2025年7月6日 聖書:出エジプト記5章20~6章1節「絶望するモーセと神の約束」川本良明牧師

⦿出エジプト記に注目して4回目になります。この書巻に注目するのは、今から約3300年前に実際に起こった驚くべき出来事を伝えているからです。それは、神に特別に選ばれたイスラエル民族が体験したことですが、そのどれもが現代の私たちにも直接関係があることばかりです。
 そのいくつかを上げると、まず人類の歴史上初めて神によって奴隷解放が起こされたことです。それ以来、世界史を見ると、呼び方は色々ですが、人間解放が起こされてきています。それは人間を用いて神がなされていると言わざるを得ません。
 つぎに、奴隷身分から解放されたおよそ2百万にも及ぶイスラエルの民が、荒野において40年間、神から水と食糧を与えられて養われました。さらに、シナイ山で、神からモーセを通して神の民として生きる律法を与えられました。また、神は、モーセを通して幕屋を造らせ、天から降っていつも彼らと共にいるようにされました。
 このように、彼らは、モーセに導かれながら、エジプトから自分たちを救い出した神が、どんなに恵み深いお方であるかを知ったのでした。
⦿そこで出エジプト記全体の構造を簡単に見ておきたいと思います。
 ①1:1~12:36は、エジプトでのイスラエルの苦難。②12:37~18:27は、エジプト脱出からシナイ山までの旅。③19~24章は、シナイ契約とモーセの律法。④25~40章は、幕屋と神の臨在。
 少し詳しく見ると、①では、人類最初の反ユダヤ主義政策に苦しむイスラエルと、神がその解放者としてモーセを選び、エジプトのファラオと対決し、10の災害と裁きの物語があります。
 ②でも、葦の海を前にして絶体絶命のピンチの中で、主なる神の大いなる奇跡によって、エジプト帝国の権力から解放されて喜んだのも束の間、導かれた荒野での生活にブツブツ愚痴るイスラエルの民、そして、アマレクとの戦いの勝利やすばらしい神の恵みが書かれています。
 また③では、十戒と600あまりのモーセの律法と契約の締結が細かく書かれてあります。
 また④では、神がモーセに幕屋の設計図を示している間に金の子牛事件が起こり、契約が破棄される寸前に、モーセの執り成しで契約が再び結ばれ、幕屋が建設され、神の栄光が幕屋を覆い、そして、イスラエルの旅の中で神の栄光がたえず示されるという物語があります。
⦿このように出エジプト記は、「エジプト脱出」だけでなく、その後、神が律法を授けたり、幕屋に神が臨在してイスラエルを導くなど、永遠の聖なる神が歴史に介入していることを伝えています。神が歴史に介入して起こした出来事ですから、イスラエルが葦の海を通ったことも、荒野やシナイ山で起こったことも皆、歴史的事実です。
 そればかりか、聖書の神は歴史の神であり、神の歴史を伝えている歴史的な書物であって、天地創造物語もアダムやノアの物語も皆、歴史的事実を語っているのです。もしもそれらが単なる創作であるとすれば、聖書が伝えていることは全て空しくなってしまいます。
 しかし、歴史の神を信じ、聖書の出来事を神が関わった歴史的出来事であると受けとめるならば、過去の出来事は、現在の私たちへの警告であり、慰めであり、励ましであり、希望の出来事となります。
 例えば、1~18章までのイスラエルの苦難とモーセのエジプト帝国との戦いは、私たちが、この世の生活の中から救い出されて洗礼を受けるまでの福音の出来事と重なります。また、シナイ山で律法が授けられたのは、受洗後の私たちが、恵みにより、信仰によって、御子の姿に変えられていく聖化の出来事であり、25~40章までの幕屋を中心としたイスラエルの生活は、イエス・キリストを中心として、今なお罪の誘惑との戦いの中にありながらも、終わりの日の永遠の命の約束を信じて生活する私たちの姿と重なります。
⦿それはともかくとして、これまで見てきた1~4章までを振り返って、今どの辺まで来ているかを確認したいと思います。
