2025年9月21日 聖書:出エジプト12章1~14「最初の過越祭(1)」川本良明牧師

⦿出エジプト記を取り上げて8回目です。いつものように文脈を確認したいと思います。
 400年間奴隷となっているイスラエルの民を解放するように神から命じられたモーセは、エジプトの宮殿に行き、エジプト王に、<イスラエル民族をエジプトから去らせて、荒れ野で主に仕えさせよ。>という神の言葉を告げました。しかし、王の心はおどろくほどかたくなでした。
 神はモーセに、<私は、王の心をかたくなにするので、私がしるしや奇跡を繰り返しても、王はあなたたちの言うことを聞かない。だから大いなる裁きによって、私の民をエジプトの国から導き出す>と告げていました。そのために、災いが10も起こりました。
 その10の災いは、出エジプト記7~12章にかけて書かれています。しかもその書かれ方が、3×3+1=10という考え抜かれた形式美ともいえる構造であることを知りました。前回は、第9の災いまでを見てきましたが、今回は、いよいよ最後の災いになりました。
⦿前回、暗闇の災いが3日間も続いたとき、エジプトの王はモーセを呼んで、「二度と余の前に姿を見せるな。今度会ったら、生かしてはおかない。」と言うと、モーセは「よくぞ申された。」と言って、王に主の言葉を告げました。
 その言葉は、11:4以下に書かれています。<真夜中ごろ、私はエジプトの中を進む。そのとき、エジプトの国中の初子は皆、死ぬ。王座に座しているファラオの初子から、石臼をひく女奴隷の初子まで。また家畜の初子もすべて死ぬ。大いなる叫びがエジプト全土に起こる。そのような叫びはかつてなかったし、再び起こることもない。>このような恐ろしい内容の警告を告げた後、モーセは、憤然として王のもとから出て行ったのでした。
⦿しかし、この主の言葉は、イスラエルの民にも向けた言葉でした。これまで第4の災い以来、神は、エジプト人に災いを下してもイスラエルの民には災いが及ばないように区別してくださっていることを、モーセは人々に知らせていたはずです。
 しかし、今回はこれまでと違って、警告を守るか否かを迫るものです。つまり、イスラエルの民を区別して災いから守ってきたのは、彼らが特別にエジプト人より優れているからではなく、神の栄光のためにそうしてきたのです。モーセは人々に主の言葉を以下のように告げました。
 ①この月を年の初めの月とすること。それはアビブ(ヘブライ暦)またニサン(バビロン暦)と呼びます。②1月10日に傷のない一歳の雄の小羊を選び、5日間見守り続けること。③14日の夕暮れに小羊を屠って、血を取り、その血を門柱と鴨居にヒソプで塗ること。④小羊の肉を焼いて、種なしパンと苦菜を添えて食べ、余った肉はすべて焼却すること。⑤食べる時、旅立つ恰好で急いで食べること。これが主の過越である。
 以上5つのことを告げた後、続けて、<その夜、私はエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。私は主である。あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、私はあなたたちを過ぎ越す。私がエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。>と主の言葉を告げました。じつに厳粛で厳格な警告です。
 「滅ぼす者」とは、死の天使のことです。時は真夜中、エジプト中で死の叫びが上がろうとしていました。その時、門柱と鴨居に小羊の血が塗られている家の前は、死の天使が通り過ぎるというのです。
⦿これは、ユダヤ民族が、これから3000年間、現在まで守り続けている最初の過越祭です。
 ただ形式は、時代と共に変化していきます。小羊の血を門柱と鴨居に塗るのは祭壇に注ぐだけとなり、現代では、晩餐式全体の流れとして継承されています。また、立って急いで食べるのも、横になって食べるようになります。種なしパンを食べることも7日間の除酵祭として守られていき、過越祭と言えば、小羊を屠ってから8日間を指しています。
 形式はともかく内容的には、ユダヤ民族にとって過越祭は、最も古く、最も重要な民族的祭であって、よほどのことがない限り絶やしたことはありません。長い歴史の中でユダヤ民族は、たえず抹殺の危機にさらされてきましたが、そのたびに過越の出来事を体験してきました。それはまさに神ご自身が、その絶対的な力によって過越の出来事をユダヤ民族の歴史の中で再現されてきたことを物語っているのです。
⦿過越祭が今日まで守り続けられているように、神がイスラエル民族を存在し続けているのは、彼らに特別な使命を与えておられるからです。それは、彼らが神の祭司となって、全人類を神の栄光を表わす神の子となるように導く使命です(出19:5~6)。
