⦿すでに80才になったモーセが、神の山と呼ばれていたホレブにおいて、契約の神ヤハウェからエジプトで奴隷として苦しむイスラエルの民を救い出すように召命を受けたことを前回は見てきました。今日は、その神がどんなお方であるのか、そのお方に対して人はどのように振る舞うのか、その人間を神はどのように扱われるのかを見てみたいと思います。
そのために少し前後関係にふれておきます。(1) 創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記は「モーセ五書」と呼ばれているように、著者はモーセです。そのことはイエスご自身がヨハネ5章46~47節で語っています。モーセは、創世記を神の啓示によって書き、残りの4つをモーセ自身の体験もふまえて書いています。(2) モーセが五書を書いた目的は、約束の地を前にしたイスラエルの民のために、自分たちの先祖の歴史と出エジプト後の荒野での40年の歴史と、まもなく住むことになる約束の地でどのように生きるかを示しました。特に、神が始祖アブラハムと結んだアブラハム契約は、無条件契約として重要でした。その内容は、①土地を与える、②子孫を増やす、③祝福の約束のことです。
⦿アブラハムは百才の時イサクを授かり、イサクはヤコブを授かり、ヤコブは一族となるまでに増え、ヤコブ一族70人はエジプトに移住しました。そして、それから4百年の間にその数は民族にまで増えて、子孫を増やすという契約は果たされましたが、その代わりに彼らは奴隷身分に落とされて苦難の歴史を歩むことになりました。
しかし、このことは、4百年前に神はすでにアブラハムに次のように予告していました。<主はアブラムに言われた。「よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。しかし私は、彼らが奴隷として仕えるその国民を裁く。その後、彼らは多くの財産を携えて脱出するであろう。…ここに戻って来るのは、四代目の者たちである。それまでは、アモリ人の罪が極みに達しないからである。」>(創世記15:13~14)。彼らがエジプトで苦しむことは神の計画でもあったのです。
これについては私たちは、現在3百万人を超える外国人が定住している日本の状況と重ねて考えざるを得ません。しかもそのうちの3割がクリスチャンです。教会もまた将来苦難の日を迎えるであろうことを思い、今私たちは、本物の信仰が求められていると思うのです。
⦿イスラエル民族は、エジプトに移住して50年も経たないうちに時代が変わり、奴隷身分に落とされました。そして4百年間、過酷な重労働がつづきました。紀元前3千年以上前からナイル川の豊かな賜物のおかげで、経済的、政治的、軍事的、宗教的に高度に発展したエジプト国家は、外から入ってきたイスラエルの民を見下し、その絶大な権力によって奴隷身分に落としたのです。
しかし、神に祝福された彼らは、減るどころか一大民族にまで成長したため、ついに王の命令によって民族絶滅の危機にさらされるまでになりました。この時、神はモーセを指導者として遣わして、イスラエル民族をエジプトから救い出すことを始められたのです。
⦿出エジプト記3~4章は、モーセをエジプトに遣わそうとする神とそれを拒むモーセのことが書かれています。まず神は、柴が燃えているのに燃え尽きない不思議な光景を見せてモーセを近づかせると、モーセよ、モーセよと呼びかけました。彼が「はい」と答えると、「私は、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と名乗りました。
これは、<アブラハム契約>のことを言っているのです。契約の民が、奴隷として4百年間過ごしてきたことを神は片時も忘れてはいないし、今や子孫は増え、カナン人の罪は満ちたことを語っているのです。そこで神はモーセに、彼らを約束の地であるカナンに導くように命じました。
⦿これに対してモーセは、「私は何者でしょう」と拒みました(11節)。しかし神は、<私は必ずあなたと共にいる。このことこそ、私があなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。>と言いました。
これは、<神が共にいることが遣わすしるしである>というのではなく<民をエジプトから導き出し、この山で神に仕える>ことこそしるしであると言っているのです。ヘブライ語の聖書には、<このことこそ>の前に<そして>があるのを省いているために間違って読むことになるのです。つまり、尻込みするモーセを無視するかのように、神は、モーセが民を率いて神の山で神に仕えることを見すえて語っているのです。
⦿そこでモーセは、「エジプトに行きます。しかし、私を迎える人々から、あなたを遣わした神の名は何かと訊かれても答えることはできません。」(13節)と言って、言い逃れようとしました。すると神は、<私はある。私はあるという者だ>と言って、ご自分のことをより深く紹介しました。
これは日本語訳では難しく、ヘブライ語から読み取らねば正しく理解できないと思います。<ある>という語は、創世記1:3の<光あれ。こうして光があった>の<あれ、あった>と同じ言葉です。<あれ、あった、ある>は、動詞の中の動詞、生きるそのものを意味する<ハヤー>が変化したものです。先ほどの<私は必ずあなたと共にいる>も<ハヤー・あなたと共に>という言葉です。そして、<ハヤー>の名詞形がヤハウェという神の名前なのです。
⦿このように語った神は、<イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主が私をあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえに私の名、世々に私の呼び名>(15節)と、再び神の名を名乗り、イスラエルの民に告げよと命じました。
