2025年3月16日 聖書:ヤコブの手紙1章19~21節「信仰義認と聖化に生きる」川本良明牧師 

⦿今から二千年前、天地創造の永遠の神の御子は、神の身分でありながら、身を低くされて僕の身分となって、人間の姿で現れました。このお方がイエス・キリストです。天地を創造された神は、ご自分の御子を世に遣わし、人間と共にあろうとされたのです。ところが人間は彼を苦しめ、憎み、挙げ句の果てに十字架につけて殺してしまったのです。
 しかしそれは、私たち人間の罪を取り除くために、世の初めから神が計画されていたことでした。イエス・キリストは、罪深い私たちと同じ姿の人間イエスとして世に遣わされました。そして、神と一つでありながら、へりくだって人々に仕え、苦難の道を歩まれ、十字架の死に至るまで神に従順でありました。
⦿その十字架の上でキリストは、神に向かって「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになられるのですか!」と叫びました。それは「神に捨てられる人間」の叫びであります。本当ならば、神に背き、無関心で、堕落と悲惨な現実を招いている私たちこそ神に捨てられるべき者ではないだろうかと思うのです。
 ところがキリストは、私たちに代わって、叫びながら神に捨てられていったことで、私たちがどれほどに危険なところに生きているかということを神は示されたのです。そして神は、十字架に死に、墓に葬られたキリストを3日目に復活させることで、キリストの十字架の死によって、私たちの罪は裁かれ、罪が完全に贖われたことを世に向かって宣言されました。
 私たちの叫びを、私たちの代わりに神に向かって叫んでおられるイエス。それほどまでに人間を愛する神を、自分の救い主と信じるならば、神は喜んで受け入れ、義と認めてくださいます。これを一言で言えば、信仰義認と言います。
⦿しかし「罪が裁かれた」と言われても罪を感じないし、罪を犯していないのに罪が贖われたと言われてもピンとこないという人がいるのは当然だと思います。一般に罪と言えば、法律や道徳といった社会的なきまりに反した行ないを言います。しかし、罪は、相手がいなければ何にも起こりません。罪というのは、必ず罪を犯す相手がいます。ですから、神が人間となってこられたのは、人間の罪を暴露するためです。
 イエスは、<私は世の光である>と言われました。この人間イエスの光に照らされたとき、私たちは、神に対しても隣人に対しても自分自身に対しても、正しい関係を失っている人間であることを暴露されます。
 この私たちの罪を、不治の病とか死に至る病と言った人がいます。不治の病とは、死ぬ以外には治らない。死んだら治る。死ぬ以外にそれからは解放されない罪に私たちは生きているのです。死んだら終わりなのですが、死ぬしかない。その私たちに代わって、イエスがその私たちの罪を背負って、代わりに死んで下さって、罪を滅ぼし、からだの魂としての本来の人間性を回復して下さったのです。
⦿人は皆、人生をふり返るとき、山のように積み重ねてきた罪で泥まみれの足跡を見るのではないでしょうか。こんな私たちを神は、なにゆえにあれほどの犠牲を払って、罪から救おうとされるのだろうかと思うのです。それははっきりしています。ただただ私たちが神にそのことを感謝し、その愛に応えることを望んでおられるからです。
 ですから私たちは、神に感謝し、この神の愛に応えて、キリストを救い主と信じて喜び、洗礼を受けて信仰生活を始めることを求められているのですが、どっこい、洗礼を受けて信仰生活を始めるときに、罪の落とし穴があることを気をつけねばなりません。
 それはクリスチャンらしくなろうと頑張るということです。「神さま、感謝します。あなたから愛されていることを心から感謝し、だから私はあなたを信じて頑張ります。……」これは信仰ではなく、自分の努力で神に義とされようとする落とし穴です。私たちは、イエスを信じて洗礼受け、新しく生きるように導かれたと同じように、クリスチャンらしくなるのもイエスさまが導いて下さるという信仰が求められているのです。
⦿先ほどヤコブの手紙をお読みしましたが、この手紙の中でヤコブは、始めから終わりまで繰返しそのことを語っています。彼は、同じ母マリアから生まれたイエスの実の弟で、20年以上もイエスと生活を共にした人です。彼は手紙の最初で、<試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい>と、いきなり爆弾のようなことを語っています。試練は神から来るものです。
 この手紙の終わりの方で、旧約聖書のヨブにふれて、「ヨブの忍耐を見なさい」と言っています。ヨブは知らないけども、天上界ではヨブが試練に遭うことを神が許していることを描いています。つまり、信仰があるからこそ試練は来るのです。信仰のない人は潰れます。しかし、信仰があるからこそ神は試練を与えて、その人の信仰を試されて、その人を完全な信仰へと導かれるのです。
⦿先ほど司会者がお読みした9節以下ですが、<私の愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです。>と、罪の落とし穴に落ちていることを語っています。私たちは話すのに早く、聞くのに遅いし、また怒るのに早い、これは罪の姿です。<だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。>これは素晴らしい言葉だと思います。
 私たちはどうしてもマイナスの方に、自分の物差しで測り、自分中心に、自分の努力で良くなろうとして、汚れや悪を溢れるほどに溜め込みます。その時に、「神さま、がんばります」ではなく「神さま、またしてしまいました。私はこんな人間です。どうぞ助けてください。」と悔改めることが、<素直に捨て去る>という意味です。
