2025年8月10日 聖書:出エジプト記7章8から13節「ファラオと対決するモーセ神」川本良明牧師

⦿出エジプト記を取り上げて6回目です。いつものように文脈を確認したいと思います。シナイ山で神から、エジプトで奴隷となっているイスラエルの民を解放するように命じられたモーセは、兄のアロンと共にエジプトに行き、エジプトの王ファラオに神の言葉を告げました。
 ところがイスラエルの民は、王の命令でこれまで以上の重労働を課せられたためモーセに反発しました。それでモーセは絶望し、信仰の危機に陥りました。
 前回は、このモーセに神は、ご自分をアブラハム、イサク、ヤコブと契約を結んだ神であることを明かされ、いったん結んだ契約を実現することは、神の栄誉に関わることであり、何が何でもイスラエル民族を救い出す固い決意を示されたのでした。
⦿このことから私たちは、なぜ神がそれほどまでにこの民族をエジプトから解放しようとされるのか。それは、アブラハム、イサク、ヤコブと結んだ契約は無条件契約であり、その子孫からメシアとして世界に来られて、全人類を祝福に与らせ、罪から解放するためであることを知りました。
 事実、ユダヤ民族がエジプトから解放されたからこそ、その子孫からイエス・キリストが誕生し、私たちの罪のために十字架に死んで、墓に葬られ、三日目に復活して天に上られました。そして、このお方を信じるとき、私たちは罪を贖われ、天国に行くことが約束され、今この地上においても永遠の命を生きることができるのです。
 これこそアブラハム契約の延長として結ばれた新しい契約です。ですから、イエス・キリストを信じている私たちも無条件契約のもとに置かれ、イスラエル民族の祝福に与ることができるのです。それほどまでに私たちは神に愛され、神の子イエス・キリストの体である教会に集められています。この神の愛に、心をこめて感謝し、喜びをもって神を称えたいと思います。
⦿ところで、神の固い決意を示されてもなお信仰の危機にあるモーセに対して、神はモーセとアロンの役割を命じました。それは、神がモーセに語り、それをアロンがモーセから聞いて、エジプト王に伝えるというものです。
 そして神は、<私はファラオの心をかたくなにするので、あなたたちの言うことを聞かない。だから大いなる裁きによって私の民を導き出す>と言われ、<私がエジプトに対して手を伸ばし、イスラエルの人々をその中から導き出すとき、エジプト人は、私が主であることを知るようになる>と語りました。
 この<私が主であることを知るようになる>という言葉は、この後、王に対して何度も繰り返されていきますが、雹の災いのときには、<私のような神は、地上のどこにもいないことを、あなたに分からせる>(9:14)と最も強く告げられました。この主の言葉は、私たちへの言葉として、しっかり心に刻み込みたいと思います。
⦿モーセもこの言葉によって立ち上がりました。そして再び宮殿に行きました。このとき神はモーセに、<あなたはアロンに、『杖を取って、ファラオの前に投げよ』と言うと、杖は蛇になる>と告げていました。そこで、<モーセとアロンはファラオのもとに行き、主の命じられたとおりに行なった。アロンが杖を投げると、杖は蛇になった。>とあります。
 <主の命じられたとおりに行なった>ことが重要です。私たちもイエス・キリストを自分の救い主と信じたとき、自動的に聖霊が内住します。その実感がないでも、それを信じるとき次第に聖化されて、神の子の姿に変えられていきます。ですから何事においても聖霊に、「主の命じられたとおりに行ないますので、どうか導いて下さい」と祈ることが大切なのです。
⦿しかし、ファラオは動ぜず、魔術師たちを呼びました。彼らも杖を投げると蛇になりましたが、アロンの杖が彼らの杖を飲み込みました。それはコブラを化身とする偶像神に対する主の勝利を意味します。
 <しかし、ファラオの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞かなかった>とあります。これを見たモーセは、<主が仰せになったとおりだ>と分かり、もう動じることはありませんでした。そして、いよいよモーセとアロンがファラオと本格的に対決していくのをこれから見ていきます。しかし、<主は言われます。「私の民を解放せよ」と。>と何度告げても、エジプト王の心はおどろくほどにかたくなでした。
 そのため神の裁きは、10の災いにまで及びました。それは7:14~12:36に書かれています。これは、現代でもユダヤ人の過越の祭で語り継がれていて、まず最年少の子が、<この儀式はどんな意味があるのですか>と問うことから始まります。それで10の災いについても記憶しやすいように書かれています。それでその構造を簡単に紹介します。
