2025年1月5日 聖書:ガラテヤの信徒への手紙2章19~20節「福音と律法に生きる(3)」川本良明牧師

⦿2025年という新しい年が始まり、これまでをふり返りながら、職場や家族や人間関係、勉強や新しい事業などで新しいことを始めている方もおられると思います。教会はクリスマスを新年の始まりとしていますが、どんなことを始めているでしょうか。教会では、聖書の言葉を選んで〔標語〕を掲げて新しい歩みを始めるのをよく見かけます。この宮田教会でも、5月の教会総会のときに新しい年間標語と年間聖句を決めて週報に載せ、新しい出発を始めているわけです。
 天地創造の初めに<神は言われた。「光あれ。」すると光があった>と聖書が伝えているように、神は言葉と行いが一致していて、語れば出来事になります。天地創造の初めから神と共におられたキリストも神の言葉であると私たちは信じています。そして、キリストの体である教会が掲げる標語は、単なるスローガンではなく、必ず神が実現することを信じて選んでいる神の言葉なのです。ですから教会が新しい出発をするにあたって、真剣に祈って標語を掲げることは大切なことです。
⦿教会について聖書は、普遍的教会と特殊的・個別的教会という2つの面から語っています。普遍的教会とは、復活したイエスが天に昇られた後、約束の聖霊として降ったペンテコステの出来事において誕生した教会のことです。また特殊的・個別的教会とは、地域に存在する教会のことです。しかし、普遍的教会は観念的で、地域に存在する教会は具体的であるということではありません。どちらも具体的です。普遍的教会もキリストを首(カシラ)とする地上的・歴史的な体だからです。
 1つの教会を2つの面から語っているのであって、それは、ちょうど人間で例えれば、人間は、地域や歴史や文化を背景にしており、個別的にも年令や性別や個性など様々な違いがあります。しかし、理性や感情や意志などを持った人間性としては共通しています。それは教会も同じです。
⦿聖書に出てくる具体的な教会として、コリントの教会とガラテヤの諸教会があります。これはどちらもパウロが伝道した結果生まれた教会です。教会が生まれると、彼はそこにしばらく滞在して、福音の教理を教えて教会の土台を据えます。それがいわば教会の普遍性の側面といえます。
 土台が据えられ、長老や執事などが立てられ、福音の真理に立って自主的に活動するようになると、彼は他の地方の伝道に向かいました。もちろん去った後も手紙や人を送って、ほめたり励ましたり警告したりして教会を見守り続けています。その手紙が聖書に収められてパウロ書簡とよばれています。その書簡のおかげで私たちは、教会の普遍性と個別性を知ることができるわけです。
⦿パウロはどの教会に対しても、教会の土台である福音の教理として、イエス・キリストの十字架の死と復活によってもたらされた福音の真理を語りました。そして、イエス・キリストを救い主であると受け容れ信じた信者たちには、福音と律法の関係を正しく教え、感謝と喜びに生きるように導きました。ところが彼が去った後、福音の真理を歪めていることを知ってひどく悲しみました。
 例えば、コリント教会は無律法に陥っていました。無律法というのは、罪の赦しがもたらす自由をはき違えて、「私には、すべてのことが許されている」といってふるまうのですが、それは自由ではなく放縦です。しかしパウロは、彼らを<キリスト・イエスによって召されて聖なる者とされた人々>と呼び、何度も<兄弟たち>と呼びかけています。個別的な地域の教会としては、いろんな問題が渦巻いているのですが、普遍的教会から見るならば、そこは聖徒の集まりなのです。
⦿これに対してガラテヤの諸教会は律法主義に陥っていました。事態はもっと深刻でした。なぜなら、それは普遍的教会そのものを破壊する危険性をもっていたからです。いわば信仰の基盤に関わることでした。そしてこのことはクリスチャンが最も陥りやすい危険性であって、きわめて現代的な問題であると言えます。結論からいうと、<信仰によってのみ救われる>という福音の真理を歪めて、救いに必要なのは信仰だけではなく、信仰以外にも必要なことがあると主張していました。
