⦿11月の第一日曜日である今日は、イエス・キリストを信じてその生涯を終えられた信仰の先達を記念して礼拝を行います。日ごろは生活に追われ、健康や仕事やお金のこと、また人間関係などで心奪われている私たちです。しかし、1年に1度の永眠者記念礼拝で、亡くなられた方々のことを思い、あらためて自分自身の生と死に向き合うことができることは本当に感謝であります。
聖書には、<良い評判は高価な香水にまさり、死ぬ日は生まれる日にまさる。祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。>という言葉があります。これを語っているのは、紀元前千年ころにイスラエルに現われたソロモン王です。
⦿彼は、「ソロモンの栄華」と言われる莫大な富と最高の権力と地位を持った王でしたが、何よりも最大の知恵者と言われています。その彼が、神を抜きにした人生を探求した結果、次のように語っています。<空の空、コヘレトは言う。空の空、すべては空である。>
これを聞くと『般若心経』にある「色即是空」を思い出しますが、同じ「空」でも全く違います。「色・即是・空」とは、この世には絶対的な実体はなく、すべてのものは変化してやまず、すべては縁起によって存在するという教義です。
しかしソロモンが、<空の空、空の空。すべては空である>と語っているのは、「人生の最後は死である、死んだら何もかも終わりであって、限りなく空しい」と言っているのです。
⦿しかし、一般的に言って私たちは、日ごろは死を避けているのではないでしょうか。平安初期の歌人在原業平は、「つひにゆく、道とはかねて、聞きしかど、昨日今日とは、思はざりしを」と歌っています。誰もが最後に通る道とは以前から聞いていたけれども、まさか自分にとってそれが昨日今日とは思わなかったという辞世の歌です。どんなに逃げようとしても逃げられないのが死です。
私は4才の時にこの空しさに襲われました。その後も突然襲ってきて、「いかに長生きしても最後は消滅する」ともがき続けますが、楽しいことに思いを馳せるとふっと消えてしまうのです。
⦿先ほどソロモンが、「神を抜きにした人生の空しさ」を語ったことを紹介しました。そこで神の言葉である聖書から生と死を考えたいと思います。今日の聖書の個所は、イエスが2人の犯罪人とともに十字架につけられている場面です。死の苦しみの中にある2人の犯罪人が、イエスを前にして対照的に描かれています。
当時のユダヤ人たちは、神が約束していたメシアが来ることを切実に待っていました。メシアとはキリストのことです。人々はイエスを見て、初めはメシアが現われたと思ってぞくぞくと彼のもとに集まって来ました。ところがやがて、彼らが描くメシアとはまるで違うことに気づきました。それで犯罪人の1人も十字架の周りに集まった人々も皆、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」とイエスをののしり、あざ笑い、侮辱したのです。
ところが、もう1人の犯罪人は、「この方は何も悪いことをしていない。」と彼をたしなめた後、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、私を思い出して下さい」と言いました。彼はイエスに向かって、「あなたはメシアです」と信仰を告白しているのです。それを聞いたイエスは彼に言われました。<はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる>と。
⦿この犯罪人もイエスも十字架上で死を迎えようとしている、まさにそのときイエスは、<あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる>と言われます。ぜひこのことを憶えて下さい。臨終の床でイエスは傍らにおられ、<あなたは今日私と一緒に楽園にいる>と言われます。
聖書は、「死は分離である」と語ります。まず「神との分離」があり、次に「肉体と魂の分離」があります。もともと人間は、土の塵で肉体を造られ、命の息を吹き込まれて生きる者となりました。魂と肉体が1つである体として造られているのです。そして人間は、神と人格的な交わりに生きる者として造られました。
ところが、最初の人間アダムが悪魔に「神になろう」という誘惑を受けて、食べてはならない木の実を食べました。神の戒めを破るという罪を犯したのです。この罪を犯したとき、神から切り離されました。この神から分離した状態を霊的死と言います。そして、霊的死と同時に本来1つである魂と肉体の分離も始まり、肉体と魂は互いに独立して対立し、体は病んでいきます。そして、やがて完全に分離して肉体の死が訪れます。ですから、「人は死んだら終わり」という考え方も「死んだら魂は消滅する」という見解も聖書的ではないのです。
