⦿今、礼拝では出エジプト記を取り上げて、最初から読み進めています。聖書を読む場合、前後の文脈から読むことが大切です。出エジプト記は3部から成っています。第1部が4百年間、エジプトで奴隷とされて苦しむイスラエル民族のことが書かれています。第2部は12章37節から始まり、そのエジプトから解放されてシナイ山に移動する旅が書かれています。この後シナイ山に到着して神と契約を結ぶことになりますが、今はエジプト脱出と脱出後を見ています。
今からおよそ3300年前、少なくとも2百万人を超える60万世帯ものイスラエル民族が、モーセに率いられて古代エジプト帝国から解放されました。彼らは、ラメセスからスコトに向かって行きましたが、神がモーセを通して「葦の海に通じる荒野の道に迂回」させられたので、エタムで宿営し、さらに葦の海に面したバアル・ツェフォンで宿営しました。ここでイスラエルの民は、大変な体験をすることになりました。それが前回読んだ14章です。
⦿神の裁きで初子の跡継ぎを喪ったエジプト王は、「モーセもイスラエルもこの国から出て行け」と命じたのですが、心変わりして精鋭部隊を率いて海辺に宿営するイスラエルの民に迫ってきました。海を前に絶体絶命の窮地に立たされたとき、神が火と雲の柱でエジプト軍を遮りました。
そこで、モーセが杖を高く上げると、突然海が左右に分かれて道ができ、イスラエルの人々は、乾いた地に変わった海の道を通って無事に向こう岸に渡り終えました。そして、モーセが海に向かって手を差し伸べると、水は元に戻り、それでもなお後を追って海に入ったエジプト軍を水が覆い、1人も残らず飲み込まれたのでした。
⦿出エジプトの核心部分であるこの出来事が、作り話でも比喩でもなく歴史的出来事であることは、いくら強調してもしすぎることはありません。自然現象で海が陸になる所は世界にいくつかあります。また激しい東風が吹いたので海が陸となったと解釈する人もいます。しかし聖書は、<主が激しい東風をもって海を押し返した>と語っています。また<水は右と左に壁になった>と2回も書いています。これは普通ではありません。そして決定的なのは、<主は、その日、イスラエルをエジプト人の手から救い出された>という言葉が、これ以後イスラエルの信仰告白となり、あらゆる機会に言い表されていることです。その多くある中の1つを紹介します。
<主は、御名のために彼らを救い、力強い御業を示された。葦の海は主に叱咤されて干上がり、彼らは荒れ野を行くように深い淵を通った。主は憎む者の手から彼らを救い、敵の手から贖われた。彼らを苦しめた者はすべて水に覆われ、生き残る者はひとりもなかった。彼らは御言葉を信じ、賛美の歌をうたった。>(詩編106:8~12)。
この超自然的な世界が自然界に介入することで起こった神の贖いのわざを信じることができなければ、聖書が伝えているあらゆる奇跡を否定することになります。神が土の塵にすぎない人間となってこの世に来られたクリスマスの出来事も、またキリストが十字架に死んで3日目に復活した出来事も、そのまま信じることができなくなります。このことを考えると、出エジプトの核心部分である<海の中を通って行った>というイスラエルの解放の出来事は、大変なことを私たちに伝えているのです。
⦿この後、モーセとイスラエルの民は歓喜の声をあげて歌いました。男性たちが歌い、それに合わせて女性たちが小太鼓を手にして、踊り歌いました。15章の前半12節までは神ヤハウェの勝利を、後半の21節までは贖われた神の民が神の住まいに導かれることを歌っています。
ここでヘブライ語聖書の原文を読むと、21節で一区切りしています。そして次の22節は、<さて、モーセはイスラエルを、葦の海から旅立たせた>とあるように、無理矢理出発させたように書かれています。人々はいつまでも解放の喜びに浸っていたのでしょう。
次に何をすべきかが見えている指導者にとって、このままでいたい、動きたくないという人々を動かそうとすることは非常に困難です。ましてや勝利と賛美に酔いしれている人々に対してはなおさらです。