 そして神は、彼らがその使命を果たすようにと、ご自分の独り子を彼らのもとに送りました。しかし、残念なことに彼らはこの方を拒否し、十字架に殺してしまいました。
 ところが神は、彼らに用意していた祝福を、不従順な彼らに代わって異邦人に与えることにされました。そのお陰で異邦人の私たちが今、その祝福に与っているのです。
⦿新約聖書が伝えている、このおどろくべき神の恵みの計画は、神の子イエスご自身によって成し遂げられました。
 このお方が処女マリアから生まれて30年後、公の活動のためにその姿を現されたとき、人々は、この方が自分たちの救い主であることにまったく気づきませんでした。なぜなら、ガリラヤのナザレ村で大工職人として過ごしてこられたし、そのままの姿で現れたからです。
 しかし、神の霊を受けた洗礼者ヨハネは、イエスが自分の方に来られるのを見て、<見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ>(ヨハネ1:29)と証言しました。その3年後、神の恵みの計画を果たそうとするイエス・キリストの姿を福音書は伝えています。それをルカ22:7~20から見てみようと思います。
⦿ルカは、マタイ・マルコと違って、イエス自らが過越の食事を準備させたと書いています。そして、神殿で小羊が屠られる時に過越の食事を始めることで、まもなく十字架で血を流すご自分が、罪の贖いで屠られる小羊であることを示して、新しい契約を結ばれたのです。
 少し細かく聖書を見ますと、ルカ19:28にエルサレム入城のことが書かれています。この日が神殿で小羊を選ぶ1月10日(日)です。その5日後の14日(木)の午後3時ごろに小羊が屠られたとき、イエスは弟子たちと過越の食事をされたのです。その夕方から15日(金)となり、夜、ゲツセマネで捕縛、連行されて、15日(金)の朝9時~昼3時まで十字架にかけられ、死んで墓に葬られました。その夕方から安息日となり、16日(土)の夜、婦人たちが香料を買い入れ、翌日17日(日)の朝、イエスは復活されたのです。
⦿「最初の過越祭」から、今の私たちにとって大切なことを学びたいと思います。
 イスラエルの民は、「小羊の血を門柱と鴨居に塗るように」とモーセから告げられたとき、彼らは、それを神の言葉と信じて実行しました。それで死の過越を経験したのでした。そして、この出来事が、単に三千年前のエジプトで起こったことではなく、今の私たちにも直接関わることであることを福音書を通して知りました。
 なぜなら、私たちにとって小羊の血とは、イエス・キリストが十字架で流された血であるからです。これについてペトロは、<知っての通り、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、…きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。>と語っています(Ⅰペトロ1:18~19)。またパウロも、<パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか>(Ⅰコリント5:8)と勧めています。
⦿聖書を読み、聖書の理解が進むと信仰は成長します。信仰にも段階があります。
 ①二千年前のキリストの十字架の死は自分と何の関係もないという段階から、キリストの十字架の死は私のためだと信じる段階、②キリストの十字架の死を私の罪を贖うためであると信じる段階から、キリストの復活を事実と信じる段階、③復活を信じる段階から、聖霊の働きを信じる段階、④聖霊の働きを信じる段階から、聖化され、栄化の約束を信じる段階、⑤聖化と栄化を信じる段階から、キリストの再臨が事実起こると信じる段階、⑥キリストの再臨を信じる段階から、千年王国が来ることを信じる段階(黙示録20章)、⑦千年王国が終わり、最後の裁きが行なわれた後、新天新地が現れ、新しいエルサレムが天から降ることを信じる段階(黙示録21~22章)です。
 「ヨハネの黙示録」は書名であって使徒ヨハネの書ではありません。その1:1には、<イエス・キリストの黙示>とあります。つまり、イエス・キリストが語った言葉なのです。そのイエス・キリストの言葉をあまりにも軽んじていないでしょうか、今の教会は。そのことを私たちはもう一度考える必要があると思います。
 最後の「新しい天と新しい地が来る」ということを信じる段階まで信仰が成長するように、ぜひともイエスさまに祈り願いたいと思います。そして、大切なことは、聖書の学びがあってこそ教会も成長するということです。もっともっと神の言葉が語られ、神の言葉を信じる人たちが集められる教会に成長するにはどうしたらいいのか。それは、聖書を学ぶしかありません。そのことを今日あらためて、過越祭を通して確認したいと思います。

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