2024年12月22日 聖書:ヨハネによる福音書1章14節 アドヴェント(3) 川本良明牧師

⦿今はもうクリスマスという言葉を知らない人はいないと思います。しかし、多くの人はその起源を欧米の宗教であるキリスト教の祭りにあると思っていますが、クリスマスの起源は聖書にあります。ところがキリストの活動を書いている福音書のうちマタイ、マルコ、ルカ福音書は、キリストが生涯を終えて約25~30年後に書かれています。またヨハネ福音書は50年以上も後です。
 それにキリストは、公の活動を始める30才までは全く無名の人でした。また活動を始めてわずか3年足らずで犯罪者として十字架で殺されました。それなのにキリストの名は人々から忘れられるどころか、亡くなってから50年以上経っても、生き生きと福音書に書き残されています。
⦿キリストが今のパレスチナの北にあるガリラヤの町ナザレから、イエスという名の大工の姿で現われたとき、彼に出会った人々はひじょうな衝撃を受けました。というのは、当時のユダヤ人は皆、子どものときから聖書を学んでいたし、民族の言い伝えを守っていたからです。
 その中でも特に重要なのは、自分たちの信じる神は天地の創造主であり、偶像とちがって目に見えない神でありながらも、歴史の出来事の中で、また預言者を通してご自分を示されており、やがて自分たちの子孫からメシア(ギリシア語でキリストといいます)として来られるという約束でした。人々が衝撃を受けたのは、イエスの中に神のこの約束を見たからです。とりわけ彼から選ばれた弟子たちは、特別な使命を託されました。それはイエス・キリストの証言者になることでした。
⦿弟子として選ばれて3年間、彼らは真の神と真の人間が1つであるお方と直接交わりを持って、つぎつぎと驚くべきことを目撃しました。そういう体験をした人々は、人類の中で彼らだけです。そして、弟子たちがイエスの証人になっていく姿を、福音書はありのままに伝えています。
 すなわち、イエスが死刑の判決を受けて十字架に殺されたとき、彼らは恐れおののいていっせいに逃げました。しかしそれから3日後、復活したイエスが彼を捨てたことを恥じていた弟子たちの前に現われ、40日間、生活を共にした後、やがて<私はあなたがたを独りぼっちにしない。必ず戻って来る>と言って天に昇って行きました。そして神の右に着かれてから10日後、約束を待って祈っていた弟子たち一人ひとりに聖霊が降りました。そこで彼らは立ち上がって、集まってきた大勢の人々に、今までとまるでちがって大胆にイエスの死と復活を力強く証言しました。そうすると、なんと一度に3千人が洗礼を受けて教会が誕生しました。このように弟子たちは、イエスご自身によって真の証人となっていったのです。このことで思い起こすのは使徒パウロのことです。
⦿かつてパウロという人は、教会が誕生したとき、血まなこになって教会を迫害していました。ところが捕らえた信者たちが皆、キリストが復活したことを信じ、そのことを告白するのを聞き、また教会とキリスト者たちを迫害すればするほど信者がますます増えていくのを見たとき、彼は、彼らが告白しているように、もしかしたらキリストは復活しているのではないかと思いました。
 そうした矢先、突然、天から光が照って、彼は馬から落ちて目が見えなくなり、おろおろしていると声が聞こえました。<サウル、サウル、どうして私を苦しめるのか><主よ、あなたはどなたですか><あなたが迫害しているイエスだ>。それはまさに復活したキリストでした。こうして彼は、教会と共にまた信者と共に復活したキリストが生きていることを目の当たりにして、それまでの生き方を180度方向転換して、生涯、命を賭けてキリストの弟子となったのでした。
⦿私たちは過去→現在→未来という時間の流れの中で生きていますが、イエスが復活したとはどういうことかというと、イエスは私たちの時間を超えて生きておられるということです。ですからキリスト・イエスは、現在はもちろん過去においても未来においても生きておられるのです。私たちが生まれる前からおられたし、生まれたときもおられたし、それからずっと送ってきた人生においてもイエスは共に生きておられ、やがて死を迎えるときもイエスはそこにおられるのです。このように私たちの過去・現在・未来という時間を超えて、いつの時代にもイエスはおられるのです。