 出エジプト記の前の創世記は、ヤコブ一族がエジプトに移住したことで終わっています。つぎの出エジプト記1章は、その彼らが民族にまで増え、エジプト帝国に恐れられ、重労働と男児殺害と絶滅の危機に見舞われたことを伝えています。
 2章には、モーセの80年の生涯と歴史に介入しようとする神のことが書かれています。
 3~4章は、イスラエル民族をエジプトから解放し、約束の地に導く計画を実行するためにモーセを選び、エジプトに遣わそうとする神と、それを断わるモーセとのやりとりが書かれています。彼は4つほど理由をあげて断わっています。まず3章の後半で彼は、「自分には資格がない」「神を知らない」と言って拒絶します。その彼に対して神は、私はいつもあなたと共にいる、また私はこういう者だ、だから大丈夫だと言って説得しました。
⦿4章になると、「自分には力がありません」と言うと、神は、彼が持っていた杖をコブラに変え、彼の手をツァラートに変え、水を血に変えて、ご自分の力を示されました。エジプト王のマスクに付いているコブラは、最高神である王の権威を現しています。また水は命の源であるナイル川を現しています。神が杖をコブラに変え、また杖に戻し、水を血に変えることで、神がそれらを超える力あるお方であることをモーセに示したのです。
 しかし、それでもなお彼は、「自分は口べたです」と逃げると、神は根気よく説得し、一歩踏み出すように説得しました。それでもなお彼が、「誰か他の人を遣わして下さい」と言うと、怒った神は、他の人としてエジプトにいる兄のアロンを呼び出すことにしました。こうしてモーセは、断るわ理由を失い、神の説得を受け入れたのでした。以上が4章の前半までの内容です。
 この後、彼は、エジプトに行く本当の理由を言わずに、丁重に義理の父エトロに別れの挨拶をして一歩踏み出しました。すると、間髪入れずに神は、<さあ、エジプトに帰るがよい。あなたの命を狙っていた者は皆、死んでしまった。>と彼に語ったのでした。
 この後、妻と2人の息子を連れてエジプトに向かう途中、24節で、<主はモーセを殺そうとされた>という驚くことが書かれています。理由は分かりませんが、80年間待って、ついに説得してエジプトに遣わすことになったモーセであっても、御心にかなわないことがあれば、神は容赦なく斥けられるのだという、たいへん大切なことを私たちに教えていると思います。そして、このことがあったので、モーセは家族を実家に帰したようです。
⦿4章の終わりには、モーセが、再会したアロンと一緒にエジプトに行き、イスラエルの長老たちを集めて、アロンを通して神の言葉を伝え、またイスラエルの民の前で、あの杖で神の力を示したので、民は2人が自分たちの解放者であることを信じ、神の憐れみを知って、<ひれ伏して礼拝した>とあります。いよいよ解放の時が来たことを信じて喜んだのでした。
 ところが、先ほどお読みいただいた聖書の言葉で分かるように、<彼らは2人に抗議した。あなたたちのお陰で、われわれはファラオとその家来たちに嫌われてしまった。彼らに自分たちを苦しめる口実を与えてしまった。>とまったく正反対のことを語っています。いったい彼らに何が起こったのか。そのことを5:1以下が伝えています。
⦿モーセとアロンは、イスラエルの民が自分たちを信じ、喜んだのを見て、自信を持ってファラオの前に立って言いました。<イスラエルの神、主がこう言われました。『私の民を去らせて、荒れ野で私のために祭りを行わせなさい』と。>
 すると、予想外の言葉が返ってきました。<主とは一体何者なのか。どうして、その言うことをわたしが聞いて、イスラエルを去らせねばならないのか。わたしは主など知らないし、イスラエルを去らせはしない>。エジプトには80の偶像があり、その神々の頂点に君臨しているのがファラオです。だから彼は、いったいどんな神が自分よりも力を持っているというのか、またどんな神が自分に命令を下すことができるというのか、と言っているのです。