気づいたでしょうか。初めて現れた6節では、<私は、アブラハムの神・イサクの神・ヤコブの神である>と名乗ってますが、今は、<アブラハムの神・イサクの神・ヤコブの神である主>と名乗っています。<主>と訳していますが、ここははっきりと<ヤハウェ>と書くべきです。ヤハウェこそアブラハム契約の神、永遠の名、代々にわたる神の名だからです。
⦿この神と共にあるイスラエルの民の一人として来られたのがイエス・キリストです。この方は、復活を信じないサドカイ派の人々に対して、<聖書に、『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。>と語っています(マルコ12:26~27他)。
このイエスを信じるとき、私たちもイエス・キリストによって、イスラエルの民の祝福にあずかることが約束されているのです。つまり、私たちは、神ヤハウェと繋がることが赦され、アブラハム契約にあずかり、永遠に生きることが約束されているのです。
⦿神は、ご自分の名を名乗った後、拒むモーセをものともせず、ご自分の計画を語り、エジプトに行くように促しました。しかし、モーセは、なおも神に逆らいました。すると神は、彼が持っている羊飼いの杖を蛇に変え、また彼の手をツァラートに冒させたりしてモーセの意志を変えようとしますが、それでもなお彼は抵抗しました(4章)。
「ああ、主よ、私は弁は立ちません。口べたです」と身体的な欠陥を持ち出した彼にも神は忍耐強く対応しますが、彼が「誰か他の人を見つけてお遣わしください」と口にすると、彼を誕生以来80年間見守り続け、時が来るのを待っていた神は、ついに怒りを発しました。けれども意外にも神は、口べたである彼の代わりに雄弁な兄のアロンを持ち出して、尻込みしているモーセを説得したのでした。もちろん解放者に選ばれたのは彼であり、アロンではありません。……こうして長いやりとりは終わり、今やモーセは、使い慣れた杖を<神の杖>(20節)として手に取り、エジプトに向かうことになったのでした。
⦿これまで見てきたように、神は、じつに無条件契約に対してどこまでの忠実であって、どんなにモーセが動揺し、尻込みし、言い訳をしようとも、モーセをイスラエルの民をエジプトから解放して約束の地に導く指導者として立てようとされました。そして、人間を徹底的に非人間的に扱う古代エジプト帝国に対する本格的な戦いを始めようとされました。もちろん戦いの目標は、この世界を神の栄光を現す世界にすることです。
この真実な神を前にして人間は、どこまでも逆らい、抵抗する罪人であることをあらわにします。しかし、もしも神との距離が遠ければ、そのようなことは起こりません。神が最も近くに居られるからこそ罪をあらわにされるのです。
⦿じつは1982年に福岡市にあったアメリカのメソジスト教会の資産をもとに土地を購入して、九州教区と在日大韓基督教会西南地方会は、宣教協力をするための契約を結びました。福岡市舞鶴の教区キリスト教会館の二階に西南KCC福岡ブランチの50坪の部屋があり、また北九州市小倉の在日大韓基督教会小倉教会に隣接する西南KCC会館の二階に九州教区北九州分室の50坪の部屋があるのはそのためです。それ以来両者は共同集会など今日まで交わりを深めてきました。
しかし、宣教協力を結び、それを実行することをめぐって教区総会が開かれたとき、出席した西南地方会の准議員たちに対して教区総会議員たちが示したのは、上から見下し、露骨に差別する醜い姿勢でした。しかしそれは、互いに近づいたからこそ、また一緒に活動をしようとしたからこそ、互いの罪があらわにされたと思うのです。互いに遠くに離れていれば、差別を自覚することなどありません。しかし、私たちが自覚しないからといって、在日韓国・朝鮮の人たちは今も日本名で生活しています。それは本名を名乗れば仕事がないからです。その現実を作り出しているのは、今なお差別があるからであり、この社会を私たちは支えているのです。
⦿そのことを今、私たちは、選ばれた人間モーセを通して示されたのですが、しかし、モーセが自分のありのままの姿を隠さずに出エジプト記の中で書き残していることにおどろきます。なぜ彼は自分の弱さや罪を率直に紹介することができたのでしょうか。それは、人間の背後に、神の栄光を台無しにし、創造のわざを破壊するために人間に働きかけるサタンのわざを、神から直接示されて知っていたからです。今はそれにはふれませんが、彼は創世記の最初の天地創造物語でそのことを書いています。
出エジプトの出来事は、前1275年頃に起こったといわれますが、その後も神はイスラエル民族と共にあって、全人類をサタンの支配から救い出すわざを続けられています。そして、ついに神は、彼らの一人となって、罪深い肉の姿になって来られ、十字架の死において罪を滅ぼし、聖霊として降って教会を建てました。その教会は、今や全世界に建てられています。そのことを見ると、キリストが約束されたように、再びキリストが来られる終わりの日が近づいていると思います。
⦿ですから、私たちもまたモーセと同じように、生まれてから今日までしっかりと神に覚えられていて、時いたって教会に集められていることを忘れてはなりません。そしてまたモーセと同じように、私たちは神の前に動揺し、罪をあらわにされます。けれども神は、このような私たちが喜びと感謝をもって神ヤハウェの真実に真実をもって応えるようにと待っておられます。そのことを心から感謝したいと思います。次回は、いよいよ、モーセを通して行なわれる「主の戦い」を見ていきたいと思います。
定例行事
- 聖日礼拝
- 毎週日曜日10:30~
- 教会学校(子供の礼拝)
- 毎週日曜日9:30~
- 祈祷会・聖書研究会(午前の部)
- 毎週水曜日10:30~
- 祈祷会・聖書研究会(夜の部)
- 毎週水曜日19:30~
その他の年中行事
- チャペルコンサート(創立記念)
- 毎年8月下旬
- チャペルコンサート(クリスマス)
- 毎年12月23日
- クリスマスイブキャンドルサービス
- 毎年12月24日夜