 ですからイエスがいなくなって何十年も経って福音書は書かれていますが、それは単なる伝承ではなくて、イエスご自身が聖霊として著者に働きかけて書かれているので、読む人々を目覚めさせ、真の神を知り、交わる者へと導かれます。それは新約聖書と旧約聖書についても同じです。
⦿ですから福音書は、キリストの十字架の死と復活と昇天と聖霊降臨という過去の出来事を振り返って書かれているのです。それはキリスト誕生物語についても同じです。クリスマスは2千年前に短い生涯を送ったイエスという人物の誕生を祝ってきた祭りではありません。彼の誕生は、神が預言者を通して預言されていました。また彼の生涯についてもじつに数多く預言されています。
 この点で世の宗教とは異なっています。イエス・キリストはキリスト教という宗教の教祖ではないのです。ですからキリストの誕生物語は、十字架に死んだイエス・キリスト、復活したイエス・キリスト、昇天したイエス・キリストを信じる初代教会及びキリスト者たちの信仰の結晶なのです。
⦿これまでマタイとルカ福音書を垣間見てきましたが、ふれることができなかった個所がいくつもあります。マタイでは、東方の博士たちのヘロデ王訪問やこの王に2才以下の男児が虐殺されたこと、ヨセフたちのエジプト逃亡などが書かれています。またルカでは、ベツレヘムで泊まる所がなかったこと、イエスが家畜小屋で生まれ、家畜のエサ箱に置かれたこと、野宿していた羊飼いたちに真っ先にキリスト誕生が告げられたこと、そしてマリアの賛歌などが書かれています。
 今紹介したすべてのことは、初代教会とキリスト者たちの一貫した態度を反映しているのです。つまり、彼らが置かれていた時代の中で聖書を読み、キリストの死と復活をふり返り、それを大胆に証言しながら生きていた信仰の告白なのです。ですから「泊まる場所がなかった」ということは、キリストが排除され、この世に来たのに誰も彼を受け容れなかったことを証言しているのです。このように誕生物語に書かれている一つひとつは、すべて当時の教会が置かれていた状況の中で、キリストの死と復活に希望を与えられながら告白していることから生まれた物語なのです。
⦿私たちもまたこの時代の中で、今、聖霊の力にあずかって、キリストの死と復活を証言しながら信仰の告白に生きることが求められています。今の時代において、私たちが「宿屋には泊まる場所がなかった」と証言するのはどういう時でしょうか。残念ながら今私たちも「泊めない」側の人間ではないでしょうか。例えば今外国人がたくさん来ていますが、在日の人たちは、4世、5世になっても未だに排除されています。「泊まる場所がない」のです。それは私たちが天皇制を支持しているからです。彼らは国籍を未だに認められていません。それは日本の国籍が血統主義だからです。血が混じることを否定してるからです。そのことを私たちは、全然気がつかないでいます。
 じつは、泊まる場所を与えられなかったイエス・キリストは、今や三百万を越える外国人の中におられるのではないでしょうか。この教会におられるのでしょうか。というひじょうに鋭い問いかけが、私たちにも向けられている、また迫られているのです。ですから、なおさらのこと、この時代の中で、聖霊の力にあずかって、キリストの死と復活を証言しながら、悔い改めつつ、「主よ、私たちのもとにも来てください。」と祈ることが求められているのではないかと思います。
⦿それはヨハネ福音書を読む場合でも同じであって、この福音書について少しふれたいと思います。著者は弟子のゼベダイの子ヨハネです。彼はすでに他の福音書に記録されているキリストの生涯の出来事について精通していました。しかし彼が福音書を書いたのは、新しい情報を書くことではなく、その出来事の意味を書くためでした。例えばパンと魚で5千人を養った出来事があります。他の福音書は「奇跡」と書いていますが、ヨハネは「しるし」と書いています。それは<私は命のパンである>と言われたイエスのしるしとして紹介しています。生まれつきの盲人の目を開けた奇跡も<私は世の光である>と言われたイエスのしるしであり、また死んで4日も経っていたラザロを、「ラザロよ、出てきなさい」と言って、墓から生き返らせたその奇跡の意味は何でしょうか。それは奇跡を起こす前に言われた<私は復活であり、命である>と言われたイエスのしるしなのです。
 つまりヨハネは、イエス・キリストが神の子であることを証言し、その福音書の中でキリストが行なったさまざまな奇跡をとおして「神の子のしるし」として紹介しているのです。