⦿しかし、これとは順序が逆のこともあります。かつて体験して作られた歌が先にあって、その歌詞の内容にある体験がないままに歌う場合です。イスラエルの歴史には、そういうことが起こったために、神が預言者を通してきびしく糾弾しています。例えばイザヤ書1章に、<むなしい献げ物を再び持って来るな。香の煙は私の忌み嫌うもの。新月祭、安息日、祝祭など、災いを伴う集いに私は耐ええない。お前たちの新月祭や、定められた日の祭りを私は憎んでやまない>と言われています。神殿で行なわれている礼拝ですから、当然歌も歌われていましたが、空しい歌声と形式化した礼拝が糾弾されているのです。
これは教会にとっての印です。礼拝は賛美歌に始まり賛美歌に終わると言われています。しかし、聖歌隊も生まれないほどに貧弱になっている教会の場合、歌よりもまず悔改めて主の業を知り、福音を体験して、自ずから賛美するまでに教会が成長することが求められるのではないかと思います。神は預言者を通して、じつにきびしいことを語られるのですが、そこには深い神の愛が働いていることを見落としてはなりません。
⦿さて、イスラエルの民は出発しました。まず直面したのは飲み水です。シュルの荒野へ向かって3日間、水がなく、やっとマラという所に水があったので、飛びつくように口にするや吐き出しました。苦くて飲めなかったのです。そして人々は、歌い踊った3日前とは打って変わって、モーセに不平を言いました。<何を飲んだらいいのか>。
するとモーセは、水を求めて走り回るよりも、即主に叫びました。すると神はモーセに1本の木を示し、それを投げ込むと、飲めるようになりました。<水は甘くなった>と書いていますが、天然水のようになって甘く感じたのだと思います。そして、ひじょうに大切なことは、水を得てやっと落ち着いた人々を見て、神がモーセを通して掟と法を語られたことです。
それから人々は、マラを出発してエリムに着きました。するとそこには、12の泉と70本のなつめやしがあり、彼らはそこでしばらくの間宿営しました。12と70はヘブライ語の完全数です。ですから暗に<十分に休んだ>と語っているのです。
⦿<マラとエリム>の出来事を振り返ると、神はイスラエルの民を訓練していることが分かります。大きな文脈で見ると、イスラエルの民はアブラハムの子孫です。神はアブラハムと無条件契約を結びました。ですから、彼らがどのような状況になっても、無条件に彼らを祝福すると約束されています。つまり、彼らは神の御心によって支えられ、生かされ、恵みのもとにおかれている民族です。彼らがエジプトから解放され、自由になったのは、この無条件契約によっているのです。
人間の目で見る限り、そのことは見えませんが、イスラエルの歴史の舞台裏では、神が働いておられるのです。そのことをはっきりと見すえていたのはモーセでした。イスラエルの人々は、水や食べ物や休むことなど近視眼的にしか見えていません。しかしモーセは、神がイスラエル民族を全世界に奉仕する祭司の国民にするために、シナイ山に導いて律法を授けようとしておられることを知っていたのです。
⦿このように神から使命を与えられ、エジプトを脱出してシナイ山に向かっているように、キリストを信じている私たちは、天のエルサレムに向かって歩んでいます。そして、神の栄光を現わすために教会に集められ、全ての人にキリストの福音を伝え、キリストの救いにあずかるように愛を実践する力を一人ひとりに与えられています。
たしかに人生にはさまざまな試練があります。しかしそれは、イスラエルの民と同じように神の訓練なのです。アブラハムの無条件契約のもとにあるイスラエルの民に対しては、神は、<主の声に聞き従い、掟を守るならば、幸せにし、病をいやす>と語られます。しかし、教会に対しては、「人生には苦難がある。それはあなた方を訓練するためである」と言われます。イエスご自身が、<あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている>と言われました。またイエスの実の弟ヤコブも、<試練に出会う時は、無上の喜びと思いなさい>と言っています。試練そのものを喜ぶのではありません。試練が喜びの土台となることを覚えなさいと言っているのです。