⦿人は皆、生きてはいても霊的には死んでいます。そして、やがて肉体の死がやってきます。しかし、イエスをメシアとして認め、信仰を告白した犯罪人は、イエスを通して神との交わりを回復したと同時にイエスから、<今日わたしと一緒に楽園にいる>と約束されました。楽園の原語はパラダイスです。本来パラダイスとは、イエスがいるところなのです。
ところで今読んでいる聖書の個所は、イエスが死を遂げようとしている十字架上の場面ですが、私たちはすでに、この後イエスが死んで、墓に葬られ、3日後に復活されたことを知っています。そして、彼の十字架の死が、私たちの身代わりとなって神に裁かれ、神から分離している私たちを神と和解させ、神との平和をもたらして下さったことをすでに知っています。
⦿イエスを救い主として信じ、神との平和を得ている私たちは、死ぬと同時に直ちに魂が天に挙げられます。天とは、普通見える天ではなくて多次元の世界であり、パラダイスです。地上生涯を終えると直ちに魂は、主がおられるパラダイスに運ばれるのです。私たちが「死んだら天国に行く」と言っているのは、確実な根拠を聖書が語っているからです。
ところで犯罪人と一緒にパラダイスに行かれたイエスは、3日後に復活されました。弟子たちは、復活したイエスを見て「亡霊だ」と恐れました。イエスは、「私の手や足を見なさい。まさしく私だ。亡霊には肉も骨もないが、私にはそれがある。」と言って手と足を見せました。それでも信じられないので、「何か食べ物がないか」と言われたので、焼いた魚を差し出すと彼らの前でそれを食べました。復活とは肉体と合体した体です。別の言葉で言うと「栄光の体」と言います。
それで聖書は、イエスのことを死者の中からの「初穂」と言っています。初穂であれば後に続くものがあります。それが私たちなのです。パラダイスにいる残りの魂もやがて復活するときが来ます。新約聖書のテサロニケ第1の手紙4章13~18節にそのことが書かれています。その内容を簡単に言いますと、イエスを信じて死んでパラダイスにいる人の魂は、まだ肉体と合体していませんが、やがて肉体と合体するときが来ると、栄光の体に変えられます。またそれが起こるときに地上で生きている人たちも、栄光の体に変えられます。そして、栄光の体に変えられた人たちは皆、天に上げられ、空中でキリストに会うことになると書かれています。
⦿じつに信じられない、おどろくべきことですが、たとえ信じられなくても聖書はそのように語っているのです。聖書の神は、私たち人間をご自分の形に創造されました。私たちは1人では生きられません。互いの関係の中で生きています。
そのように人間を造られたことでわかるように、聖書の神は、「私とあなた」と呼びかける人格的な性質をもっておられるお方です。私たちは、神に呼びかけ、願い、打ち明け、愛するように神から求められているのです。ですから祈るのです。仏教はお経を読み上げ、イスラム教はコーランを朗唱し、ユダヤ教は祈祷書を読み上げ、いずれも自発的に呼びかけ祈ることはしません。しかし、私たちキリスト教は、神に呼びかけ、神に祈ります。ですから、臨終のあえぎの中で「イエスよ、私を忘れないで下さい」と願う犯罪人に、イエスは、<あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる>と同じ苦しみの中で言われました。これこそ人格的な関係の中で、イエスに慰められ、希望を与えられたのです。
⦿このように、一度信仰と恵みによって救われた人は、その人がどんな生涯を送ろうとどんな道を歩もうと、神は永遠にその救いを保証されます。あの犯罪人は、イエスをメシアと信じたことで救われ、その魂がパラダイスに運ばれました。
しかし、私たちには、それ以上のチャンスが与えられています。もし、「イエスは、私の罪のために死に、墓に葬られ、3日目に復活して今も生きておられる」ということを信じるならば、霊的な死から解放され、肉体と魂の分離はいやされていきます。そして、死ぬと直ちにその魂はパラダイスに運ばれ、やがて時が来ると、栄光の体に復活し、永遠の御国に生きる者とされるのです。このイエスを信じて生涯を送られた信仰の先輩たちも、やがて時が来れば復活して、お互いに相見えるときが来ます。これが私たちの本当の希望です。永眠者記念礼拝の今日、私たち一人ひとりに人生のチャンスが与えられたことを心から感謝したいと思います。
定例行事
- 聖日礼拝
- 毎週日曜日10:30~
- 教会学校(子供の礼拝)
- 毎週日曜日9:30~
- 祈祷会・聖書研究会(午前の部)
- 毎週水曜日10:30~
- 祈祷会・聖書研究会(夜の部)
- 毎週水曜日19:30~
その他の年中行事
- チャペルコンサート(創立記念)
- 毎年8月下旬
- チャペルコンサート(クリスマス)
- 毎年12月23日
- クリスマスイブキャンドルサービス
- 毎年12月24日夜