⦿ただいまお読みしたヤコブの手紙は、生前のイエスと一緒に育ったイエスの実の弟ヤコブが書いたものです。彼は自分の兄を救い主と信じるのは難しかったと思います。しかし、人々がイエスを捕まえ、十字架にかけて処刑したとき、そのことに怒ると同時に一家に降りかかる危険を感じ、身の振り方を迫られました。その彼が、イエスが死人の中から復活したことを聞いたとき、本当にどんな思いだったのか想像もつきません。
彼は兄のイエスが村から出た後、おどろくような活動をするのを見たり聞いたりしても、やはり自分のよく知っている兄でした。ところが彼の十字架の死に直面し、さらに彼が復活したことを知ったとき、ヤコブはイエスに対する見方や思いがまったく一変しました。というよりも彼は霊的に死にました。そして、イエスが天地の造り主であるいと高き神の子であり、神が約束されていたメシアであり、救い主であることを知ったのでした。
⦿使徒パウロがコリントの教会に宛てた手紙の中で、イエスが死んで葬られ、三日目に復活したことを述べた後、<ペトロに現れ、その後十二人に現れ、次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、私にも現れました。>と書いています。ヤコブはイエスの復活を聞いただけでなく、直接復活のイエスに出会ったのです。
やがてエルサレム教会を指導するようになり、大祭司に捕らえられ、石打ちの刑で死んだと言われているように、彼は、復活のイエスに出会って、彼のこれまでの世界観も歴史観も根柢から変えられ、聖書の世界観と歴史観とまったく一つになったと思われます。
⦿この世界は天地の造り主である神によって、本来すばらしいものとして造られました。しかし、そのことは創世記の初めのわずか2章にしか書かれていません。人間は神の戒めを破りました。そのために神の名は汚され、自然界も人間界も一人ひとりの人間も、神から与えられた栄光を失い、堕落と悲惨の現実を招いてしまっていることは、私たちが見ている通りです。
しかし、神は、そのような世界と人間を見て、全人類の中から一人の人物アブラハムを選んで、人類を救うための契約を結ばれました。そして神は、アブラハムを神に選ばれた人間に相応しく成長させていきます。彼は何度も失敗しますが、神はそのたびに彼を愛し、成長させて、やがて子供の産めない妻によってイサクという子供を授け、その子孫からユダヤ民族を興されました。
さらに神は、ユダヤ人の一人として救い主を世界に遣わすことを約束されました。しかし、ユダヤ民族もまた何度も契約を破りました。ところが、たとえ救いの計画がどんなに妨げられようとも、神は約束を破ることはなく、イエス・キリストとして来られ、その苦難の死と復活と昇天と聖霊の降臨によって、ユダヤ民族が果たすべき使命を神ご自身が果たし、その終わりの完成に向かって今も働いておられのです。これが聖書の語る世界観であり歴史観です。
⦿復活のイエスに出会って、この聖書の世界観と歴史観を知ったヤコブは、20年以上も家族の一人として最も身近に聞いてきた生前のイエスの御言葉が、あらためて生き生きと聞こえて来るようになったのでした。そのことは、この手紙の至るところで見ることができます。
たとえば1章2節で、<私の兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい>と書いていますが、この言葉は、<私のためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。>(マタイ5:11~12)と語られたイエスの言葉が響いてきます。
⦿ところで、この手紙はわずか5章ですが、それぞれの章でとても大切なことを語っています。第1章では試練の意味を語っています。試練は外からと内からの2つがあります。2節からは外からの試練を、内からの試練は誘惑として12節から述べていますが、どちらの試練に対しても忍耐するように勧めています。そして忍耐することの目標を、4節では<完全で申し分なく、何ひとつ欠けたところのない人になります>と語り、12節では<その人は本物と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです>と語っています。
試練は辛いことです。自分のからだのこと、職場での人間関係のこと、家族のこと、自分自身の内側から来る誘惑など、いろんな試練がありますが、しかし、忍耐する人には、完全な人間性が約束され、命の冠が与えられます、だから喜びなさい、とヤコブは語っています。そしてこの言葉からもあのイエスの山上の説教が響いてきます。<だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5:48)。
