⦿いつものようにこれまでの文脈を確認します。聖書の最初の5つの書巻は、「モーセ五書」と呼ばれているように、著者のモーセがこの「五書」を書いた目的は、約束の土地を前にしたイスラエル民族の新しい世代に、民族としての自覚を持たせるためでした。
彼らは、エジプトを出たときには子どもであったか、或いは荒れ野での40年間に生まれた世代でした。だから彼らは、人類の始まりやイスラエル民族の成り立ちを知って、約束の地に入ってから神に選ばれた民としての使命に生きる目的を知る必要がありました。
モーセは、創世記を書き終えて出エジプト記になると、次の3つに分けて書いています。①エジプトで苦しむイスラエル民族(1章~12:36)、②エジプトからシナイ山に移動するイスラエル民族(12:37~18章)、③神と契約を結ぶイスラエル民族(19章~40章)。
⦿今礼拝では、出エジプト記を最初から読んでいます。これまで、イスラエル民族が古代エジプト帝国において400年以上も奴隷として苦しんできたことを見てきました。
その中で、エジプトの政治的、経済的、軍事的、文化的といったあらゆる面を根柢から支えているのが宗教であることを知りました。エジプトに住む人々にとってナイル川は「いのちの母」です。ですから、それに関連した数多くの神々を生み出して、それを基にした宗教がエジプトを支えていたのです。
その宗教の具体的な権威を与えられていたのが祭司階級であり、その頂点に祭祀王権を帯びたエジプト王ファラオが君臨していました。聖書が伝える主なる神が、その深い計画に従ってイスラエルの民を移住させたのは、そのようなエジプトの地でありました。
このエジプトで長い間奴隷とされ、過酷な重労働によって存在の危機にさらされたイスラエル民族が神に助けを求めたとき、神はモーセを選び、エジプトに遣わしました。そして、10の災いをもってエジプトの神々を裁きました。
その最後の裁きによって、エジプト人の家のすべての初子が死に、エジプト王の長男も死んだとき、王はモーセを呼んで、イスラエルの民も家畜も皆、エジプトから出て行くように命じました。
⦿今日お読みした聖書の個所は、イスラエルの民がエジプトを出発する場面です。かつて70人でエジプトに移住したイスラエルの一族は、神の祝福によって今や徒歩の壮年男子だけで約60万人、女性や子どもまで入れると約200万人の民族にまでなっていました。
しかし、出エジプト記1章~12章までをいくら読んでも、彼らが武器を持って戦った形跡はどこにも見当たりません。聖書が伝えているのは、災いによる神の裁きだけです。しかも第4の災いからは、災いを受けるのはエジプト人だけという神の業が働いていました。そして最後の災いのときには、小羊を屠り、その血を家の門柱と鴨居に塗るだけで、初子の死を免れたばかりか、イスラエル民族は奴隷身分からも解放されたのでした。
こういう戦いは、およそ私たちが考える「戦い」ではありません。ですから、こんなことが本当にあったのだろうかと疑いたくなるのは当然だと思います。
⦿この出エジプトの出来事について、私たちは真剣に問わなければなりません。いや逆に、この出エジプトの出来事において聖書は、今の私たちに何を求めているのかを考えなければなりません。その第1の点は、これが作り話ではなく歴史的な事実であることを認めることです。
イスラエルの民は、真夜中にエジプト中で死の叫びが上がったとき、すでにモーセを通して語られた神の言葉を信じて、小羊の血を塗り、その小羊の肉と酵母のないパンで過越の食事をしながら、自分たちが死から守られたことを実感しました。
だからこそ彼らは、この出来事を過越祭として制度化し、絶滅を免れた民族存在の出発点としました。そして過越祭を今日まで3千年にわたって守り祝っています。この事実を見るだけで、出エジプトの出来事が歴史的な事実であることを証明しています。
⦿また出エジプトの出来事が求めている第2の点は、これが「神の戦い」であるということです。もちろん「神」といっても、エジプトの神でも世界の宗教が崇めている神々でもありません。聖書の神であり、イエス・キリストによってご自分を示された神です。この神が、イスラエル民族を約束の地に導くためにエジプトから救い出し、奴隷身分から解放したのです。
<剣をとる者はみな、剣で滅びる>(マタイ26:54)。これは、ユダヤ人の指導者たちが夜、イエスを捕まえて連行しようとしたとき、弟子のペトロが剣を抜いて一人の耳を切り落としたときに言われたイエス自身の言葉です。私たち人間が考える戦いとは違った「神の戦い」によって、イスラエルの民は、強大な帝国であるエジプトの支配から解放されました。
ですから、「人間性を取り戻す」とよく言われます。宮田教会で言えば、「炭鉱労働者の人間を回復する」という言葉を私たちは覚えていますが、イスラエル民族の「神の戦い」による解放こそ人間性を回復する真の戦いではないかと思います。
⦿ヘブライ語の聖書の各書巻は、最初の2文字を書名にしています。たとえば創世記は、ベ・レシース「はじめ・に」の2文字が書名です。出エジプト記は、「その名は・次のとおり」の2文字が書名ですが、これでは内容が分かりません。しかし、70人訳聖書(ヘブライ語をギリシア語に訳した聖書)は、ギリシア語の「エクソダス」が書名です。それで英語聖書などの書名も「エクソダス」です。エクソダスとは「脱出・出発」を意味します。だから日本語の「出エジプト記」は、ふさわしい書名であると言えます。
