⦿出エジプト記を取り上げて9回目です。ここであらためて出エジプト記を簡単にふれておきます。まず聖書の最初の創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記の5つは、本来1つの書として書かれていました。著者はモーセです。それでこれを「モーセ五書」と呼びます。
彼は、ユダヤ民族が奴隷とされて絶滅の危機にさらされていた時代に生まれました。生まれて3ヶ月後にナイル川に捨てられたところをエジプト王女に拾われ、数奇な人生をたどることになり、80才になって神から召命を受けて40年間、ユダヤ民族と共に歩み続けた人です。
だから、出エジプト記から後の書巻は書けますが、それ以前のことは書くことができません。彼の手許には、言い伝えられてきた沢山の記録がありました。それを利用して編集する彼を用いたり、直接語りかけた神によって創世記は書かれたのです。
モーセがこれを書いた目的は、約束の土地を前にしたイスラエルの新しい世代に、民族としての自覚を持たせるためでした。彼らは、出エジプトのときは、子どもあるいは荒れ野で生まれた世代の人たちでした。ですから彼らには、人類の始まりやイスラエル民族の成り立ちを知って、約束の地でイスラエル人としての使命に生きる目的を知る必要があったのです。
⦿そのことは、今の私たちにとても大切なことを教えてくれます。今日の日本は、伝達手段が発達したお陰で情報が溢れていますが、そのために何が本当なのかが信じられなくなり、かつてないほどに不確実性と不信感が広がっています。教会でも人間論がはびこり、神や神の業に目を注ぐよりも人間の内面を重視して、そこから人生の目標や心の平安を求める傾向が強まっています。社会一般で言えば、自己啓発やスピリチュアルティーといった言葉がはやっていますが、教会でも内面化する傾向が強くなっています。
異教世界エジプトで400年もの奴隷生活をしてきたユダヤ民族も、先祖からの言い伝えやユダヤ人としてのしるしである割礼などをしっかりと守りながらも形式化してしまい、主なる神や神の業を忘れ、契約の民としての自覚を失っていました。しかし神は、彼らの先祖との約束を片時も忘れてはいません。ご自分の計画を実現させるためにモーセを選び、彼を通してアブラハム契約が生きていることを示そうとしました。
⦿創世記で、人類一般の歴史として、①天地創造、②アダムとその家族、③ノアとその家族を書き、次にイスラエルの歴史として、①アブラハム、②イサク、③ヤコブ、④ヨセフの物語を書き終わったモーセは、出エジプト記で3つのことを書いています。①エジプトで苦しむイスラエル民族(1章~12:36)、②エジプトからシナイ山に移動するイスラエル民族(12:37~18章)、③神と契約を結ぶイスラエル民族(19章~40章)です。
そして今日は、今年の3月以来取り上げてきた①の最後のところに来ています。モーセが<イスラエルをエジプトから去らせて、荒れ野で主に仕えさせよ>という神の言葉をいくら告げてもエジプトの王は拒否しつづけてきました。なぜならエジプトの王は、エジプト帝国を根柢から支えている数多くの偶像神の頂点にあるため、かたくなに拒みつづけるわけです。これに対して神は、わずか半年の間に次々と災いを下して、とうとう最後の恐ろしい災いを下すことになりました。それが初子の死でした。
⦿先ほどお読みした聖書の最初の言葉は、原文では、<そして、起こった、真夜中に、直ちに、主は、撃った、エジプトの国のすべての初子を>と生々しく書いています。身分や地位に関係なくエジプト人のすべての家で起こったことを、詩編105:36は<主はこの国の初子をすべて撃ち、彼らの力の最初の実りをことごとく撃たれた>と書いています。さすがにエジプトの王は、モーセとアロンを呼んで全面降伏し、私の民の中から出ていけ、行って主に仕えよ、家畜も連れて行け、私をも祝福せよと命じたのでした。
その一方でイスラエルの民は、モーセを通して命じられた神の言葉を信じて、小羊を屠ってその血を門柱と鴨居に塗りました。そして、エジプトを出た後の食糧として酵母のない練り粉を急いで作り、過越の食事をしたのでした。
彼らは、エジプトの王が全面降伏し、ついに奴隷の家、エジプトから解放されたことを知ったとき、大歓声を挙げました。そして、神の言葉を信じる信仰を身をもって体験した彼らは、この出来事を過越の祭りとして制度化しました。まさに過越の祭りは、イスラエル民族としての出発点となり、今日まで3千年にわたって祝ってきたのです。
⦿この過越の祭りは、イスラエル民族の側から見ると、政治的な独立の祝いではなく、死から守られたことを祝うものです。と同時に過越の祭りは、神の側から見ると、アブラハム契約が実現した出来事なのです。
神は400年前、アダム以来の原罪に苦しむ全人類を救うために、罪人の1人であるアブラハムを特別に選んで、①土地と②子孫と③祝福の3つを約束されました。この3つは、それぞれ別々に歴史の中で具体化していきますが、最後に全体が1つに総合される約束なのです。
ですから、いろんなところで少しずつ総合されることが見られます。例えば、土地と子孫の約束については、70人のイスラエルが増えて民族になりましたが、その民族の生活場所としての土地がやがて約束の地に入って広がっていくことになります。また祝福もアブラハムとつながる人たちが祝福され、ユダヤ民族の中で広がっていきますが、やがて他の民族へと広がっていきます。