⦿ですからヨハネは、キリストの誕生をその意味から紹介しています。それが先ほどお読みした聖書の言葉です。<言は肉となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。>「宿られた」とはマリアに宿ったことを指しています。また「その栄光を見た」とは、イエスが3人の弟子を連れて高い山に登り、そこで見せた変貌の姿、それから十字架の死と復活と昇天の姿などを指しています。また「父の独り子」とはまさにイエス・キリストこそ天地創造主なる真の神の子であると言っています。「恵みと真理とに満ちていた」とは、溢れるばかりの慈しみと限りない憐れみと平安などを指しています。
 しかし、それらすべてのイエスの活動が何のためであったのか。その意味をヨハネは「言が肉となった」という言葉で表しているのです。ヨハネは福音書を<初めに言があった。言は神であった。…>という言葉で書き出しています。これは<初めに、神は天地を創造された。…神は言われた。「光あれ。」こうして光があった>という創世記1:1~3の言葉に重ねて書いているのです。
 私たち人間は、言葉を語った後に語ったことを行ないます。しかし、神は言葉と行いが一致しています。語れば出来事になるのです。「神は光あれと言われた。それから光が生じた」とは書いていません。「光あれ、こうして光があった」です。イエス・キリストも語れば同時に出来事が起こります。ですからキリストは神の言葉なのです。つまりキリストは、天地創造の初めから神と共におられた。そして神の計画のときが満ちて、人間となって世界に来られたと語っているのです。
⦿しかし、単に神が人間となったのではありません。そういう話は世界中に沢山あります。そうではなく、<言は肉となった>のです。肉とは、罪と悪にまみれた人間という意味です。神は罪深い肉と同じ姿で世に来られました。それは私たちから罪を取り除くためでした。そのためにキリストは、侮辱され、排斥され、挙句の果てには十字架にかけられ、人々からだけでなく神からも捨てられて死にました。このように、本来ならば私たちが捨てられなければならないのに、私たちのために、私たちに代わって苦しまれたことが<言は肉となった>ということです。しかし、それが神の永遠の昔から定めていた計画であったことを考えると、聖書はまさに神の歴史書です。
 旧約聖書の人々は、キリストの誕生を切に待ち望んで、預言者たちの預言が成就することを待望していました。それはイエスの誕生において実現しました。そして、彼は十字架に死に、復活し、さらに聖霊として降臨し、教会が誕生してキリスト者たちが集められるようになりました。
⦿ところで教会に呼び集められたキリスト者たちは、キリストの出来事を振り返りながらも何を待ち望むようになったのでしょうか。ちょうどイスラエルの人々が、アブラハムやモーセや先祖たちを振り返りながら、やがて神が約束を果たしてくれるキリストを切に待ち望んでいたと同じように、初代の教会とキリスト者たちは、キリストが再び来られることを切に待ち望むようになりました。
 ですからクリスマスを祝うのは、二千年前に起こったキリストの誕生を祝うだけでなく、また私たちの内に聖霊が宿って、聖霊として私たちの心にキリストを迎えるだけではなくて、キリストが再び来られるのを待つことではないかと思うのです。キリストの出来事を振り返りながら、今、私たちの内に聖霊としてキリストが宿ることを待ち望むだけではなく、再びキリストが終りの日に来られるのを待つことだと思うのです。ヨハネ福音書を書いたヨハネは、のちにヨハネ黙示録を書いています。その黙示録の最後の言葉22章20節を読んでキリストの誕生を心から賛美したいと思います。<以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、私はすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。>これが聖書の終わりの言葉です。私たちも、再びあのイエス・キリストが、そのままの姿で私たちの所に来られることを待ち望みながらクリスマスを祝いたいと願います。

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