⦿当時、迫害を逃れてエルサレム教会を離れたユダヤ人クリスチャンたちが各地に散らばっていました。ヤコブは指導者の一人として教会に残っていました。そして、散っていった彼らが、試練に耐えられずにユダヤ教に戻ろうとしていることを知り、手紙を送り、彼らを励まし、慰め、忍耐を勧めているのです。
ユダヤ教の指導者たちであるファリサイ派や律法主義者たちは、学問を身につけていて、神の言葉にも精通していました。しかし彼らは、本来の律法よりも口伝律法を優先していました。そのため一般の民衆は、ユダヤ人として生きる意味を見失い、不安と無力感に打ちひしがれていました。そこにイエスが現れて、<疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私のもとに来なさい。>と呼びかける一方で、神の言葉を無力な言葉にすり替えているユダヤ教の指導者たちを激しく攻撃しました。そこで一般の民衆の中からイエス・キリストをメシアと信じる人が増えていきました。それがユダヤ人クリスチャンです。その彼らが再びユダヤ教に戻ろうとしていることを知って、ヤコブはイエスと同じ思いを抱いていたのです。
⦿ヤコブは手紙の中で、<行ないの伴わない信仰は、何の役にも立ちません。死んだも同然です>と繰り返し語っています。これは、イエス・キリストを救い主として信じるならば、当然行ないが伴うはずだと言っているのです。そして、ヤコブが言っている「行ない」とは、本来の律法に生きることです。本来の律法とは、<キリストの律法>とか<命の律法>とか<愛の律法>と呼んでいるもので、キリストを信じ、内住する聖霊が働いて結ぶ聖霊の実のことです。
ところが、ユダヤ教に戻ろうとしているユダヤクリスチャンたちは、イエスを救い主と信じる者となったのに、たいへんな過ちに陥ろうとしていました。なぜなら、ユダヤ教は、「律法を行なうことによって救われる」と教えているからです。救われるのは、イエス・キリストを救い主として信じる信仰によってであって、律法の行ないによってではありません、しかし、彼らはクリスチャンらしく成長していくために頑張らなければいけないと考え、再びユダヤ教に戻ろうとしていたわけです。キリストを救い主と信じて救われながら、キリストを信じないで、自分で頑張ろうとする危険に陥っていると、ヤコブは警告しているのです。
⦿これは私たちクリスチャンも陥りやすいことです。イエス・キリストを信じる信仰に入って喜び、さあこれからは熱心に信仰生活を送ろうと決心して、クリスチャンらしくなろうと頑張るわけです。そこに落とし穴があるのです。クリスチャンらしくなるのもイエスさまがして下さるのです。イエスを信じたと同じように、そのことも信じていくことが求められているのです。本来の律法に生きることが求められているのです。
つまり、罪を犯したとき、失敗したとき、素直に神に告白し、悔い改めて、私はこんな人間です。どうか助けて下さいと願うと、私たちの内にある聖霊が受け止めて下さって、とりなして下さって、私たちの内に働いて、気がついたら、私たちは愛する者、喜ぶ者、平和に生きる者になり、人に寛容になり、親切になり、善意を尽くし、誠実に、柔和に、忍耐、謙遜など、神が完全であるように完全な人間性になっていく。これが聖霊の働きであり、ヤコブが語る行ないです。
⦿行ないの伴う信仰生活とは、いつも聖霊に助けを求めていき、聖霊の力にあずかるとき、神の前に完全な人間性を持った人間として生活することです。そのときに人間関係や自分自身の苦しみや、経済的問題や教育や親子関係などいろんな事柄が、気がついたらいつの間にか平和な人間となり、喜びを持つ人間となる、そのことをヤコブは言っているのです。
つまり、信仰によって救われるだけでなく、聖められること、これを聖化と言います。教派によっては、新生と聖化と言っています。イエスを救い主と信じるとき、イエスと共に十字架に死に、イエスと共に復活する、これを新生と言い、さらに本来の律法に生きることで聖められていく、これが聖化です。ヤコブが言う「行ない」とは聖化のことです。聖霊が結んで下さる<神のかたち>としての新しい人間性なのです。
⦿先ほど、ヤコブがイエスを救い主と信じてから、イエスの言葉が生き生きと身近に聞こえるようになったと言いましたが、イエスが救い主であると信じる私たちも、御言葉が生き生きと聞こえる者となるように求められています。このことで忘れられないことを紹介します。
