⦿ただいま司会者がお読みした聖書の個所は、モーセが神から召しを受けるところです。神がモーセに、「今、エジプトにいる私の民が、奴隷とされて苦しんでいる。私はその叫び声を聞き、その痛みを知ったので、天から降って行き、彼らをエジプトから救い出して、乳と蜜の流れる広々としたすばらしい土地に導き上るために、今、あなたをエジプト王のもとに遣わす。行きなさい。そして、彼らをエジプトから連れ出しなさい。」と命じたのでした。
⦿突然、そのように聞いても何のことか分からないと思いますが、モーセにとっては、この神の言葉は、痛いほどよく分かる内容でした。彼は、今、80才であり、ミディアンの地で羊飼いをしていましたが、40年前はエジプトの王子であり、奴隷たちを支配する立場にありました。
彼は、エジプト人のあらゆる教育を受け、君主となる者としてふさわしい素養や見識を身につけていましたが、奴隷とされて苦しむヘブライ人を見過ごしにはできませんでした。
というのは、それは、彼の生育歴に関係があるからです。彼が生まれたとき、エジプトは反ユダヤ政策を行なっていて、生まれた男の子は皆殺されていました。彼の両親は、3ヶ月間は隠していましたが、もはやこれまでと思い、籠の中に入れてナイル川に浮かべたのでした。
ところが、エジプトの王女に拾われたばかりか、不思議なことに、母親の元で王女に守られて育てられることになりました。やがて王女に引き取られ、王女の子どもとなります。このように彼は、物心つくまで、ヘブライ人の両親に、また家族に、そして同胞の中で育てられています。ですから、大きくなっても、彼からヘブライ人への同胞意識が消えることはなかったのです。以上のことは、出エジプト記2章1節以下に書かれています。
⦿王女が彼をモーセと名づけた理由を、「水の中から私が引き上げた(=マーシャ)のですから。」と王女自身が語っています。反ユダヤ主義の嵐が吹き荒れる真っ只中です。王女といえども国の大方針と真逆のことをすることは絶対にできないし、モーセ自身の命も保証されないはずです。それなのに、なぜ、モーセは王宮の中で生きることができたのでしょうか。
それは、彼が特別な人間として見られていたからではないかと思います。ナイル川の水から引き上げられたのであれば、ナイル川を治めている神々から守られているという、いわばエジプトの宗教を背景に考えることができます。そこには根本的な力、すなわち、エジプト帝国を根柢から支えている宗教の力が絡んでいたと思うのです。
⦿私たちは、時々、「神様に導かれている」と感じることがあります。それは、信仰から出てくる言葉ですが、それを一般の人に言うと、「縁があってこうなっている」と言われます。同じように見えますが、「導かれる」と「縁による」の間には根本的な違いがあります。
私たちを導いている聖書の神は、「我と汝」という人格的な関係の神です。神は契約にもとづいて働かれます。だから、次に何をされるかを予測できます。神は、契約に基づいて天地を創造され、アブラハムと契約を結び、その子孫からキリストが生まれると約束されました。その約束どおりに生まれたキリストは、その十字架の死と復活によって新しい契約を結ばれました。その神に導かれて、終わりの日の完成に向かっていることははっきりしています。
⦿しかし、「縁があってこうなっている」というのは、因縁に基づいています。それは、言葉では分かりますが、何によって縁が生じ、何によって消滅するのかは分かりません。ですから、次にどのように行動したらよいのか、どこに向かって行くのか、予測ができないのです。モーセはそのような世界観の中で王子として生活していたのです。
しかし、いくらモーセの名前の由来がそうであったとしても、成人したモーセ自身は、奴隷の悲惨な現実を見て、「神は、なぜこの現実を許しているのか、いつまでこんなことがつづくのか」と激しく葛藤し、苦しみ、エジプトの神々に失望せざるを得ませんでした。そして、ついに同胞のヘブライ人を助けようと思い立ち、虐待しているエジプト人を殺害しました。ところが、次の日、同胞同士が喧嘩をしているのを見て、悪い方をたしなめると、反対に、「お前は神か。お前はエジプト人を殺したように私を殺すのか」と言い返されたモーセは、恐くなり、挫折し、遠くミディアンの地まで逃げたのでした。
