2025年12月21日 聖書:マタイによる福音書2章19~23節 「今を感謝し、神の時に生きる」川本良明牧師

⦿一般に12月25日をクリスマス、24日夜はイブと分けていますが、聖書の1日の数え方によれば、24日の夕方から25日の夕方までがクリスマスです。またその日は、キリストの誕生日ではありません。誕生ではなく降誕を祝う日です。<降誕>とは、天から降ったことと母の胎から誕生したことが同時に起こったことを表現しています。
 聖書に<初めに>という言葉が2回出て来ます。旧約聖書の最初の、<初めに天地を創造した>(創世記1:1)と新約聖書の最初の、<初めに言があった>(ヨハネ福音書1:1)です。このどちらが早いと思いますか。後者です。なぜなら<言は神と共にあった。言は神であった>と続けているからです。しかも、<この方は、初めに神と共にあった>(1:2)とあり、さらに、<言は肉となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た>(1:14)と語り、最後に、<いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである>と語って、言がイエス・キリストのことであることを証言しています。
⦿イエス・キリストとは、アレクサンダー大王の「アレクサンダー」が人名で「大王」が職名であるように、<イエス>はユダヤ人ではありふれた名前ヨシュアのギリシア名、<キリスト>はメシアという職名のギリシア語訳です。<この方が神を示された>とあるように、この神こそ<初めに天地を創造された>神であって、天地の全てのものは皆、この神に造られたものです。ですから私たち人間は、人間が造った偽物の神ならともかく天地を造った真の神を知ることは、神の方からご自分を示してくれない限り知ることは出来ません。
 ところが聖書は、神の方からご自分を示されたと語ります。その始まりが、イエス・キリストの降誕物語です。ヨハネ福音書が、<言は肉となって、私たちの間に宿られた。>と書いているのをマタイとルカ福音書は、処女マリアの胎に宿って生まれたと語っています。
 神がご自分を示されたといっても、私たちが知ることができ理解できなければ何の意味もありません。しかしそのために神は、まず言葉で語りかけるお方として現われました。それだけではなく精神の肉体というからだとなって現われました。つまり、人間の歴史や社会、文化や習慣に身を置いてご自分を示されたということです。だから神は、いつの時代であろうともどんな環境にあろうとも、その人に合わせてご自分を示されます。それは、今日の私たちについても同じです。
⦿しかし、降誕物語自体は、ルカとマタイはまったく異なります。今日は取り上げませんが、ルカ福音書は、1章でマリアの受胎告知があり、2章でイエスがベツレヘムの家畜小屋で生まれ、天使のお告げと賛美を聞いた羊飼いたちが、飼い葉桶に寝ている乳飲み子を訪問したことを生き生きと伝えています。
 一方マタイ福音書は、1章で系図と婚約時代にマリアが妊娠して苦悩するヨセフが書かれ、2章で、それからおよそ2年後のことが書かれています。<ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった>ことは書いてありますが、イエスを乳飲み子ではなく<幼子(パイディオン)>と9回も書いています。また家畜小屋ではなく<家>と書いているので、およそ2才のイエスがベツレヘムの岩穴(家畜小屋)ではなく、どこかの家で生活していたことが分かります。
⦿聖書を正しく読むために今ひとつ大切なことは、これを歴史的事実として読むことです。今、宮田教会の礼拝では、出エジプト記を読んでいます。前回は、およそ2百万のイスラエルの人々が、海が分かれて右と左に壁となり、乾いた地となった所を通ってエジプトを脱出したという、出エジプトの出来事の核心部分を読みました。
 この出来事が、作り話でも比喩でもなく歴史的出来事であり、この超自然的な世界が自然界に介入することで起こった神のわざを信じることができなければ、聖書が伝えているさまざまな奇跡も、キリストが十字架に死んで3日目に復活した出来事も、そのまま信じることができなくなると語りました。それは、イエス・キリストの降誕物語についても言えるのではないでしょうか。
⦿4つの福音書は皆、神に選ばれたユダヤ人が書いたものです。しかし、ユダヤ民族としては、イエスをキリストと認めず、殺してしまいました。そのために神は、ユダヤ民族に約束している神の恵みを異邦人に与えるために、聖霊によって教会を誕生させました。そこで教会は、イエスによって選ばれた使徒たちとユダヤ人信者によって始まりましたが、やがてイエスを救い主と信じる異邦人信者が急速に増えていきました。
 そして教会は、残念ながらユダヤ的なものを排除していきました。それは、すでに紀元2世紀ごろから始まっていましたが、ローマの国教になってからは、ギリシア的な思想が発展し、聖書が伝えている奇跡や歴史的出来事が比喩的に解釈されるようになりました。さらに近代になって科学思想が発展すると、自由主義神学が教会の中に浸透しました。こうしてキリスト降誕物語は、星や羊飼い、東方の占星術師、飼い葉桶、ヘロデ大王などは材料として残しながらも神話や作り話となり、これが歴史的事実であると言えば、一笑に付されてしまう有様となりました。
⦿しかし、聖書は字義通りに読む、つまり手紙や小説を読むのと同じように、著者の意図に沿って読むことが必要です。マタイは、福音書をユダヤ人向けに書いています。彼らは皆、神の約束であるメシア預言を信じていました。だからマタイは、イエスこそ約束のメシアであることを一貫して書いているのです。このマタイの意図に沿って2章を読むことが大切です。