学校の教師になって数年経ったころ、先輩の教師が私を誘って案内してくれた所は、被差別部落の集会所でした。そこには部落のおばちゃんたちが何人かいて、小学校の先生が字を教えていました。彼女たちは、子供のとき学校に行けず、字が読めず書けなかったのです。いわゆる識字学級で、始めてからもう9年になると言っていました。そこで先生が私に一人の方が書いた3つの作文を見せてくれました。
1つ目は、習い始めて3年目の作文でした。筆痕が強かったのをおぼえています。たどたどしく、自分の受けた差別のつらさ、苦しさ、悔しさ、悲しさの思いのたけを、1字1字、力を込めて書いていました。
それから何年か経った2つ目の作文は、なぜ自分があんな辛い目にあったのか、その理由を書いていました。「父ちゃんが酒ばかり飲んで母ちゃんを叩いていた。学校の先生も差別のかたまりだった。親が悪い、社会が悪い、先生が悪い、世の中が悪い」と書いていました。
3つ目の作文を読んだとき、私は本当におどろきました。そこには、「父ちゃん、つらかったやろなあ、父ちゃんは自分よりもっとひどい差別を受けとったんやなあ」と書いていました。そして、「だけど、差別に負けとったのや、酒に逃げ、自分より弱い母ちゃんをいじめとった。差別から逃げとったんや」と書いていました。
9年間の識字学級の中で、彼女が、広く、温かく、自分に厳しい人間にみごとに変えられていっているのを見て、本当におどろいたのです。
⦿この3つの作文を紹介したのは、「人間は、神のかたちに造られている」ことを考えるためです。神はこの世界をすばらしいものとして造られたと聖書は語っています。けれども、それは創世記の初めのわずか2章しか書かれていません。後は、人間が罪を犯したためにめちゃくちゃになってしまいましたが、それを救おうとされる神の歴史が書かれています。
人間が罪を犯す前のことは、わずかしか書かれていないのですが、その中で人間が造られたことが書かれています。<神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された>(創世記1:26~27)。「神のかたち」が人間の特徴であって、私たちの内側には「神と交流できる何か」があるのです。つまり、人間は神ではありませんが、本来人間は、人間イエスと同じ人間性として造られているのです。それが「神のかたち」なのです。
⦿先ほど被差別部落の婦人の作文を紹介したのは、文字をおぼえることによって、人間が広く、温かく、自分に厳しくなっていく姿の中に、言葉の力が持っているすごさを見るからです。子供のときに学校に行けなくて、字が読めず、書けないで育ってきたその方が、一生懸命9年間かかって、字を学び、その字によって人間が変えられていった姿を見ました。まして私たちは、主の御言葉を聞いています。イエス・キリストをとおして主の言葉を聞いています。その私たちが、神の言葉であるイエス・キリストを自分の命に関わる言葉として聞いているだろうかと思うのです。
いや、それだけではありません。もしもあの被差別部落のおばちゃんにイエスの言葉が伝えられたならば、私たちよりもまず彼女が御言葉を受け入れ、力強く生きる者となると思うのです。イエスが語った、<後の者が先になり、先にいる者が後になる>(マタイ20:16)という言葉どおり、私たちもそのようにならないために、主の御言葉を宣べ伝える者となりたいと思うわけです。先ほど歌った賛美歌579番の2「主ともに在せば、つきぬさちは、きよき河のごと、湧きてながる」。これはあのおばちゃんがイエスの言葉を聞き、救われたならば、心の中であふれるばかりの清い水がわき出て流れることが起こると信じるのです。そして私たちは、さらに4の歌詞は、今日の聖化のことを歌っています。「つゆほどの功の あらぬ身をも 潔めてみくにの世継となし 輝く幕屋に住ませたもう」。私たちはイエス・キリストを信じる信仰によって生かされていますが、さらに私たちは潔められて、御国の世継ぎとされて、輝く幕屋に住む者とされる、じつに「わが主の愛こそかぎりなけれ」、心から神に感謝したいと思うのです。
定例行事
- 聖日礼拝
- 毎週日曜日10:30~
- 教会学校(子供の礼拝)
- 毎週日曜日9:30~
- 祈祷会・聖書研究会(午前の部)
- 毎週水曜日10:30~
- 祈祷会・聖書研究会(夜の部)
- 毎週水曜日19:30~
その他の年中行事
- チャペルコンサート(創立記念)
- 毎年8月下旬
- チャペルコンサート(クリスマス)
- 毎年12月23日
- クリスマスイブキャンドルサービス
- 毎年12月24日夜