⦿これまで「福音と律法に生きる」を3回語ってきました。一回目は、福音と律法の順序について、まず初めに律法を語って罪を自覚させ、その後、福音を語るのではなく、まず福音を語った後、律法を示すことが正しい順序であると語りました。なぜなら、律法は単なる掟ではなく神の言葉です。契約の箱の中に十戒が納められていたように(申命記31:26)、律法は、ふさわしい所に置かれれば、福音に生きる者を神の子に成長させる力だからです。
二回目は、福音と福音の内容についてでした。イエス・キリストご自身が福音であり、その内容は、このお方の十字架の死と復活によって成し遂げられた新しい契約です。それは、神の御子の業であり、父なる神と一体であるので、2千年の時間を超えて現在の私たちのための福音であることを知りました。そして、イエス・キリストの十字架の死と復活によって、罪が贖われ、きよめられることを認め、信じて受け入れる人は皆、神に喜んで迎えられ、差別なく神の子とされ、永遠の命に生きることができることを学びました。
⦿3回目は、ガラテヤ書を通して、<信仰によってのみ救われる>という福音の真理を学びました。使徒パウロは、イエス・キリストの十字架の死と復活を伝え、このお方を救い主と信じる信仰を告白した人々によって教会を建てました。福音と律法の関係を正しく教えて教会の土台を据えると、次の伝道地に向かいました。もちろん去った後も、手紙や人を送って教会を見守り続けたのですが、彼は福音の真理が歪められていることを知りました。それは福音と律法の関係に関するもので、そのため彼は、福音の正しい教理を語って、福音の真理に立ち返るように勧めました。
⦿福音の真理が歪められた例の1つに、律法そのものを否定する無律法がありました。福音が語る罪からの解放の意味を取りちがえて、「私には、すべてのことが許されている」といって放縦に振る舞うのは、神の言葉である律法をあなどっています。コリント教会は、無律法のためにさまざまな混乱を招いていました。
今一つの例は、ユダヤ主義者・律法主義者たちの主張です。彼らは、<信仰によってのみ救われる>という真理を歪めて、救われるためには信仰以外にも必要なことがあると主張していました。彼らはユダヤ人キリスト者たちであり、救われるためには律法を守り、割礼を受けることが必要と言うのですが、要するにユダヤ教に改宗するように勧めていたのです。
⦿<信仰によってのみ救われる>ことは福音の真理ですが、私たちを信仰へと導くのは何でしょうか。それは聖霊です。そして聖霊とはイエスの霊です。彼は復活して天に昇り、10日後に聖霊として弟子たちに降りました。そこから教会が始まったのですが、この聖霊がイエスの霊であって、私たちを信仰へと導いて下さるのです。
パウロは、聖霊の働きについて、<神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によって私たちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです>(ローマ8:14~15)と語っています。私たちは、聖霊によって信仰へと導かれ、その信仰によって神から義(良し)と認められるのです。
義とされた私たちは、後は自分で努力してクリスチャンらしく成長しなさいと放置されているのではありません。なぜなら、聖霊が内住しておられるからです。そして聖霊は、神の子として私たちを成長させ、ふさわしい実を結んでくださるのです。これこそが福音なのです。
⦿「福音と律法に生きる」を説教題とする四回目の今日は、律法の働きについて考えたいと思います。先ほどお読みした聖書の言葉は、<信仰が現れる前には、私たちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、私たちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。私たちが信仰によって義とされるためです。しかし、信仰が現れたので、もはや、私たちはこのような養育係の下にはいません。あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。>(ガラテヤ3:23~26)でした。
<信仰が現れる前>とか<信仰が啓示されるようになるまで>とある「信仰」をイエス・キリストに置き換えて読むと分かりやすいし、また、私たちがキリストに出会って信仰を告白するまでの苦しみが、じつは神が律法によって私たちの罪を告発し、裁くための愛のわざであることが分かります。<律法は、私たちをキリストのもとへ導く養育係>の働きをする神の聖なる掟なのです。この信仰に至る前の律法を、聖書は「罪と死の律法」と呼んでいます。
⦿そして、自分の罪を悔改め、イエス・キリストを救い主と信じるとき、その信仰によって神に義とされ、救われます。ですから、養育係の律法によってキリストのもとへ導かれることも、信仰を告白するに至ることも皆、聖霊よって導かれているのです。そしてこの後、聖霊は、律法を用いてキリスト者を神の子にふさわしく成長させてくださいます。
このことについて使徒パウロは、<人を愛する者は、律法を全うしているのです。…愛は律法を全うするものです>(ローマ13:8、10)と語り、さらに<キリスト・イエスによって命をもたらす霊の律法>(同8:2)と語っています。つまり聖霊は、愛と命をもたらす働きとして律法を用いられるのです。それは先ほどガラテヤ書をお読みした最後の言葉<あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです>(ガラテヤ3:26)と同じではないでしょうか。
⦿このように、律法は、聖霊によって2つの働きに用いられます。1つは、「罪と死の律法」としての働きです。この律法は、人の罪を告発し、裁き、殺します。つまりキリストの十字架の死にあずからせます。これは、キリストのもとへ導く養育係として働く律法です。
