2025年4月13日 聖書:マルコによる福音書15章33~41節「十字架上で叫ぶイエス」川本良明牧師

⦿教会では、今週はイエス・キリストの苦難を覚える受難週です。教会によっては、毎日早天祈祷会をしたり、1日1回断食する教会もあります。宮田教会はどうしていたか聞いてませんが、大切なことは、聖書からイエス・キリストの受難を知ることだと思います。
 4つの福音書は皆、イエス・キリストを真の神が人となったお方であると語っています。しかし、読む人のことを考えて書いているので、キリスト像は少しずつちがっています。マタイ福音書は「ユダヤ人の王」、マルコ福音書は「苦難の僕」、ルカ福音書は「人の子」、ヨハネ福音書は「神の子」として描いています。
 そして今日は、マルコ福音書に焦点を当てました。この福音書は一番短く、16章あって、ちょうど真中の8章において、イエスが弟子たちに自分の死と復活を予告した後、エルサレムに向かって行きます。そして、11章から16章まで、福音書全体の3分の1以上も使って、エルサレムに到着してから最後の1週間の出来事を書いています。
 このように福音書は、イエス・キリストの伝記を書いているのではありません。わずか3年ほどの彼の活動を伝えているものです。それは他の福音書も同じです。
⦿マルコ福音書に戻りますが、14章になると緊張が一気に高まり、15章で死刑の判決が下って十字架に架けられました。その痛みと苦しみの中でイエスが聞いたのは、「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ」でした。
 「神殿を打ち倒し、三日で建てる」とは、イエスが実際に語った言葉です。しかし、それは、罪によって台無しになっている私たちのからだを、聖霊によって造り変えて下さるという恵みの言葉なのです。また「十字架から降りて自分を救ってみろ」という言葉は、人間イエスに対する悪魔の激しい攻撃でした。「悪魔」と聞くと驚くかも知れません。しかし、マタイ4:1~4には、荒野で40日間断食し、飢えの極限にあったイエスに、「神の子なら石をパンにしたらどうだ」とささやいたのは悪魔だと言っています。
 イエスにとって、「石をパンにする」ことも「十字架から降りる」ことも、人間としての肉と血から離れることでした。それを悪魔は攻撃しているのです。しかしイエスは、「石をパンにする」ことも「十字架から降りる」こともしませんでした。彼は神の子でありながら、人間としての肉と血から離れなかったのです。もし石をパンに変え、十字架から降りていたなら、彼は、人間である私たちとは何の関わりのないところに身を置いたことになります。
⦿また祭司長たちは、イエスを最も深く苦しめる言葉を浴びせました。「他人を救ったのに、自分を救えない」という言葉です。彼らはイエスが、「他人を救った愛の人」であることを知っていたのです。イエスは、すべての人間の中に神の似姿を見て、愛してやみませんでした。そして、彼が切に願ったのは、人々が罪から離れ、神に立ち返ることでした。
 そんなイエスの最も深い苦しみを伝えているのが、息を引き取る直前に大声で叫ばれた、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」という叫びではないでしょうか。<これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である>と福音書は書いています。著者のマルコがこの言葉を伝えるのに、そのままイエスが日常使っていたアラム語で書いたのは、決して偶然ではありません。人々に最も深い印象を与えた重要な言葉として、死にゆくイエスの魂から出た言葉だからこそ私たちのために書いたと思うのです。
⦿マザー・テレサは、「人間を苦しめる最も大きな不幸は、貧困でも病気でもなく、『あなたは必要とされていない』と扱われることです」と語っています。人にとって、つながりを断ち切られ、無関心に扱われて捨てられることが最大の不幸であるという彼女の言葉が真実であるとするなら、じつにイエスは、ユダヤ人たちから憎まれ、人々から捨てられて、孤独の耐えがたい苦しみの中にあったことはたしかです。
