2025年8月3日 聖書:出エジプト記6章1~13節「契約を語る神」川本良明牧師

⦿出エジプト記を取り上げて5回目となります。初めて聞く方もおられますし、毎回聞いておられる方も、思い出すために少し振り返ってみます。これは食事と同じで、食べたら栄養になっていますので、忘れても大丈夫です。しかし、前回までのことを簡単に言いますと、シナイ山で神の声を聞いたモーセは、エジプトで奴隷とされているイスラエル民族を解放するように命じられました。おどろいたモーセは、「私にはそんな資格はありません、それに神様の名前も知らないし、エジプトを相手に戦う力などありません。私は昔から弁は立たず口べたです」など、いろいろ拒みました。しかし、神は忍耐強く説得しました。それでついにモーセは、神がエジプトから呼び出した彼の兄アロンと一緒にエジプトに行きました。そして、イスラエルの長老や民たちに解放者として迎えられて自信を持った二人は、エジプト王ファラオに奴隷を解放するように求めました。
 ところが、ファラオの断固たる態度に直面しました。またファラオが、「レンガの量は今まで通り造れ。しかし藁は自分で調達せよ」という命令を下しました。これまでよりも一層過酷な労働を強いられたイスラエルの人々は、ファラオにではなくモーセに反発してきました。そのために絶望のどん底に突き落とされたモーセは、「主よ、あなたは何のために私を派遣したのですか。かえって事態は悪くなり、民は苦しんでいます。なぜあなたは救おうとしないのですか。あなたは約束を守られるのですか」と主に訴えました(5:22~23)。
⦿まさにモーセにとって信仰の危機でした。これに対して神は答えました。「今に分かる。ファラオは私の強い手で、イスラエルを去らせる。いや、出て行けと国から追い出すようになる。」そして、この後、神はモーセにおどろくべきことを語りました。それが6:2~8の神の言葉です。
 神は言われました、<私は主である>。シナイ山でモーセが神に名前を問うたとき、神は、<私はある。私はあるという者だ>と答えられました。<私はある=エヒエー>は、「~である、~となる、生きる命そのものである」という動詞ハヤーと「私は」が合成されたヘブライ語で、永遠の昔から存在し、満ち足りていて何の助けも要らず、どんな限界もないという意味です。そのギリシア語がエゴー・エイミで、ヨハネ福音書でイエスが何度もご自分を指して言われています。
⦿この<ある=ハヤー>という動詞から出てくる名詞が神の名ヤハウェで、旧約聖書に6828回も出てきます。日本語聖書では「主」と訳されていますが、ヤハウェは契約と深く関わる神の固有名詞なのです。シナイ山で神はモーセにご自分の名を<私はある=エヒエー>と名乗られましたが、今新しく<私は主である=私はヤハウェである>とご自分を示されたのです。
 しかも神はモーセに、ヤハウェという名の意味を説明するために6:2~8を語っています。だから、その始めと終わりで<私は主である>と語っているのです。
⦿まず神は、<私は、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れたが、主という私の名を知らせなかった>(3節)と語っています。たしかに、<主はアブラムに現れて言われた。「私は全能の神である。あなたは私に従って歩み、全き者となりなさい。私は、あなたとの間に私の契約を立て、あなたをますます増やすであろう。」>(創世記17:1~2)とあり、イサク、ヤコブにも同じように言われています。ただ創世記では、子孫の約束に関して使われています。
 ところで、<主という私の名を知らせなかった>と言われていますが、創世記には165回も出て来るので、彼らが知らなかったはずはありません。これは、アブラハムをはじめイスラエルの民が「主」という名は知っていても、その意味を体験的に知っていたわけではないということです。聖書に出てくる「知る」とは、<アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもって○○を産んだ>とあるように、単なる知識ではなく体験的に知ることです。先述したように「主=ヤハウェ」とは、契約と深く関わる神の固有名詞です。つまり、今モーセに語っている神は、一般的な「神」ではなく、アブラハム、イサク、ヤコブと契約を結んだ神ヤハウェなのです。
⦿その契約はアブラハム契約と言って、創世記12:1~3にあります。それは2つの命令とそれぞれ3つの祝福の約束から成っています。1つは、「故郷を離れ、親族を離れ、父の家を離れて、私の示す地に行きなさい」という命令で、そうすれば、①子孫を増やす、②土地を与える、③祝福を与えるという3つの祝福が約束されます。今1つは、「祝福の源となりなさい」という命令で、そうすれば、①あなたを祝福する者は、神から祝福される、②あなたを軽んじる者は、神から排除される、③全人類は、あなたによって祝福される、という3つの祝福が約束されます。この最後の③のお陰で私たち異邦人も神の祝福にあずかることができているのです。
 しかも、アブラハム契約は無条件契約です。一般に契約を結ぶ場合、お互いに約束を交わして守るもので、どちらかが破れば契約は無効になります。しかし、アブラハム契約は、彼、また彼から生まれる彼の子孫が、どんなに過ちを犯そうとも無効になりません。それが無条件契約なのです。神はどんなことがあっても契約を守る愛の神であり、絶対に信頼できる神です。この契約の神を、単なる知識ではなく、体験的に知るようになる、と神はモーセに語っているのです。