アブラハムを通して人類を救う約束をした神は、アブラハムの子孫であるイエス・キリストを通して全人類を救う道を開かれました。アブラハム契約は無条件契約です。たとえイスラエル民族がどのような状況になっても決してこの約束は破られることはありません。私たちの立場からすれば、イエス・キリストによって建てられている教会は、たった1つの教会から始まりましたが、今や全世界に広がっています。ですから、アブラハム契約のもとに全人類は祝福されることになり、また生活場所であるこの地上も祝福され、今はまだイエス・キリストを認めていないユダヤ民族も、やがて祝福されることが起こります。しかもこの遠大なおどろくべき計画は、神ご自身によって成し遂げられていくのです。私たちはまだこのことを見ていませんが、やがてそのことが起こることを信じることが赦されているのです。
⦿新約聖書は、最初の4つの福音書でイエス・キリストの生涯を伝えています。この方が30才になって公の活動を始めたとき、すでに洗礼者ヨハネが神の霊を受けて、「神の国が近づいた。悔い改めよ」と言って洗礼を授けていました。
そこへイエスが来られて、彼から洗礼を受けた時、ヨハネは驚くべき光景を神から示されました。それは、聖霊が鳩のようにイエスの上に降ってくるのを見たのです。また天から「これは私の愛する子」という声が聞こえました。ヨハネは、父なる神の声と鳩のような聖霊と人間イエスという三位一体の神を目の当たりにしたのです。ですから彼は、目の前のイエスを見て、<見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ>と証言したのです。
そこで質問ですが、なぜヨハネはイエスを「小羊」と呼んだのでしょうか。他の呼び方でなく、なぜ小羊と呼んだのでしょうか。それは、ヨハネは生粋のユダヤ人であり、子どもの時から旧約聖書を学んでいるし、ユダヤ民族の生活習慣の中で育てられた人です。イスラエル民族の出発点である過越祭で小羊が屠られ、今日まで3千年にわたって小羊が屠られていることを見て、ヨハネは、あの小羊こそキリストの型であると確信していたのです。だから彼は<見よ、世の罪を取り除く神の小羊>と言ったのです。たしかにイエスご自身も<人の子が来たのは、多くの人の身代金として自分の命を献げるためである>(マタイ20:28)と言われています。
⦿私たちはヨハネと違って、このお方が十字架に死んだ後、復活したことを知っています。つまり、キリストは人間イエスとしてこられる前、どこにおられたのか。ユダヤ民族の中で働いておられたのです。彼が復活したということは、姿は見えないけれども、過去において、イスラエル民族の歴史の中で働いておられたことを意味します。だからこそ、あの小羊はキリストの型であると私たちは確信することができるのです。
そして復活したイエスは、天に昇られるとき、弟子たちに<私は大いなる力と栄光を帯びて雲の乗って来る>と約束されました。キリストが再び来られることを「キリストの再臨」と言います。これに対して処女マリアから生まれて世に来られたことを「キリストの初臨」と言います。
福音書が伝えているのは、初臨のキリストであって、その姿は小羊です。僕として、仕えるお方、人の子としての姿です。それに対して再臨のキリストを伝えているのが黙示録です。その姿は、愛に基づいた裁き主であり、全能者で、王であり、神の子の姿です。この初臨と再臨、小羊と裁き主、福音書と黙示録の違いは非常に大切です。じつは3世紀ごろまでは当たり前であったキリストの再臨は、他の聖書解釈と同じように比喩的に扱われるようになり、15世紀までは語られなくなりました。16世紀の宗教改革で再発見されましたが、不完全に終わり、現代でもほとんど語られていないか、語られても比喩的に解釈されていることはじつに禍であると言わざるを得ません。
⦿エジプトに対する「初子の死」の裁きは、真夜中に起こりました。主イエスの再臨も真夜中ごろにやって来ます。イエスは何度も<目を覚ましていなさい>と語っています。
これについてパウロは、Ⅰテサロニケ5章1~6節で勧めています。少し長いですが重要な言葉ですので全部お読みします。<兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです>。この「主の日」が主の再臨のことで、当時はそれが起こることを当たり前として信じていたのです。<人々が「無事だ。安全だ」と言っているその矢先に、突然、破滅が襲うのです>。これはエジプトで起こった初子の死と同じです。<ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。私たちは、夜にも暗闇にも属していません。従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう>。
最初に日本の現状として、目標を失い、不信感が漂っている現実についてふれました。しかし、私たちは、キリストの再臨を信じるとき、本当の希望を持つことができます。慈愛深い主の再臨を心から感謝をもって、共に待ち望みたいと思います。そして、不安を抱き、人生の目的を求めている人たちに、このことを証しできればと願っています。
定例行事
- 聖日礼拝
- 毎週日曜日10:30~
- 教会学校(子供の礼拝)
- 毎週日曜日9:30~
- 祈祷会・聖書研究会(午前の部)
- 毎週水曜日10:30~
- 祈祷会・聖書研究会(夜の部)
- 毎週水曜日19:30~
その他の年中行事
- チャペルコンサート(創立記念)
- 毎年8月下旬
- チャペルコンサート(クリスマス)
- 毎年12月23日
- クリスマスイブキャンドルサービス
- 毎年12月24日夜