⦿この言葉に圧倒された2人は、<ヘブライ人の神がわたしたちに出現されました。どうか、三日の道のりを荒れ野に行かせて、わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください。そうしないと、神はきっと疫病か剣でわたしたちを滅ぼされるでしょう。>と語りました。
 さっきは、<イスラエルの神、主が>でしたが、<ヘブライ人の神が>と変わり、<神が私たちに現れたから来たのです。だから私たちの神、主に犠牲をささげさせて下さい>とお願いに変わり、私たちが滅びると、あなたの財産を失うことになります、と提案に変わってしまい、最初の言葉とはまるで語調が後退しています。
 これを見てファラオは、容赦ない命令を下します。藁を自分で調達し、これまで通りの数のレンガを造るというたいへんな労働強化を命じました。彼の言葉の背景に、すでにイスラエルの民が、解放の時が来たことを信じて労働を拒否するなどの動きが彼に伝わっていたし、その首謀者がモーセとアロンであることも報告されていたことが分かります。
 またエジプトの管理体制は、ファラオの下に監督(追い使う者)がいて、その下に人夫頭(下役の者)がいました。このような、ユダヤ人によってユダヤ人を支配するという体制は、ドイツのナチスの時代においても見られます。ナチスだけでなく日本でも、朝鮮総督府が朝鮮の若者たちを採用して、彼らに同じ朝鮮人を支配し管理させました。こういう体制が、古代エジプト帝国においてもあったのです。
⦿このような事態に直面したモーセとアロンは、絶望のどん底に突き落とされました。それが先ほどお読みした聖書の個所です。彼らが最も打撃を受けたのは、同胞たちの言葉でした。<あなたたちのお陰で、われわれはファラオとその家来たちに嫌われてしまった。彼らに自分たちを苦しめる口実を与えてしまった。>この言葉を聞いて、同胞たちがエジプト人に対してどんな思いを抱いていたかを知ったとき、モーセとアロンは本当にきつかったと思います。
 なぜなら、「あなたたちは、ファラオとその家来たちに嫌われたと思っているのですか。嫌うどころか、彼らはあなたたちを虫けらのように見ているのですよ。そして、虫けらのようにあなたたちを扱っているのですよ。……」そのような認識がない同胞たちの姿を見て、2人は、ファラオを相手にするよりもまず足下が問題だと思ったのではないでしょうか。
⦿そこで、<モーセは主のもとに帰って、訴えた。>とあるのを読んで、本当にモーセは救われたなぁと思うのです。これはモーセにとって、本当に幸いだと思います。一番つらい、一番どん底に突き落とされたときに、心から訴える相手が与えられていることが、ここで分かるのです。今日の聖書の言葉で、一番私たちに大きな教訓を与えているのは、このことだと思います。
 絶望のどん底にあるモーセが、<主のもとに帰って、訴えた>、つまり、主なる神の方に目を向けて、訴えました。「わが主よ。あなたはなぜ、この民に災いをくだされるのですか。わたしを遣わされたのは、一体なぜですか。わたしがあなたの御名によって語るため、ファラオのもとに行ってから、彼はますますこの民を苦しめています。それなのに、あなたは御自分の民を全く救い出そうとされません。」
 このモーセの訴えに対して、神は、断固とした、ゆるぎない言葉をもって応えました。これもまた、私たちは覚えたいと思います。「今や、あなたは、わたしがファラオにすることを見るであろう。わたしの強い手によって、ファラオはついに彼らを去らせる。わたしの強い手によって、ついに彼らを国から追い出すようになる。」
 つまり、私の計画は、どんなことがあってもゆるぎないと言われるのです。この断固とした言葉を、このようなときに語ったということ、これが本当に支えになる言葉だと思うのです。この一週間、モーセの言葉と態度と神の言葉を覚えつつ歩んでいきたいと思います。

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