⦿ところで、イスラエルの人々の旅には、さらに厳しい訓練が待っていました。それが、今日最初の部分だけお読みした16章に書かれています。エリムを出立してシンの荒野へ向かったとき、エジプトを出てからちょうど1ヶ月で、あの種なしパンが尽きてしまうころです。飲み水も尽きていたでしょう。食糧と水の不安に直面した彼らは、今回は、モーセだけでなくアロンにも不平を言っています。「あのときは鍋に肉がたくさん入っていた。パンを腹いっぱい食べられた」と言っていますが、本当にそうでしょうか。「あなたたちは、この全会衆を飢え死にさせようとしている」と言っていますが、多くの家畜がいます。
このように、不平が強く大きくなってくると、昔はよかったと過去を美化します。また食糧はまったくないとずいぶん誇張しています。そして何よりも、モーセとアロンに目を向け、ますます神を見失っていきます。それがまた不安を高めるのでした。しかし、モーセとアロンはしっかりと神に繋がっていて、祈りました。すると、驚くべきことが起こりました。
再び超自然の世界が自然界に侵入してくる出来事が起こったのです。今度は海ではなく天からパンが降ってきました。これをマナと言います。ここで神は、イスラエルの民を本格的に訓練するわけですが、これは16章全体に及びますので、次回取り上げたいと思います。ただその前に知っておかねばならない大切なことがあります。それは自由についてです。
⦿自由には、「~からの自由」と「~への・~に向かっての・~を選び取っていく自由」という2つの面があります。イスラエル民族は、エジプトから解放され、奴隷から自由の身となりました。この自由を得たとき、どんなに喜び、嬉しかったことか。自ずから歌が溢れ出ました。しかし、それだけで満足することに留まったとき、試練に遭うと、再び奴隷に戻ろう、エジプトに戻ろうとしました。これに対して神は、彼らをより高い人間にしようと、掟と法を示されました。その集大成が、シナイ山でモーセを通して授けた律法であり、それが「~への自由」なのです。
このことは私たちにも言えます。イエス・キリストは、真の神でありながら私たちと同じ人間となって、神に従順に生きて、私たちには絶対にできない十字架の恥辱をも耐え忍んで、罪を犯されなかった真の人間です。この真の神であり真の人間であるお方を信じるとき、私たちは罪の奴隷から解放されると同時に、私たちを神の子としてくださるのです。ちょうどイスラエルの民を奴隷から自由にしたと同時に十戒を中心とする律法を授けて神の民となる自由を与えたように、イエス・キリストは、私たちを罪から解放すると同時に聖霊によって命の律法に生きる神の子となるように導いてくださるのです。
⦿先ほどの賛美の問題と同じように、神から「~からの自由」を与えられながらもそこに留まるならば、無律法に生きることに陥ります。クリスチャンには2通りあって、一方では、「クリスチャンらしくなるために、聖くなるために、ああしなければいけない、こうしなければならない」といって苦しむ信者がいます。パウロはこうした律法主義と戦かいました。ファリサイ派的なクリスチャンと戦ったのです。しかしもう一方では、「救われたから自由である。だから何をしても良い」という無律法の信者がいます。ヤコブはこうした無律法のクリスチャンと戦ったのです。
ですから神は、私たちを<~から自由にしてくださる>と同時に、無律法に生きることに留まらせないで、<本当の律法、愛の律法、命の律法に向かって生きるように>聖霊を通して導いて下さるのです。そのために、土の塵に過ぎない人間となってこられたイエス・キリストに、心から感謝したいと思います。
定例行事
- 聖日礼拝
- 毎週日曜日10:30~
- 教会学校(子供の礼拝)
- 毎週日曜日9:30~
- 祈祷会・聖書研究会(午前の部)
- 毎週水曜日10:30~
- 祈祷会・聖書研究会(夜の部)
- 毎週水曜日19:30~
その他の年中行事
- チャペルコンサート(創立記念)
- 毎年8月下旬
- チャペルコンサート(クリスマス)
- 毎年12月23日
- クリスマスイブキャンドルサービス
- 毎年12月24日夜