 彼らはユダヤ人クリスチャンたちで、救われるためには律法を守り、割礼を受けねばならないと勧めていました。それはユダヤ教に改宗することでした。特に迫害が強まると揺れ動いて、信仰だけでは救われないと言ってユダヤ教に戻ろうとするわけです。ですから彼らをユダヤ主義者と言い、またパリサイ派で本来の律法に解釈を加えた口伝律法を守る律法主義者でもありました。
⦿「救われるためには信仰以外にも必要なことがある」と主張する声を、今の私たちも聞くことがないでしょうか。例えば、「受洗しなければ救われない」とか「キリストに完全に従いますと告白しないと救われない」「教会に毎週礼拝に来る」「聖書を全部読み終える」「献金は忠実に行なう」などと、信仰以外のことを守らなければ救われないと思ったり言ったりしていないでしょうか。
 これらのことは大切なことですが、しかし、それは皆、救われた結果起こることです。救われた結果、自主的に礼拝を守ったり、献金したりすることが起こるのであって、救われることの条件ではありません。救われるのは<ただイエス・キリストを救い主と信じる>ことだけです。このことをパウロはローマ書でも語っています。しかしガラテヤ書ではまるで雰囲気が違います。彼が直接建てた教会が根底から破壊されようとしていることに、彼は憤っているのです。これは聖なる怒りと言ってもいいと思います。それほどに彼はガラテヤの教会を大切に思っていたのです。
⦿そこでパウロとガラテヤの教会の関係を少しふれておきたいと思います。彼は第1次伝道旅行でガラテヤ地方に行き、そこでピシディアのアンティオキヤ、イコニオン、リストラ、デルベに教会を設立しました(使徒13:4~14:27)。ところが彼が立ち去った後、ユダヤ主義者たちがその諸教会を訪問し、誤った教えを説いて回ったのです。それでパウロは聖なる怒りを燃え上がらせました。それは手紙の最初からみられます。1章6節に<キリストの恵みへ招いて下さった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、他の福音に乗り換えようとしていることに、私はあきれ果てています>とあります。「信仰のみで救われる」の真理に別の要素を付け加えるというのは、いろんな福音があって、その中のどれかを選び取ることではありません。それは異質な福音なのです。
 パウロは冒頭で、<人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされた>と語り、また1章12節で<私はこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです>とも語っています。彼が非常な権威で語っているのは、伝えた福音が信仰の土台をゆさぶる決定的な事柄であり、信仰生活そのものが壊されてしまうほどに厳粛な事柄であったからです。
⦿彼は1:8、9で2回も「呪われよ」と語っています。これはギリシャ語のアナテマ、ヘブル語のハラムで「聖絶する」という意味の言葉です。旧約聖書のヨシュア記にエリコの攻略が書かれています。このとき「町とその中にあるものは全て滅ぼし尽くせ」と神から命じられます。これが聖絶です。ところがアカンがその中の一部を盗み取ったため、次のアイの攻略のとき敗北します。嘆くヨシュアが神に祈るとアカンの罪に対する神の裁きだと分かり、アカンと家族が石打ちで処刑されました。このように他の福音を語る者に対して、パウロは最も強い言葉を使っています。しかもこの手紙には、ほめ言葉や感謝の言葉などが全くありません。それほどに彼は真剣でした。
 じつは中世のヨーロッパのキリスト教会が陥ったのはこのことでした。福音に福音以外のものが付け加えられていき、そのために教会は堕落していき、十字軍の遠征まで起こりました。それに対して起こったのが宗教改革でした。ルターがよりどころにしたのがガラテヤ書であったわけです。<信仰によってのみ救われる>という福音の真理に立って宗教改革は起こったのです。