それはともかくとして大切なのは、私たちの出来事としての出エジプトです。たしかに、今からおよそ3300年前に起こったイスラエル民族の出エジプトは、エクソダスの歴史的な事実であり、人類史上最初の奴隷解放が神の力によって起こった出来事です。しかし神は、そのことを私たちに対する印として起こされたということを考える必要があります。
イスラエル民族の出エジプトは、私たちの出エジプトの印(しるし)なのです。「印」とは印鑑を押して写される印字のことです。印である印字には印鑑という本物があります。つまり、私たちの出エジプトの本物が、イスラエル民族をエジプトから脱出させた神の業なのです。ですから神は、私たちのために、おどろくべき素晴らしい出エジプトを起こされているのであって、私たちはそのことを聖書から学ぶことが求められているのです。
⦿新約聖書には、ひじょうに大切なところで「エクソダス」という語が3回使われています。そのことを見てみたいと思います。
1つ目は、ヘブル11:22<信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子らの脱出について語り、自分の遺骨について指示を与えました>です。
これは創世記50:25の個所と重なりますし、出エジプト記13:19でも同じことが書かれていて、どれも「脱出」と訳しています。ですからエクソダスが出エジプトのことであることがはっきりと分かります。また、およそ4百年前の遺言が神によって実現されており、神は真実であり、約束したことを必ず守られるお方であると述べています。
2つ目は、ルカ9:29~31<祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた>です。
「最期について」の「最期」は「エクソダス」という語です。ですからイエスは、「死について話していた」のではないのです。他の福音書は「語り合っていた」とだけ書いていますが、ルカ福音書が「エクソダスについて話していた」と書いているのは、十字架上で成し遂げられたキリストの贖いの業のことを見すえているからです。
事実、この十字架の死の後、神はイエスを復活させられました。そしてキリストの死が、私たちを罪から解放する贖いの業であることを宣言されました。ですから、キリストの十字架の死は、単なる悲劇ではなくて、私たちを罪から解放する出来事なのです。
3つ目は、Ⅱペトロ1:13~15<私は、自分がこの体を仮の宿としている間、あなたがたにこれらのことを思い出させて、奮起させるべきだと考えています。私たちの主イエス・キリストが示してくださったように、自分がこの仮の宿を間もなく離れなければならないことを、私はよく承知しているからです。自分が世を去った後もあなたがたにこれらのことを絶えず思い出してもらうように、私は努めます>です。
ペトロは、「体を仮の宿としている」また「仮の宿を間もなく離れる」と2回「仮の宿」と言っているように、自分はまもなく世を去ると言っています。また「これらのことを思い出させる」と3回も語っている「これらのこと」とは、その前の3節~11節で語っていることです。ペトロは、自分が生きている間、ぜひとも「これらのこと」を思い出させて励ましているのです。
また「私たちの主イエス・キリスト示してくださったように」とは、かつてイエスがペトロに、<あなたは、年をとると、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる>と言われたことを指しています。ですからペトロは今、死を予感しているのですが、「自分が世を去った後もこれらのことを絶えず思い出すように」と励ましていて、少しの悲壮感も感じられません。しかも「世を去った後も」の「去った」は「エクソダス」です。彼は自分の死を「エクソダス」と語っているのです。
<エクソダス><出エジプト><私たちの死>…これらを考えると、イエス・キリストを救い主と信じた者にとっては、死は脱出であり、旅立ちであり、解放なのです。死とは、新しいいのちつまり永遠の命に新しく生きるために死ぬのです。だからクリスチャンは、イエス・キリストを救い主として信じた者は、死ぬときに本当に安らかに、平安のうちに、眠っているようになります。だからパウロは何度も、死を「眠っている」と言っているのです。死は、脱出、エクソダスなのですが、このことについては11月の永眠者記念礼拝において御言葉を与えられたいと願っています。
定例行事
- 聖日礼拝
- 毎週日曜日10:30~
- 教会学校(子供の礼拝)
- 毎週日曜日9:30~
- 祈祷会・聖書研究会(午前の部)
- 毎週水曜日10:30~
- 祈祷会・聖書研究会(夜の部)
- 毎週水曜日19:30~
その他の年中行事
- チャペルコンサート(創立記念)
- 毎年8月下旬
- チャペルコンサート(クリスマス)
- 毎年12月23日
- クリスマスイブキャンドルサービス
- 毎年12月24日夜