もう1つは、「命をもたらす霊の律法」としての働きです。この律法によって、人は神の子として成長し、自分を裁き、責め、卑下している自分自身と平和になり、神と隣人とを愛し、復活した人間イエスの似姿に変えられます。
この2つ面をパウロは、<今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の律法が、罪と死との律法からあなたを解放したからです>(ローマ8:1~2)と語っています。
⦿<福音と律法>の関係を考えるのに、なぜ『コヘレトの言葉』を取り上げるのか疑問に感じた方もおられると思います。じつは旧約聖書の中でこの書巻は、律法と同じようにキリストのもとへ導く養育係であるからです。そこで少しこの書を見てみたいと思います。この書は無神論者にたいへん有名です。とくに啓蒙主義者であるヴォルテールは『コヘレトの言葉』大好きです。
著者は<エルサレムの王、ダビデの子>(1:1)とあり、ソロモン王です。彼は、若い時に恋の歌『雅歌』を書き、壮年の時に『箴言』を書き、老年になってこの書を書きました。書名は、以前は『伝道の書』でしたが、内容としては伝道とは言えないので、今は『伝道者の書』とか『コヘレトの言葉』となっています。しかし、コヘレトは「集会を集める人」という意味の言葉であって、固有名詞にするのは無理があります。つまり、結論から言えば、この書の内容からして、ソロモンが神を抜きにして、哲学者として人生を探求した『哲学者の言葉』です。
周知のようにソロモンは、知恵と富と地位に恵まれ好男子でした。その桁違いの知恵と金と地位と美貌を駆使して人生を探求した彼は、神を抜きにして、人間の知恵だけで満足した人生を求めようとすることの愚かさと虚しさを教えるためにこの書を書き残したと言えます。
⦿しかし彼は、人生を探求している間も神を信じていました。なぜなら「神」という言葉が49回も出てくるからです。ところがその「神」は、すべて「創造主(エローヒーム)」であって「契約の主なる神(ヤハウェ)」は一度も出てきません。自然界を見て天地創造の神の存在を語る人がいます。これを一般啓示と言い、創造主の存在を一般啓示から認識することはできます。
しかし聖書の神は契約の神です。たしかに聖書は、神が初めに天地を創造したと書いていますが、それは契約に基づいて天地を創造しているのです。この神の存在は、一般啓示ではわかりません。これを特別啓示と言い、契約の神は特別の啓示によらなければ認識することはできません。パウロはガラテヤ1:12で、<私はこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです>と語っています。
神は人間イエスとなってご自分を示されました。これが特別啓示です。契約の主なる神ヤハウェは6828回も聖書に出てきます。この神を信じるということは、その契約を必ず神が成し遂げてくださるという救いを信じるということなのです。
⦿この書の12章の初めでソロモンは、<あなたの若い日に、あなたの創造者(エロヒーム)を覚えよ。苦しみの日々が来ないうちに、また「私には何の楽しみもない」という年令が近づく前に>と語った後、私たちが死という現実に置かれていることを詳しく述べています。このようにソロモンは、創造主である神の存在は知っており、そのレベルで人生を探求し論じてきました。
そして先ほどお読みした聖書の言葉です。<すべてに耳を傾けて得た結論。「神(エロヒーム)を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて。神は、善をも悪をも、一切の業を、隠れたこともすべて、裁きの座に引き出されるであろう>。この「裁きの座」は、終りの日のことではありません。私たちが生活している現実を指しているのです。
⦿ソロモンの信仰は、ヤハウェなる神への信仰ではありません。彼は、神を抜きにして人生を探求したのです。ですからこの書の中には、「空(くう)」という言葉が37回も出てきます。神抜きの人生がいかに空しいものであるかということです。今一つ繰り返しているのは<太陽の下で>という言葉で29回も出てきます。つまり彼は、地上の生活と体験に限って語っているのであって、死後の命や世界のことを考えないで語っているのです。
しかし私たちは『コヘレトの言葉』の内容ではなくて、この世界は、神の契約に基づいて創造されており、すべては良いものとして創造されていることを、聖書を通して知っています。虚しいのでも空でもない。この世界は神によって良いものとして創造されている。人生には意味があり、目的がある。私たちは、無意味なものとして、偶然の産物として生きているのではないのです。
そして、神ご自身が人間をご自分のものとされて、その十字架の死によって罪を滅ぼし、復活して、信仰によって救われた者を神の子とし、永遠の命を約束して、世の終りの日にすべての人が復活させられることを約束しておられます。ソロモンは、この神を抜きにした人生は、すべてが虚しいと語りました。しかし私たちは、<自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、なんの得があろうか>(マタイ16:25~26)と言われたキリストに、聖霊をとおして出会い、人生の本当の意味と希望を与えられていることを心から感謝したいと思います。
定例行事
- 聖日礼拝
- 毎週日曜日10:30~
- 教会学校(子供の礼拝)
- 毎週日曜日9:30~
- 祈祷会・聖書研究会(午前の部)
- 毎週水曜日10:30~
- 祈祷会・聖書研究会(夜の部)
- 毎週水曜日19:30~
その他の年中行事
- チャペルコンサート(創立記念)
- 毎年8月下旬
- チャペルコンサート(クリスマス)
- 毎年12月23日
- クリスマスイブキャンドルサービス
- 毎年12月24日夜