⦿しかし、悔改めるとは、謝罪とはちがいます。<心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい>とあるように、心に蓄えている御言葉を思い返して神に従っていく、御言葉である主イエス・キリストに繋がるということです。そうすると、<この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。>と言っているのです。
 つまり、ヤコブは、キリストを信じて罪の赦しを受けた者が、なお罪の行ないから解放されていないのは、罪の赦しを信じていないからだと言っているのです。しかし皆さんはすでに沢山の御言葉を蓄えておられると思います。例えば、<私はぶどうの木、あなたがたは枝である。>これはキリストの言葉です。<私は甦えりであり、命である。><私は良い羊飼いである。>このようにいろんな御言葉を思い起こし、味わい、かみ砕いていきなさいと言っているのです。私は教会で、蓄えている御言葉の一番多い人に景品をやる発表会をしたらどうかと思います。
⦿ここでヤコブは、クリスチャンらしくなるように導いて下さるのは聖霊であり、聖霊は真の律法を心に刻み込んで下さると語っています。彼は手紙の中で、真の律法のことを「自由の律法」と呼んでいます。パウロは「キリストの律法」とか「命の律法」と言い、ヨハネは「愛の律法」と言っていますが、これらは言い方がちがうだけで同じことです。
 聖霊は、私たちの心に真の律法を刻み込んで、私たちをキリストの似姿にし、私たちはクリスチャンらしく生きるようになるのです。これを聖化と言います。真の律法が私たちの心に刻み込まれて聖化されることで、聖霊が魂に働きかけ、魂とからだの関係が正常になり、からだは魂に仕え、魂はからだを治めて、真の人間性に回復されていくのです。
⦿ここで大事なことは、義認と聖化の関係です。まず義認が起こり、次に聖化が起こるということではなくて、義認と聖化は同時に起こるということです。つまり、イエス・キリストを救い主と信じると同時に聖められていくのです。それはちょうど太陽が光と熱を発するのと同じです。光は熱することをせず、熱は照らすことをしません。光と熱は別のものです。しかしどちらも太陽から同時に発せられています。そのように義認と聖化はまったく別ですが、しかし、どちらもイエスさまが聖霊によって同時になさる恵みのわざです。
 しかし、現実を見ると、信仰が義認にとどまって聖化にあずからないで、自力で生きようとするクリスチャンが何と多いことだろうかと思います。そのために、神に対しては愚かになり、隣人に対しては非人間的になり、自分自身に対しては無力になり、自分の人生にも歴史に対してもじつに空しいクリスチャンが教会を独占しています。しかし、聖化にあずかるとき、人は高慢な罪だけでなく、怠慢の罪からも解放されます。上から見下す高慢な罪に対して、なかなか気づかない怠慢の罪があります。しなければならないときに退き、してはならないときに進む、これが怠慢の罪です。しかし、聖化にあずかるとき、高慢な罪からも怠慢の罪からも解放されて、私たちは、積極的に人間性が回復されて、現代の言葉で言えば、人権を回復し、差別に対して勝利の戦いを始める力を与えられることになります。
⦿ここで私は、日本の歴史上最初の人権宣言と呼ばれているものをお配りしたいと思います。……初めて見る方もおられると思いますが、これは【全国水平社(1922年)結成における水平社宣言】です。1914年に第1次世界大戦が起こり、労働運動や婦人運動や参政権運動などが高まり、米騒動も起こっています。そうした民衆の力の昂揚の中で1919年に戦争が終わった後、水平社が結成されたのです。これをお読みします。「全國に散在する吾が特殊部落民よ團結せよ。……水平社は、かくして生まれた。人の世に熱あれ、人間に光りあれ。綱領 一、特殊部落民は部落民自身の行動によって絶対の解放を期す、一、吾々特殊部落民は絶対に経済の自由と職業の自由を社会に要求し以て獲得を期す、一、吾等は人間性の原理に覚醒し人類最高の完成に向かって突進す」。
 宣言文の中で「いたわる」という言葉を「労る」つまり「慰める・大切にする」という語ではなく、「勦る」つまり「かすめとる、滅ぼす、殺す」という語を使っています。部落の人は可哀想だということで共鳴し、一緒に戦おうとする人たちがいました。それに応えて部落の人たちが「差別を受けるのは、自分たちの生活態度が悪いからだ。生活を改善して差別を受けないようにしよう」と思い、自己卑下に陥り、一般の人たちの同情によってかえって殺されているというのです。「人間を勦るかの如き運動は、かえって多くの兄弟を堕落させた」と語り、「人間を勦る事が何であるかをよく知ってゐる」と融和主義の危険性を鋭く指摘して、部落民自身の行動によって自らの解放をめざすと宣言しているのです。
⦿これを起草した西光万吉は、奈良県の浄土真宗西光寺という穢多寺で生まれた人です。被差別部落出身として差別を受けて苦しみ続けた彼は、青年期に差別からの解放を自覚したようです。またキリスト教に出会ったと思われます。宣言文の中に「荊冠」という言葉があります。これは十字架上のイエスを表わしていますし、現在の部落解放同盟の旗の印にもなっています。
 日本最初の人権宣言と言われる水平社宣言を紹介したのは、日本のキリスト教界が義認にとどまって聖化にまで至らないクリスチャンが多いからです。聖化にあずかるときには、積極的に人間性が回復され、人権が回復され、差別に対しても勝利の戦いを始める力を与えられます。水平社宣言は、そのことの徴だと思うからです。ですから、部落の人たちはもちろんですが、私たち自身も辛い目に遭って差別を受けているのではないでしょうか。だからこそ私たちは、神が約束されている聖化にあずかって、新しい道を歩んでいきたいと思うのです。

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