⦿この後、彼は、羊の群れを追う女性たちをいじめる羊飼いの男たちをこらしめ、彼女たちの父親で祭司のエトロに出会うことになりました。エトロは、モーセがエジプト人の姿の奥に挫折と悲しみと深い心の傷を負っていることを直感しました。
じつは、祭司エトロについては、イスラエルの民が無事にエジプトを脱出した後、シナイ山に向かって荒野にいるとき、娘の家族を連れてモーセを訪ねたことが18章に書かれています。彼は、モーセからそれまでの出来事を聞いて喜んだ後、<主をたたえよ、主はあなたたちをエジプト人の手から、ファラオの手から救い出された。>と言って、イスラエルの民を祝福して生贄を捧げています。「主」とは、真の神ヤハウェのことです。
⦿エトロを通して主なる神に出会ったモーセは、エトロのもとで生活する中で少しずつ癒され、やがて彼の娘と結婚し、その家族となったのでした。2人の子どもを授かりますが、彼は最初の子をゲルショムと名づけました。<彼が、「私は異国にいる寄留者だ」と言ったからである。>と書かれています。これだとミディアンの地が異国であると読めますが、原文は「私は異国で寄留者だった」と過去形で書かれています。ですから、彼は、「エジプトでは寄留者だったが、このミディアンの地こそ私の故郷だ」と実感しているのです。
真の神ヤハウェを信じ、羊飼いをしながら家庭を守り、祭司エトロを中心とする共同体の中で、モーセは40年間過ごしました。それは、じつに平和な毎日ではなかったかと思います。ところが、平和な生活を送っていたモーセの人生に一大転機が訪れました。物語は出エジプト記3章1節から始まります。
⦿エトロの羊の群れを追って神の山ホレブに来たとき、モーセは柴が火に燃えているのに燃え尽きないという不思議な光景を目にしました。彼はこれを見届けようと近づくと、柴の間から、<モーセよ、モーセよ>と神から呼びかけられました。神が2回呼ぶのは、夢中になっていることから心をこっちに向けさせようとするときです。
彼は、「なぜ柴は燃え尽きないのか」と現象の分析と解明に心が奪われていました。私たちも同じではないでしょうか。たとえば、高い山で3人の弟子を前にイエスの姿が変わり、服が真っ白に輝いたと聖書は伝えています。それを読むと、それはどういうことだろうか。なぜ起こったのか。どういう風にして生じたのか、などに目が向いてしまいます。
⦿モーセは、神の呼びかけに「はい」と答えました。ハッと我に返ったとき、神は、<ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。>と言われました。神は、<履物を脱げ>と命じました。それは自分を捨てる、自分の物差しを捨てる、悔い改める、方向転換するということです。そして、履物を脱いだモーセに神は、<私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である>と告げました。そして、彼に命じた内容が、先ほどお読みした出エジプト3章7~10節です。
その内容は3つのポイントがありますが、モーセはそれらを皆よく知っていました。つまり、奴隷の悲惨な現実を彼はよく知っていました。また、「広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地」と言われていますが、カナン人、ヘト人などについての情報は、ミディアンの地にいる彼のもとに伝わっていました。政治力、軍事力、経済力に優れており、また高い文化を持っていて、奴隷であるヘブライ民族とは比較にならないことをよく知っていました。そして、何よりもエジプト王が、政治的、経済的、軍事的権力をすべて握っており、その宗教的権威は絶対であって、ファラオは、エジプト帝国の最高の祭祀王権という地位にあることをよく知っていました。
⦿その彼が今、神から召しを受けたのです。神は、彼の誕生から80になるまでの人生をすべてご存知でした。その彼を用いようとされているのです。モーセは、若いとき、奴隷解放の戦いに挫折しました。その彼を用いて、神は今、人類史上初めて、真の奴隷解放をしようとされているのです。それはまさに<主の戦い>でした。