⦿まず神は4節でイスラエルとの契約にふれた後、<奴隷となっている彼らのうめき声を聞いて、契約を思い起こした>と語りました。「思い起こした」とは、「忘れていたのを思い出した」のではなく、具体的に行動を起こすという意味です。そして、①伸ばした腕と大いなる裁きによって、あなたがたを贖う(6節)と言われます。つまり、天から地上に腕を伸ばして、エジプトで10の災害を起こし、ファラオの長子を打って、イスラエルを奴隷身分から救い出すと言うのです。また、②主という神の名を体験的に知るようになって、<あなたたちを私の民とし、私はあなたたちの神となる>(7節)と語り、さらに、③アブラハム、イサク、ヤコブに語った約束の地を所有することになる(8節)と語りました。
 このように神は、全能の神から契約の神というご自分の名を新しく示して、何が何でもアブラハム契約を実現する強い決意を示されました。つまり、イスラエル民族をエジプトから解放することは、いったん約束したアブラハム契約の実現であって、神の栄誉に関わることなのです。
⦿神は、以上のことをイスラエルの民に語るようにモーセに命じました。しかし、イスラエルの民は聞こうとしません。そこで神は、「もう、民のことは放っておいて、あなたは、ファラオのところに行って説得しなさい」と言われますが、モーセは、「私は唇に割礼のない者です」と言っています。これは、「私は口べたです」という意味で、あのシナイ山で神の命令を拒んで言ったのと同じ言葉です。モーセは元の状態に戻って信仰の危機に陥っているのです。
 しかし、この後、モーセとアロンは、立ち上がります。そのことを聖書は、次にモーセとアロンの系図を紹介することで暗示していますが、それはともかく、二人はエジプト王ファラオの所に出かけ、大胆に対決することになります。来週、そのことを見ていきますが、今日私たちは、大変大切なことを学んだのではないでしょうか。
⦿イスラエルの民もモーセもアロンも、失意の中にありました。しかし、もしもイスラエル民族がエジプトから解放されず、異教世界に同化されて歴史から消えてしまえば、イエス・キリストの誕生はなく、教会の誕生もなく、人類は救われないままに終わってしまいます。それは、神に逆らい人類を破滅させようとする悪魔の思うつぼです。
 しかし、今日私たちは、神は全能の神であるだけでなく、契約の神であることを知らされました。神が全知全能、万物の造り主であることに変わりありません。しかし、神が契約の神ヤハウェであることを知りました。しかも神は、そのことを体験的に知らせるために、まずエジプトから脱出させることを、神の名誉にかけて実行されることも知りました。契約の神ヤハウェこそ真の神です。このことは世界のどの宗教にもないことです。私たちは、自分に信仰があるかどうかではなく、神を知るということ、神がどのようなお方であるかを体験的に知ることが重要なのです。
⦿神は、天から伸ばした腕でファラオの長子を打って、イスラエルをエジプトから救い出しました。この同じ神は、天から伸ばした腕でご自分の御子イエス・キリストを十字架において打ちました。そして御子が十字架で息を引き取ったとき、天から腕を伸ばして、神殿の垂れ幕を上から下まで真っ二つに裂きました(マタイ28:51)。そのように神は、全人類の罪を贖い、私たちの罪を赦し、幕屋の垂れ幕をなくして神との交わりを回復させて下さいました。
 また契約の神である主を体験的に知ることで、神は、<あなたたちを私の民とし、私はあなたたちの神となる>と約束されています。私たちキリスト者にとって最大なことは、天地創造の神が私の神となり、私たちが神の子となることではないでしょうか。そのために神は、人間となってこられ、十字架に死に、墓に葬られ、三日目に復活して天に上り、今も生きておられます。このことを信じるとき、永遠の命を約束されるばかりか、今この地上にあって、聖霊が内に住んで下さって、キリストの似姿に変えられて神の子とされる、つまり、これこそ、<あなたたちは私の民となる>という具体的な神の業なのです。
 ですから、契約の神を私たちは今日学びましたが、この契約は無条件契約であって、いったんイエス・キリストを信じて救われた者は、契約によって、神はどんなことがあっても私たちを神の子に成長させられます。ここで注意していただきたいのは、無条件契約とは、神が契約を結んだとき、その内容がそのときすべて実現するのではないということです。少しずつ実現するのです。アブラハムに約束された祝福は、彼の長い生涯の中で少しずつ成長させられ変えられていって実現されました。私たちも、イエス・キリストを救い主と信じて救われても、アダムの原罪を負っています。罪の体を持っていて、たえず罪に脅かされています。悪魔は救いを台無しにしようと企んでいます。その中にあって私たちは、絶対に約束を破らない神によって、救いから漏れることはないのです。いや、それどころか一歩一歩、神の子として成長させられていくのです。そのために私たちは教会に集められているのです。どうか、与えられた賜物を生かしながら、互いに愛し合いながら、この神の愛に応えていきたいと思います。

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