<エコンヤはシャルティエルをもうけ、シャルティエルはゼルバベルをもうけ…>とあって、エコンヤの子孫は続いていて、預言とは食い違っているように見えます。
 しかし系図の最後を見ると、それまでと書き方が変わっています。それまでどおりだと「ヤコブはヨセフを、ヨセフはイエスをもうけた」となるところを、<ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった>と書いています。つまりメシアはエコンヤの子孫であるヨセフからは生まれなかったのです。しかしヨセフの妻マリアが聖霊によってメシアを生むことで、アブラハムとダビデ契約は成就しているのです。
⦿以上のことからヨセフとマリアの関係を考えると、ダビデの子孫であるがゆえに二人は苦悩したと言えます。ルカ福音書には、<天使ガブリエルが、ガリラヤの町ナザレに住むダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされた>とあり、ヨセフがダビデの子孫であること、またマリアがヨセフとすでに婚約していたことが分かります。
 また天使はマリアに<あなたの親類のエリサベトも男の子を身ごもって6か月になっている>と告げています。そのエリサベトはレビ族なのでマリアもレビ族です。ヨセフはユダ族、マリアはレビ族、このように属する部族は違いますが、二人はガリラヤの町ナザレで会堂を中心とする共同体の中で生活しています。ですから二人は互いに知った間柄でした。
⦿そこでヨセフについて少し見てみます。彼は住民登録の命令に逆らわずに身重のマリアを連れてベツレヘムに行っています。また子供には生まれて八日目に割礼を受けさせ、イエスと命名し、またマリアの清めの期間が過ぎると律法に従ってエルサレムに上り、初めて生まれた子を主に献げています。さらに毎年家族を連れて過越祭を祝いにエルサレムに上っています。
 彼は父ヤコブの大工仕事を引き継ぎ、結婚して父親になってからもいつも律法に従うことを人生の最優先事項にしていました。それはユダヤ人家庭の一般的な姿であって、彼も父ヤコブのもとでそのように育ってきたのです。マタイ福音書も<彼は正しい人であった>と書いています。ヨセフと婚約したマリアは、そういう彼の人柄を既に知っていました。ユダヤ人は、婚約の儀式が終った瞬間から結婚した夫婦と同様に見なされ、結婚までの間、あまり会うことはなく互いに結婚の準備に取りかかります。それは結婚後の愛を育む期間でもありました。ですからマリアが正式な結婚式を挙げる前に子供を宿したということはたいへんな出来事でした。
⦿もちろん、彼女がヨセフに打ち明けていないとは考えられません。彼女は真剣に自分の妊娠の理由を告げたと思います。この後、マリアは遠くユダの山地のエリサベツのところに行き、3か月間も身を寄せています。二人の間でどんなやりとりがあったのでしょうか。マリアがいないナザレで、<ヨセフはマリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した>とマタイ福音書は書いています。律法を最優先する彼は、彼女を責めることはできず、かといって自分も彼女も世間からは何と言われるかと苦しんでいました。
 何日も何日もあれやこれや悶々と日を過ごしていた中で、ハッとして、目を天に向けるように導かれました。まさにそれこそが聖霊の働きでした。人の目を気にして心の中でいろんな悩みが渦巻いていたのですが、目を下から上に向け、部分から全体に心を広げたとき、彼は自分自身を謙虚に正しく見ることができました。夢で天使が呼びかけた<ダビデの子ヨセフよ>という言葉で、むしろ彼は、あのエレミヤの預言の言葉を気づかされました。キリストは自分の子としては生まれない、しかし、男の介入を許さないで聖霊によって妻マリアが身ごもり、家族の一人としてキリストを迎える恵みにあずかることを知ったとき、彼は解放され、遠くユダの地にいるマリアを思いました。もちろん彼女もまたそこでヨセフのことを祈って待っていたと思うのです。
⦿妊娠3か月の体でナザレに帰ってきたマリアはヨセフと再会しました。ここで思い出すのは山田洋次監督の「幸せの黄色いハンカチ」です。それはともかくとして、それから半年後に2人はベツレヘムに向かいました。それが先ほどお読みした聖書の個所です。医者で歴史家のルカが、ローマ皇帝やシリア総督の名前や住民登録を書いているのは、キリストの誕生が作り話や神話ではなく、明確に歴史的事実であることを証明するためです。
 マリアとヨセフは、二人とも聖霊によって新しい人間となり、イエス・キリストを迎える喜びと感謝に満たされて、平和な夫婦としてダビデの町ベツレヘムにやって来ました。そこには以前から住んでいた人も含めてダビデ王の子孫が全国各地から集まっていましたが、二人は真の王権をもたらすメシアを迎えるという思いと感情を実感していました。泊まる宿屋がなくても、家畜小屋でキリストを迎えることになっても、すべてを主にゆだねました。すべてが最善のことをなされる主の恵みの計画であることを感謝をもって受け入れていました。このことは、クリスマスを迎える私たちにも当てはまることではないでしょうか。

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