 まず東方の占星術の学者たちが登場します。聖書で「東方」と言えばバビロニア、現代のイラクのことです。彼らがメシアの誕生を予想できたのは、およそ4百年以上前、バビロンで捕囚民の一人であった預言者ダニエルが占星術師の長だったからです。彼はバビロンの王から特別に取り立てられた学者であって、学者たちは彼の預言書を読んでいました。特にダニエル9:24~37を読んで星の出現を予想し、現に星が現われたとき、およそ2年の準備をかけてエルサレムを訪問しました。キャラバン隊を組んでやって来た彼らに、人々は仰天したはずです。
⦿彼らはイエスを訪問すると、黄金、乳香、没薬を献げました。彼らがこの3つを献げたのは、メシアにふさわしいと考えたからだと思いますが、マタイはこのことも含めて、4回も<預言が成就した>と書いています。1つは、メシアの降誕する場所についてミカの預言の成就、次にエジプト脱出についてホセアの預言の成就と書いています。エジプト脱出とは、イスラエルの民がエジプトから解放された出来事で、これは神の子イエスの解放を示し、エジプトとはヘロデのことです。難を逃れた貧しい家族が異教の地で生活できたのは、学者たちの贈物のお陰です。次にベツレヘムの2才以下の男の子の皆殺しについてエレミヤの預言の成就と書いています。
 そして最後に今日お読みした個所です。<ナザレの人と呼ばれる>と書いていますが、ナザレは旧約聖書にも他の文献にも見当たらない全くの無名の地です。しかし、具体的な預言者の名前をあげずに<「預言者たち」を通して言われていたことが実現するためであった>と書いています。それは、メシアが無名の地ナザレで成長することは、「聖書全体の預言を総合すればうなずける」という意味をこめて書いているのです。そして聖書がイエス・キリストの降誕を、「預言の成就である」と語っていることは、開祖や教祖によって生まれている世界の宗教とは決定的に異なっていることを示しています。
⦿これまでマタイ福音書第2章を通して、クリスマスの内容を見てきました。教会は、イエス・キリストの降誕を、この世の「時間」において見ると同時に「神の時間」として見ています。クリスマスは「神の歴史」において新しい時代が来たということです。なぜなら神は、天地創造以来ご自分の計画を着実に進めておられるからです。イエス・キリストが降誕した出来事は、まさに聖書が最初に預言している戦いが、最後の局面を迎えてきたことを意味しています。
 その預言は、創世記3:15に書かれています。神は天地を創造し、最後に人間を創造して、エデンの園で畑を耕して生活するようにしました。しかし、残念ながら人間は、悪魔にそそのかされて神になろうとして神に背きました。そのために、人間の心は神から離れ、人間同士も互いに対立するようになりました。それに対して神は福音を預言しました。蛇を使って人間を誘惑した悪魔に対して、<お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に私は敵意を置く。彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く。>というものです。<女の子孫>とはキリストのことを指しています。<彼は悪魔の頭を砕き、悪魔は彼のかかとを砕く>とは、キリストが十字架に死ぬことによって悪魔を滅ぼし、復活して罪と死に勝利することを預言しているのです。
⦿悪魔は、占星術師たちが新しい王の誕生に関心を持つのを、じっと注視していました。ところが彼らが、新しい王がキリストであることを知り、彼らによってヘロデ王が知り、イスラエルの民が知るようになると、悪魔は危険を感じて活動を開始しました。キリストを抹殺するために、悪魔はヘロデ王を使って2才以下の男の子を皆殺しにしましたが、失敗しました。イエスの家族がエジプトにいる限り、悪魔は危険を感じないし、手を出す根拠を持ちません。根拠がないのにキリストを殺すことは、神に対する悪魔の敗北だからです。
 イエスは、残酷なヘロデ王の手を逃れて異教の地エジプトに行きましたが、イスラエルに戻り、聖書を学び、ユダヤ人として生活し、真の神であり真の人間として成長しなければなりません。そのためにイエスは、イスラエルに帰ってきました。ところが悪魔は、イスラエルに戻ってきたイエスの家族が、無名の地ナザレで生活し、そこで成長するイエスを襲うことはできません。襲う理由がないからです。そこで悪魔は、イエスが成長するのをじっと注視していきました。イエスが公の活動をしない限り、悪魔は危険を感じることはなかったからです。
⦿そして私たちは、30才になったイエスが公の活動を始められたことを知っています。バプテスマのヨハネから洗礼を受けると、にわかに悪魔は活動を始めました。荒野で3つの誘惑をしました。しりぞけられた悪魔は、ずっとイエスを誘惑して人間であることをやめさせようとしました。ついに十字架にかけられたとき、<お前が神の子ならば十字架から降りたらいいだろう>とののしりました。それが最後の悪魔の誘惑でした。イエスは十字架から降りませんでした。
 私たちは、すでに悪魔との戦いに勝利したイエスを信じています。イエスがベツレヘムで誕生し、全ての人を救うために苦難の死と復活の生涯を送られたことについても私たちは知っています。しかもその生涯は、神が天地を創造する初めから計画されていたことでした。それが、<初めに言があった。言は神と共にあった。…言は肉となって、私たちの間に宿られた>ということです。福音書は、このイエスの十字架の死と復活の勝利を振り返って書かれています。そればかりか勝利者イエスは、今は神の右に座しておられますが、やがて再びこの世界に来られることを約束されました。ですから私たちは、単にキリストが降誕したことを祝うのではありません。このイエスは、すでに私たちの罪を贖って勝利されているのです。だからこそ私たちは、このお方を信じる者として、このお方が再びこの世界に来られることを待っています。これが本当のクリスマスです。イエス・キリストの再臨を待ちながら、クリスマスを祝いたいと思います。

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