神は、愛する契約の民イスラエルが奴隷として苦しんでいるのを片時も目をそらさずに見ておられました。<それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた。>(2:23~25)。「彼らの叫び声は神に届いた」とは、様々な抵抗をしてきたが、万策尽きて、神に助けを求めるほかないという意味です。
⦿今からは、人間的な力ではなく、主の戦いが始まるのです。この神の前にモーセはひざまづきました。エジプトのことやカナンのことをよく知っており、非常に経験豊かでしたが、彼は今神に打ち砕かれました。靴を脱がされ、彼は、<主の戦い>に招かれたのでした。
ですから、私たちも靴を脱ぐように求められています。そして、聖書が語る神を正しく知り、その真理を求めるように招かれています。イエスは、<私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。>と言われています。本当の神を正しく知るためには、イエス・キリストを通して知らなければなりません。だから、復活のイエスである聖霊に願い求めながら、真の神を知り、そのみわざを正しく知りたいと思います。
⦿またイエスは、サドカイ派の人々が、「七人の兄弟が跡継ぎを残さないで死に、次々とその男たちの妻になった女がいたが、復活の時、その女は誰の妻になるのか」と問うて、イエスを罠にかけようとしたとき、<あなたたちは、聖書も神の力も何も知っていない。死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ>と言われています(マルコ12:26~27)。
「モーセの書の柴の個所」とは、「柴が燃えているのに燃え尽きない不思議な光景」という、先ほど見た聖書の個所です。イエスが、<神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ>と言われたのは、アブラハムやイサクやヤコブの物語にあるように、神は、まさに歴史の中に現れて、歴史の中で具体的に働いておられると語っているのです。
⦿私たちは、モーセが主の戦いのために向かおうとしているエジプト帝国とは、どういう国であるのかを知らねばなりません。それは日本と酷似しています。日本の天皇は、エジプトのファラオと同じく祭祀王権を備えています。また、ファラオと同じく天皇は、日本の宗教における様々な神々の中の最高の神とされています。その天皇によって日本がどんなにひどい歴史を辿ってきたか。しかし、その歴史の中で神は働いておられます。今も働いておられます。そのことを踏まえて私たちは、教会としてどのような道を歩むべきかが問われているのです。
2日後に九州教区総会が開かれますが、新しく2025~26年度の宣教方策を決めようとしています。その中に、「天皇制と対峙します。」とあります。冗談じゃない。私たちが天皇と戦えますか。天皇制を無くすことができますか。これは、主の戦い以外に戦うことはできません。私たちは、戦うということよりも悔い改めなければならないのです。日本基督教団が生まれたとき、どういう教会だったのか。第一戒を破って、皇国臣民として生き抜くことがクリスチャンとしての使命であるとしました。そういう教会が、今さら天皇と対峙するなんて、冗談じゃありません。本当に。それよりも、そういう過去に犯した罪を悔い改めることが求められているのです。
まず神に悔い改めて、神が戦ってくださると信じて、「今私たちは、何をすべきかを教えてください」と祈り、モーセと同じように神に召しを受けていると自覚することです。これは本当にきびしいことでありますが、私たちもまたモーセと同じ神に召しを受けていることを、本当に感謝したいと思います。そして、モーセと同じくこれまでの人生が無駄ではなかったと信じ、神が生かし、今用いようとされるために教会に集められているのだということ、そのことを本当に心から感謝したいと思います。
定例行事
- 聖日礼拝
- 毎週日曜日10:30~
- 教会学校(子供の礼拝)
- 毎週日曜日9:30~
- 祈祷会・聖書研究会(午前の部)
- 毎週水曜日10:30~
- 祈祷会・聖書研究会(夜の部)
- 毎週水曜日19:30~
その他の年中行事
- チャペルコンサート(創立記念)
- 毎年8月下旬
- チャペルコンサート(クリスマス)
- 毎年12月23日
- クリスマスイブキャンドルサービス
- 毎年12月24日夜