⦿先ほど司会者がお読みしたガラテヤ2:19~20は、以上のような文脈において読む必要があります。彼は、<私は神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。私は、キリストと共に十字架につけられています>と語ります。本来の律法は、罪を容赦なく裁いて滅ぼす力を持っている神の言葉です。罪人の自分は律法で裁かれるべき者です。そのような私の代わりに律法によって裁かれたキリストへの信仰によって、自分も十字架に死んだと告白しています。
 そして彼は、<生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです>と語って、キリストが聖霊として内住して私を生かしておられると告白して、私が今生きているのは、私のために命を献げてくださったキリストへの信仰によると告白しているのです。
⦿<信仰によってのみ救われる>。これが福音の内容です。信仰とは何か。それは、神が罪深い肉と同じ姿で人間イエスとなって世に来られ、十字架にかかり、私たちの代わりにその肉において罪を罪として処罰されてくださった。そのことを信じて受け容れること、それが信仰です。では救われるとは何か。それは、もはや罪は問われず罪許されて、神に義と認められるということです。
 ここでたいへん重要なことを述べたいと思います。信仰によって神に義と認められて救われたということは、まことにゆるぎない真理です。けれども、これからはクリスチャンらしく成長していくために、つまり、きよめられていくために、頑張らなければいけないと考えることです。多くのクリスチャンが陥るのはこの過ちです。受洗してからしばらくは、生き生きしていますが、やがて信仰生活が苦しくなるのはこのためです。信仰によって義とされながら、あとは自分で頑張ってきよめられていこうとする。これは「信仰によってのみ生きる」ことでなくなっている姿です。
⦿義と認められることも、きよめられることも、すべて信仰によって与えられるのであって、これこそ信仰の根幹なのです。このことでガラテヤ5章19節以下を読みたいと思います。まず19節で、姦淫から酒宴まで15もの肉の業を羅列しているのは、救われて罪許された後、きよめられるために自分で頑張る人は、結局、罪から解放されないために身に招くことになると語るためです。次に22節で9つの御霊の実が書かれているのは、きよめられることを信じて主イエス・キリストを見上げて生きるとき、自ずから聖霊が実を結んでくださると語るためです。自分では気づかないけれども、いつのまにか変えられていく、これが信仰によってきよめられていくということです。
 では何もしなくていいのか。<信仰のみ>とは先ほど述べた無律法に生きることではありません。熱心に努力せねばなりませんが、頑張る内容が違います。常に信仰をもって聖霊を祈り求めることは必要なのです。ただし、信仰もイエスが創始者であり完成者であることを感謝したいと思います。
⦿私たちにとって新しい始まりとは何でしょうか。初めに語ったように職場や人間関係、家族のことや新しい事業、進学のことなど、すでにいろんなことを始めていることはとても大切ですが、だからこそ、神によって始めることが大事ではないでしょうか。そのためにも、下からではなく上から見、地上や人間からではなく天から、神から見るとき、広い所に招かれて解放されます。
 罪許されて、過去の罪は一切問われないという恵みに感謝しつつ、信仰によってのみ救われるという真理から片時も目を離さず、祈りつつ聖霊の実にあずかる道を歩んでいくとき、神さまが本当のクリスチャンに成長していく実を結んでくださいます。例えば、御霊の実の1つに、誰もが求める平和があります。平和には、神との平和、隣人との平和、自分との平和の3つがあります。そして信仰によって神と平和になると同時に隣人とも自分とも平和になります。これが聖霊の業です。もし3つのうちの1つだけ平和になり、他の2つは平和でないなら、それは肉の業です。
 御霊の実は、あの9つ以外にも忍耐、希望など沢山あります。この1年間、肉の業に頑張るのではなく、信仰をもって祈りつつ、聖霊の実にあずかって自ずから変えられていく道を共に歩んで、かき集める伝道ではなく、かき集まる伝道をめざしていきたいと願っています。

聖書のお話