⦿まず3×3+1=10から成っています。つまり、1セットに3つの災いがあり、3セットあるので9つの災いがあり、最後は初子の死の災いです。最初の1セットは、①血の災い、②蛙の災い、③ブヨ(害虫)の災い。次の1セットは、④アブ(昆虫)の災い、⑤疫病の災い、⑥腫れ物の災い。最後の1セットは、⑦ひょうの災い、⑧いなごの災い、⑨暗闇の災いです。
 またセットごとに1番目と2番目と3番目の形は決まっています。1番目の①④⑦は、「朝、王に警告し、災いが起こる」。2番目の②⑤⑧は、「時間は不明ですが王に警告し、災いが起こる」。3番目の③⑥⑨は、「警告なしに災いが起こる」となっています。
 また災害は、①②③は「アロンの手」、④⑤⑥は「主の手」、⑦⑧⑨は「モーセの手」が下されて起こります。さらに災いは、①②③はエジプト全土に及びますが、④~⑩までの災いは、その及ぶ範囲が区別されて、イスラエルの民は災いを免れています。
⦿この10の災いは、すべてエジプトの偶像の神々に対する裁きです。エジプト人にとってナイル川は命の源であり、「エジプトの母」として礼拝します。そして、それに関連した偶像神がエジプト中に満ちあふれています。これまでエジプト人は、長い歴史の中で、災いが起こると神々に助けを求めてきました。今回の災いにおいても人々は、災いから自分たちを守ってくれると信じて偶像神に助けを求めました。しかし神々は、その無力さを露呈して恥を受けたのです。
 ナイル川は、毎年定期的に上流で大雨が降ると、下流は増水で川幅が広くなります。増水は7月中旬に始まり3ヶ月後に水が引き始めると、土が肥えているので耕さないでそのまま種を蒔きます。最初の川が血に変わった災いは、赤潮という自然現象と考えられますが、今回は神の介入によってかつてないほどに真っ赤な血のようになり、また水が引いて種蒔きの時期になると蛙が現れますが、これも今回は神の介入によってかつてないほどの規模になったのです。
 ちなみに、最後の災いの前にイスラエルの民は過越の食事をしました。これは最古で最大の祭として今も春に行なっています。ですから⑩の災いは、約半年間に起こったことになります。この短期間に、エジプト帝国の偶像神が裁かれるのですが、最後に神々の中の最高の神ファラオの初子を打つことによって、主なる神は、<私のような神は、地上のどこにもいない>ことを、ファラオとエジプト人に分からせたのです。
⦿しかしイスラエルの民は、この「主の戦い」を知りません。なぜなら、彼らは第4の災い以降はエジプト人から区別され、最後まで災いを受けなかったからです。宮殿では、ユダヤ民族を奴隷身分から解放せず、徹底的に同化して歴史から消し去ろうとするエジプト王との「主の戦い」が行なわれていました。ユダヤ民族の抹殺はアブラハム契約の破棄であり、メシアは誕生せず、人類を救済する神の計画は台無しとなります。この策略の背後には、聖書が語る悪魔が働いているのです。
 そのことを知らずにエジプト王は、悪魔の手先としてモーセに逆らい、神に逆らっていました。このエジプト王との「主の戦い」を、イスラエルの人たちは知らないままにエジプトから解放されました。彼らが「主の戦い」を体験的に知るのは、後ろはエジプト軍、前は葦の海というあの絶体絶命の中に立たされたときでした。神がモーセに杖を上げさせると海が割れて、イスラエルの民はそこを通っていきました。このとき、人々は初めてモーセの権威を知り、神の力を体験的に知ったのです。それが「葦の海を通った」という意味です。
⦿私たちも、神の福音を聞いてキリストを救い主と信じる信仰を与えられたとき、この世から区別されました。日本は、エジプトとちがって春夏秋冬の比較的温暖な環境にあり、宗教的にも神々の種類は異なります。しかし、偶像崇拝が支配していることは同じです。むしろ日本では、ぬるま湯のような、また和を強く求める精神が支配的です。クリスマスの時期には賛美歌が流れ、キリスト教ブームになりますが、1週間も過ぎると約1億人の人たちが初詣で神社に参拝しています。そういう日本社会の中で教会は、「主の戦い」を体験しているでしょうか。
 もし「主の戦い」を体験的に知らないならば、この世に倣う者となります。白黒があいまいとなり、神学は難しいとして軽んじ、目の前の問題解決をクリスチャンの実践と思わされているのではないでしょうか。真理は単純です。白黒ははっきりしています。聖書を読み、神学を学び、真の神を体験的に知って、この地上にあって天国の望みと確信に生きることが大切です。しかもこれらすべてが、聖霊によって約束されていることを感謝したいと思います。どうかこの一週間、<主のような神はほかにいない>ことを確信して歩んでいくことを願っています。

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