 しかし彼は、「なぜあなたがたは私を捨てるのですか」とは一言も言わないで、ただ神に向かって「なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫んでいます。そのことに注目したいのです。<わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか>。じつに深い謎の言葉です。
 彼を棄てたのは、同胞のユダヤ人であり、総督ピラトとローマ兵であり、彼が身近に引き寄せた弟子たちです。しかも、二千年前の人たちだけでなく、すべての時代のすべての人間、そして今の私たちとどこがちがうのでしょうか。それなのに彼は、「あなたたちは」と言われないで、「父なる神さま、どうしてあなたは私をお見捨てになったのですか!」と叫んでいます。
⦿イエスは、私たちと全く同じ人間でありながら、ただ1つ決定的に違っていました。それは幼少の時から神を父と呼び、父の子と自覚していたことです。父である神の子として、自由な愛の結びつきの中にあったイエスは、父なる神と共に泣き、共に怒り、共に喜ぶお方でした。
 神を無視し、自分の力で救いを得ようとして、そのために悲惨な現実を招いている人々を見て涙する神と共に泣き、また自分を捨て、神の愛に応え、神にゆだねて生きる人々を見て喜ぶ神と共に喜びました。神と共に泣き、神と共に怒り、神と共に喜んできたイエス。そのイエスが今、父なる神から捨てられるのはなぜでしょうか。
⦿神が、人間イエスにおいて、石をパンに変えず、十字架から降りないで、最後まで肉のからだに留まっているとき、死にもの狂いで抵抗していたのは悪魔でした。しかしイエスは、最後まで人間としてとどまって息を引き取りました。そして、これによって悪魔との戦いに決定的な勝利をおさめたのです。それは、私たちを愛する計り知れない神の愛の戦いでした。
 その戦いの中で、イエスは、「わが神、わが神……!」と絶望的な叫びを上げました。それは、まさに、神に永遠に捨てられる人間の叫びでした。しかし、神に捨てられる人間は、本来なら、イエスではなくて私たちではないでしょうか。ところが、人間と完全に1つであったイエスが、私たちに代わって、叫びながら神に捨てられていったのです。
⦿私たちのために、私たちに代わって、神に向かって叫んでおられるイエス。私たちに求められているのは、このイエスにあって自分自身を見ることです。またイエスを通して隣人を見ることです。そして、もし私たちが、隣人のだれかをおそれたり、何かの理由で受け入れることができないでいるならば、それは、隣人のせいではなく、まず自分自身の中にある不信仰が、つまり、神が自分のために、自分の代わりに、戦って勝利してくださったことを信じることができない不信仰を問われているのです。
 しかし、私たちの誰ひとりとして、信じることが出来ないでいるのではないでしょうか。相変わらず私たちは、隣人をおそれたり、受け入れることが出来ないでいます。相変わらず神に対しては愚かであり、隣人に対しては非人間的であり、自分自身を愛することができないで、自分を責めています。そして、近づいている死を恐れている有様です。
 そして、日常的には、進むべき時にひるんで進まず、身を引くべき時に変なプライドから身を引かず、また、時にごう慢になって人と争い、人のことには耳を貸さないで、自己主張を繰り返して、気がついたら孤独になり、自暴自棄に陥っています。
⦿しかし、そういう私たちの内に、イエスは聖霊として住んでくださって、「それでいいんだよ」と語っておられます。大切なのは、そのイエスに目を向け、心を寄せて、心を傾け、イエスである聖霊にありのままの自分自身を打ち明けることです。
 ハッと気がついたら、上を見上げて、聖霊として自分の内におられる人間イエスに、自分自身を打ち明けることです。このように気がつくのも聖霊の働きです。聖霊はいろんな働きをしてくださいます。聖霊は目覚めさせるお方です。また聖霊は生きる力を与えるお方です。このことが約束されていることを心から感謝したいと思います。私たちのために苦しまれたイエスの受難の出来事を覚えながら、また神がこのイエスを死人の中から甦らせられたことを見すえながら、この一週間を過ごしたいと思います。

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